プロローグ1・「むかしむかし、あるところに」
たとえば、こんなお伽噺。
むかしむかしのお話か、つい最近のことかは語らない。しかしそこには、小さいけれど一つの王国が存在した―――
森に囲まれたその国の民は皆屈強で、強い心を持っていた。国王はそんな国民を心から愛し、国民もまた国王を敬愛していた。
外国からの侵入を阻む深い森の豊かな自然の中で、王国は平和な暮らしを保っていた。
時の国王は、国の更なる発展のために貿易を行おうとしていた。それには国民の協力が絶対であるが、国王には確信があった。
国民は自分の声にこたえてくれる、と。
それには国王自身も、王宮暮らしができなくなるかもしれないほどの金がかかるが、国王はそれでもよかった。
民を愛するなら、同じ立場になろう。貴族たちも理解してくれるだろう。私が説得して見せる。そんな心構えであった。
実際、反対する貴族は現れたが、王の熱意に負けた。大臣も家臣らも、王宮に使える召使も兵士たちも、もちろん彼が愛した国民も、王の提案を受け入れた。
しかし、一人息子の王子だけはこれに反対であった。
なぜ自分が今の暮らしを捨てなければならないのか、自分はそんなことをしたくない。その旨を聞いた国王は、王子を王宮から離れた塔に軟禁した。
「お前に、この国を預けるわけにはいかないようだ」
国王は静かにそう告げて、貿易の準備に取り掛かった。その夜王子は看守から、王が自分を次期後継者として認めないと宣言した、と告げられた。
せまく、暗い、冷たい部屋で、王子は一人呪いの言葉を吐き続けた。
今の暮らしを捨てることも嫌だ。貿易が成功すればまたもとの暮らしに戻す事も出来る。だが、その間の我慢もできない。したくない。それを乗り越えたとしても、後継者にならなくてはそれすらも叶わない。
ああ、憎い、くそっ! なぜ自分がこんな目にあわなくてはいけないのだ。
「ここから出してくれ!」
王子の叫びは、石の壁に反響して木霊する。まるで何人もの囚人が一斉に声を上げたような響きは、塔の外にも聞こえてきた。
それは、ちょうど塔の上空を通りかかったとある悪魔の耳にも届いた。
「だれだい? こんなところで叫んでいるのは?」
「お前は誰だ!」
突然現れた悪魔に、王子は悲鳴を上げた。
そのとき悪魔は王子よりも真っ黒な子供の格好をしていたので、王子は熊が自分を襲いに来たのではないかと思ったのだ。小さな幼子を獣と見間違えるほどに、王子の精神は追い詰められていた。
月光のために顔はよく見えないが、鉄格子の向こう側でぎらぎらと光る二つの燐光から目が離せなくなった。
「この姿が恐ろしいのかい?」
王子ががたがたと身を震わせるのを見て、悪魔は指を鳴らした。
すると、悪魔は王子の目の前にいた。金髪に白い正装の男の姿になって、悪魔は笑っていた。
「さて、質問だよ。お前はだれだい?」
「俺は、王子だ」
「王子? この国のかい?」
悪魔はへらりと笑う。やつれた顔の埃まみれの王子は、悪魔を睨みつけた。
「お前こそ、何者だ」
こんな状況でもプライドの高い王子は、自分から悪魔に歩み寄ってそう言った。
「俺かい? この通り、悪魔さ」
一瞬、悪魔の両目が赤くいびつに光った。
この王子様は腰でも抜かすか? と内心期待していた悪魔は、王子がにやりと笑ったことに驚いた。
「悪魔か、そうか悪魔か!」
王子は悪魔の両肩を掴んで、けたけたと笑った。王族特有の美しい顔立ちが無残にも歪み、悪党の面になった。
「よし、悪魔。俺と契約しろ」
「ほう」
「悪魔は、契約して俺の望みを叶えるのだろう?」
正確には「俺」こと目の前の王子一人限定ではなくて、人間全般が対象なのだが、悪魔は黙っておいた。
奢り高ぶった人間ほど、見ていて面白いものはないからだ。
「なにがお望みだい?」
「まず、俺をここから出せ。そして、国王を殺せ」
迷いのない声に、悪魔は疑問の声を上げる。
「おや? まずは肉親殺しか」
「うるさい、黙れ!」
王子は燭台を投げつけた。それは悪魔の顔のすぐ横を飛んで、床に落ちた。悪魔は一歩も動かなかった。
ただ、王子を見つめている。
「そして、俺がこの国の王になる」
「それだけか?」
「ああ。叶えられるのだろう」
王子はすっかり上機嫌になった。
「それでは、こちらも代償をいただこうか」
「代償、だと?」
王子は信じられないといった顔をする。
「見返りなしにはなにもしない。それは人間が一番よく知っているはずだが?」
「たしかにそうだな……うむ。よし、人間をくれてやる」
「人間? この国の人間か?」
「悪魔の好物だと聞いた。それでいいだろう?」
「いくつだ?」
王子は人差し指を突き出した。
「一割だ」
悪魔が首を横に振ると、中指も上げる。それでも頷かないのでしぶしぶ薬指まであげると、ようやく頷いた。
「三割だ。それ以上貴様にやるものなどない」
頼みごとをする相手―――悪魔に対する物言いとは思えないほどおごり高ぶった口の利き方だ。だが、それでもいいかと悪魔は思う。
自分の腹が満たされればそれでいい。人間と同じだ。
王子はさっそく部屋の扉を開けさせると、壁に掛けてあった剣を一振り、看守を殺した。鮮血が顔にかかり、王子が後ずさる。怖気づいたかと悪魔が声をかけるが、王子の表情は恍惚としていた。
悪魔によって一瞬で王宮に戻った王子は、血濡れた腕をそのままに、王座に座る国王につかつかと歩み寄った。
「お前、どうしてここに!?」
国王は己の剣に手を伸ばそうとしたが、身体が動かない。無論、姿を隠した悪魔が腕を抑えつけているためだ。何も知らぬ国王は、見えない力―――王子によって体が蝕まれているのだろうと考えただろう。あながち間違いではない。
「国王、いや父上」
王子は剣を振りかぶり、唇をゆがめた。
「さらばだ」
ばさり。
振り下ろされた剣は国王の首を胴体から断ち切った。ほとばしる血しぶきが王座に振りかかり、真っ赤に染まる。それは抑えていた悪魔も同様だった。純白の装束が血で染まり鮮やかであるのがかえって恐ろしい。
「最後の台詞は必要だったのか?」
「永久の別れだからな」
爽やかな笑顔で王子は微笑む。これでは国王志望なのか役者志望なのか曖昧ではないだろうか。悪魔は口元に飛んだ鮮血を舐めとった。
「さあ、これでこの国は俺のものだ。俺の……俺のものだ!」
「この死体はどうするんだ?」
振り返った王子の鼻先に国王の死体を突きつけると、王子は鼻で笑って父親に唾を吐いた。
「くれてやる。喰うなりなんでも好きにしろ」
「どうも」
王子は血まみれの王座に腰掛けて腕を組み、満足げな顔をする。かつての国王と同じ景色が広がっているかは、なぞだ。
悪魔は国王の身体を頭から食していった。若い身体に比べれば味は劣るが、完食した。
翌朝から、王子は国王となった。といっても、即位したわけではない。悪魔の力で周りの人間に国王だと錯覚させたのだ。
「新しい貿易の内容を変更する」
国王は黄金の椅子に座り、黄金の杯を片手に高らかに告げた。
「我が国は、奴隷貿易を行う」
宣言されたそれは、大臣をはじめ家臣たちを震撼させた。
奴隷貿易――つまり、国民を売り物にするのだ。
屈強な身体の人間なら、それだけで高い値がつく。少しくらい人口が減っても、移民を受け入れればいいだけのことだ。
国王となった王子は父親の顔を使って、そう宣言したのだ。
もちろん何人かの大臣らは抗議の声を上げたが、その瞬間、悪魔によって首を切り落とされた。耳をつんざく悲鳴が広間に木霊する。
「我に逆らう者、皆こうなると思え」
もう、逆らう者はだれも現れなかった。
それからの王子――国王はどんどん国民を売っていった。
国民達は逃げることも逆らうこともできずに、奴隷となっていった。売られる国民は皆高い値がつき、国はたちまち豊かになっていったという―――
物語は、始まったばかり。