堕ちたのは君の真実と、
「吉川ー、」
聞き慣れた声が、やる気のなさそうに私を呼ぶ。
HRを終えた3年1組の教室で、必要な物だけを鞄に詰めている最中のことだった。
“晴日先生”が教室の入り口から少しだけ顔を出し、太陽に透けるような癖毛をぴょこぴょことさせながら教室の中を覗いている。
「明日の授業で頼みたいことあるから顔貸してくれ。」
いつもの調子でこちらの都合をまったく無視したその言葉に、何度目になるかわからない溜め息を吐いた。
この春からここで働くようになった晴日先生は、何かにつけて用事を作っては学校はどうだのオレの先生っぷりはどうだの、果ては今日のおかずのことまで口に出し、“先生”になりきれない“近所のお兄さん”を披露する。
それも、おかずの内容を聞いてくる日には決まって家に顔を出すんだからちゃっかりしているったりゃありゃしない。
「……はーい、」
最後に古典の辞書を鞄に入れながら諦めの境地で返事をすると、目的地へ向かうために出入口へと歩き出した。
放課後の教室で帰途につく生徒が疎らになってきたクラスのみんなにとっても、これは特段気にすることもないいつもの光景だった。
――…まったく、なんだってこんな厄介事を背負わなくちゃいけないんだか。
私と晴日陽介は、所謂“幼馴染”という間柄だった。
小学校への入学と同時にこの町へ引っ越してきた私たちの斜向かいに、当時17歳の高校生だった陽介率いる晴日家が建っていたのだ。
時々構ってくれる10コ以上も歳の離れた彼は、今思うと常に気まぐれな性格だった。
いつもは友だちだったり彼女だったりが彼の周りには常にいて、一人っ子だった私は家に帰ってもずっと自分の部屋の中で過ごしていた。
そんな私に、時折ふと一人になった彼が声をかけてくる時があったのだ。
本当に猫のような気まぐれさで相手をしてくれたりしなかったり。
この町に慣れてきた私が友だちと遊ぶようになってからは、そんなふうに会うこともなくなっていったのだけれど。
だから、彼が高校を卒業してから地元を離れたと知ったのも、暫くして親がぽろっとこぼした時だった。
―――それが、“先生”になって、またこの町に戻ってくるなんて。
「千菜?」
千菜都という私の名前を短くして呼ぶのは、彼の昔からの癖。
こんな所で呼ぶ名前じゃないと何度も言っているのに、直す気がないのか、いつまで経ってもその呼び名が変わることはなかった。
ちなみに、私の言うことをちっとも聞いてくれない彼のことは、意地でも『晴日先生』と呼んでいる。
「それで?今日は、どんな用事なの?」
国語科の準備室として割りあてられた室内には、私と先生以外に人は見当たらない。
古典や漢文、現国の準備室として存在するはずのこの部屋は、職員室から距離があるせいか、専ら彼の専用部屋となっている。
「いや、別に用ってほどの用はないんだけどさ。」
格好いい方に分類されるのであろう彼の顔を縁取る睫毛が、その長さを主張するように数度瞬きを繰り返した。
その行為が、いつも言いにくいことをどう切り出そうかと悩んでいる時に現れる癖だと気が付いたのはいつのことだったろう。
「たいした用がないんだったら、帰っていいよね?」
そう言うと、目の前の先生は不機嫌も顕わにムスッと押し黙る。
夏休み前のこの時期、クーラーの付いていないこの部屋に長い間居座っても湯だるだけだ。
夏服仕様とは言っても、通気性の悪い制服を着続けなければいけないこちらの身にもなってほしい。
…あれ、だから他の先生たちはクーラー完備の職員室に集ってるってこと?
この人もどうして態々こんなに暑い部屋に好き好んで居続けてるんだろうと考えたところで、先生が口を開いた。
「なにそれ。昔はよーくんよーくんって言いながらオレの後付いて回ってたくせに生意気。」
「いや、何捏造しちゃってるの?この暑さで頭でも沸いた?どうせ呼び出すなら職員室にしてくれれば何時間だっていてあげたのに。」
まったく、数少ないこの学校の冷房と言う名のオアシスを抱えておきながらそれを利用しないなんてバカでしょ、と言ってやりたいが言わずとも私の表情が筒抜けなので止めは刺さないでおく。
ちなみに、この学校の数少ないオアシスは職員室の他、図書室と視聴覚と特別室だけだ。
あとの教室は全部冷暖房なしの状態で、生徒はみな夏は鉄板の上で焼かれる肉の如く襲いかかる暑さに耐え、冬は風邪を引きながらも寒さに震えていた。
そろそろ年々溜まる生徒の鬱憤も爆発する頃じゃないだろうか?
「はぁ…。本当おまえ、いつの間にそんなひねくれちゃったわけ?昔はもっと素直で可愛かったのに…。」
「そりゃあ、11年なんて、人が変わるには十分な時間だと思うけど?」
笑顔で言うと、先生の口元がひきつった。
「はぁ…――まあいいや。おまえ、高校卒業したら地元離れるんだって?」
およ?
クラスも持っていないただの現国担当教員が、どうして一生徒の進路を知っているんだと思ったが、すぐに洩らしたのはうちの母親だろうと思いつく。
まあこの人が地元を離れたってポロリとこぼしたのもあの人だったしね、ははははは。
「うん。ここ、田舎だしね。」
「――…そりゃそうだ。」
バツの悪そうな顔をする先生に、大方自分の時を思い出しているんだろうと予想する。
私がやりたいことは、この町じゃ叶えられない。
「――…まあ、なんだ。オレもそういう意味では先輩だし、わかんないことあったら何でも聞いてくれていいんだぞ。」
「――――…」
途端、私の中で時間が止まった。
どうして、そういうことを…。
「千菜…?」
「――…どうして、そういうことが言えるの?」
「え…?」
それだけ、彼にとって私はどうでもいい存在だったんだ。
「おい…、千菜…??」
先生の“何がなんだかまったくわからない”という声を聞けば聞くほど、私の中で嫌な感情が増殖していく。
普段は見たくなくて蓋をしてきたものが、こじ開けるようにどんどん湧き出て止まらない。
身体は勝手に逃げの体勢をとっていた。
「――っ千菜!!」
先生に背を向け、出入口の扉に手を掛けようとしていた私のそれを捕まえると、次の瞬間には身体ごとすっぽり何かに包まれていた。
「意味わかんないんだけど。――オレ、なんかした?」
耳元で紡がれる言葉で、晴日先生に抱き締められているのだと認識する。
身体には自然と力が入ったが、それを抑えるかのように包まれる温度が増したような気がした。
「…千菜、教えて。言ってくれなきゃわからない。」
「―――…あんたは、考えたこともないんだろうけど。私が、あんたがいなくなったことをお母さんから聞かされて…――どんな気持ちがしたかなんて、わかんないんでしょうね。」
甦る。
この町に慣れて、こっちで出来た友だちと遊ぶことが増えたのに比例して、陽介と遊ぶ機会が減っていったあの頃。
それでも、繋がってると思っていたから暫く会わなくても平気だったのに。
突然言われたのは“そういえばお向かいの陽介くん、もうこっちにいないんだってね。”の言葉。
「――…全然知らないこの町に来て、頼れるのは両親しかいなかった。初めての引っ越しに、どうやって友だちを作っていいかもわからなくて…。不安でいっぱいだった私のところに来てくれた陽介は、あの頃の私の心の支えになってたんだよ。」
“なーにやってんの?”
そう言って突然入ってきた陽介に、ベッドの上で縮こまっていた7歳の私は飛び上がった。
小学校の入学に合わせて引っ越してきたとはいえ、本当ならいたはずの幼稚園の友だちもいない、まったく知らない人たちが通う学校のことを考えると怖くて怖くて堪らずに被っていた布団の中で、はとが豆鉄砲をくらったような顔をしていたと思う。そんな私を見て、笑ったあいつがいった一言は、私の恐怖心を払拭してくれた。
“だいじょーぶ。学校でなんかあったら、オレに言いな。おまえを虐める奴は、オレがぶっ飛ばしてやるから。”
「―――…時々でも様子を見に来てくれる陽介は、初めて家族以外で出来た信頼できる存在だったのに…。そんな陽介が、何も言わずにこの町を離れたって知って…置き去りにされたって知って…私がどんな気持ちでいたかなんて、陽介には一生わかんない…っ!」
視界が滲む。
世界が、ぐちゃぐちゃに歪み出す。
わかってる。
信頼してたのも、置き去りにされたって思ったのも、全部、勝手な私の思い。
そんなの、全然陽介には関係ないことなんだって、陽介がいなくなってから10年、ずっと同じこと考えてたんだから嫌ってほどわかってる。
勝手に心の支えにして、自分勝手に責めて。
全部、全部ゼンブぜんぶ、私の一人相撲。
――それが、一番辛かった。
私は陽介の腕の中から逃れようと必死に抵抗を試みたけれど、逆にその両腕で力いっぱい抱きしめられた。
「――――…ごめん、」
もう一度私の耳元で“ごめん”と呟いた陽介は心底困っているように見えた。
「ごめんな。謝ってすむことじゃないけど、オレ、おまえがそんなふうに思ってるなんてこと、全然知らなくて。傷付けて、本当にごめん。」
普段は絶対に見せることのない弱気な陽介は本当に珍しくて、こっちが理不尽に責めているような気持ちになる。
だから…―――。
「――…むかつく。」
「――っ」
「ずるいよ、よーくん。ズルい。そんなふうに言われたら、私、許すしかないじゃない。」
「え、あ…?いや!千菜…っ!」
「私、よーくんが先生になるためにこの町を出たことが許せないんじゃないよ?私に、なにも言わずに出て行ったことがショックだったんだからね?」
「――…うん、」
「―――…なんか、もう、いいや。」
「え…?」
長年溜めていた気持ちを本人にぶつけたことで、あっけなく私の気持ちは昇華されたようだ。
――というか、なんかもう、こんなよーくん相手にいつまでも根に持ってる自分がバカみたいな?
「よーくん、暑い。誰かに見られたら面倒くさいことになるんだから、いい加減離して?」
「……」
「…よーくん?」
さっきよりもだいぶ力の緩んでいた腕の中から身体をずらして、よーくんの顔を覗きこもうとする。
ようやく窺えた彼の顔は、なんだか真剣そのものといった風で…。
「よー、くん?」
「千菜…、」
そんな真面目な顔のまま、またぎゅっと力を込められて覗きこむように見られた2人の距離はもしかしなくても至近距離。
「オレさぁ…――オレ、おまえが好きだよ。たぶん、初めて会ったあの頃から。」
予想もしていないところからの言葉に思考回路はショート寸前。
すみません嘘です、もうすでにショート中です。
「ヤバイだろ?高校生が小学生に――それも入学したばっかのような子に恋愛感情抱くなんて。オレも、そんな自分が信じられなくてさ。逃げるように大学が遠いことを言い訳におまえの前からいなくなったんだ。…でもさ、いくら距離が離れたって、オレの中のおまえは少しも小さくならなかった。それどころか、おまえのことを傍で監視できなくて、おまえに悪い虫がつかないかヒヤヒヤもんだった。教員免許取って、運よく大学卒業してから学校で働けるようにはなったけど、地元まで行き来できるような距離じゃなかったし…。――…だから、今年、この学校に赴任することが決まって、オレ、チャンスだって思った。たった1年でもおまえの傍に戻ることができるんだって、オレ、すげー嬉しかったんだ。…って、笑うなよ?」
そこまで一気に言いきった陽介は、すごくバツが悪そうに視線を一瞬逸らしてからまた私と目を合わせた。
うん、笑わない……けど。
「―――…ロリコン?」
「っだあああ!!!それを言うな!!オレは断じて幼女趣味なんかじゃねぇえええ!!!」
焦った様子がおかしくて、気付いたら噴き出していた。
あははと爆笑する私に陽介は戸惑ったような顔をするけど構っていられない。
だって、おかしいじゃない?
陽介は陽介で、私のこと、気にかけていないわけじゃなかったんだって。
「おま…っ!わかってんのか?オレ、この1年にかけてるんだよ。」
「あはははは、う、うん?」
「…だから、おまえがこの町離れるまでの1年で、おまえをオレのものにするって言ってるんだけど。」
その意味を理解した途端、私の笑いはおさまった。
あれ、なんかこれから捕食されるような気分なんだけど間違いだよね?あれ?
ダラダラ流れだした私の冷や汗に気付いたのか、いきなり余裕を取り戻した陽介はニヤリと嫌な笑いを見せた。
「覚悟しとけよ、千菜?10年分溜まりに溜まったオレの思い、たっぷり味あわせてやるからな?」
そんな覚悟は縄で縛って熨斗付けて送り返してやるから早まるな!