その2
「バケ・・・バーケー」
不意に、マカの後ろから声がした。
ハッとしてマカは振り返った。娘のスフレだった。
赤ん坊のスフレをゆりかごで寝かしつけておいて、すっかり忘れていたのだ。
「あ、スフレちゃん!起きたんだー」
スフレを自分の妹のように溺愛しているユタは、恐ろしい速さでオバケとマカの側を通り過ぎ、ゆりかごを覗きこんだ。
「おはよースフレちゃん。お昼寝気持ちよかった?」
オレンジ色の毛を丁寧に整えるように撫でながら、ユタ。
顔だけちょっとマカの方に向けると、珍しく遠慮がちに聞いてきた。
「抱いていい?」
肯定の意味でにっこりとマカが微笑むと、ユタはなんとも嬉しそうに、しかし丁寧に丁寧に、スフレを優しく抱きあげた。
いつもこうだ。ユタならばといつでも抱かせてあげているのに、マカの許可なしにはけして抱こうとしない。
普段は村の誰に迷惑をかけてもしれっとしているユタだが、スフレに関してだけは驚くほど気を使っている。
「良いなースフレちゃん。ちょうだい」
いつもこう言う。
「だーめ。スフレは私のスフレなの」
いつもの返答を聞いた時の、ユタのたまらなくうらやましそうな顔を見るのが、マカは好きだった。
「そうだよね、マカのスフレちゃんだから、スフレちゃんなんだよねー・・・だからちょうだいなんだけど」
分かるような分からないような、微妙な事を言いながら、相変わらず丁寧にスフレを腕の中で揺らしているユタ。
「バケ?バーケー」
「バケじゃないよ、オバケだよー。お水のおじゃないから、オをつけないとオバケじゃないんだよー」
あやす言葉も微妙に意味が分からない。まだ子供だから当然と言えば当然だが、お父さんになるにはまだまだのようだ。
「ほぅらスフレちゃん、これがオバケだ・・・よってあらら、また寝ちゃった」
スフレもユタはお気に入りのようなのだが、まだ寝足りなかったのかすぐに寝息を立て始めた。
起こさないように、さらに丁寧にゆりかごへスフレを戻すユタ。
「よっ・・・せ・・・っと」
ゆっくりとスフレを下ろすと、
「さて!」
すぐさまオバケのところに戻ってくる。この切り替えこそがユタの真骨頂といえた。
「沼のへん歩いてたら見つけたんだけどね。すごいでしょーこの子」
(この子・・・?)
なんだかオバケを友達を紹介するような言葉と手振りで指すユタに、マカは何故か違和感を覚えた。
「良い、見ててよ・・・」
ユタはオバケの腰(足がないのでオバケ本体の一番下の部分にあたる)あたりを持つと、オバケに向かってささやいた。
「投げるから、浮いててね・・・そぉれ!」
ドラゴンをも持ち上げる怪力で上空へ放り投げられたオバケは、マカの家よりもさらに高い位置で静止した。
穏やかな日差しと、気持ちのいいそよ風に吹かれた綺麗なオバケは、ますますオバケらしくない姿であった。
「へへー、マカ、すごいでしょルック」
布のようになっている腰の部分をふよふよとなびかせながら、ゆっくりとオバケが下りてくると
マカは先ほど感じた違和感を確かめようとユタの方を向き、オバケを指差してまくしたてた。
「ねね、ユタちゃん。その・・・あのオバケ?って話できるの?」
オバケが下りてくるのを楽しそうに眺めていたユタは、マカの質問に不思議そうな顔を作ると
「当たり前じゃない?オウルベアのオバケだもん。ルックっていうんだ、この子」
平然とオバケを、今度こそマカに紹介した。
ルックと呼ばれたオバケは、真っ白な身体をマカの方に向け、あいさつするように小さく震えた。
「よ・・・よろしく、ルック。私はマカ」
こちらも軽い震えとともに、マカ。やはりオバケだ・・・いまさら恐怖が沸いてきた。
(スフレが寝てくれてよかった・・・)
ちょっぴり娘を心配して、原因を連れてきたユタをにらむと、相変わらず無神経なユタは全く気付く気配もなく
再びオバケを持ち上げ、頭上にかかげた。
「ルックね、こうやって持ち上げるとしゃべるんだよ」
ユタが言うが早いか、さっそくルックが一つ震えるとしゃべりだした。
「おうち・・・おうち・・・」
それは、オバケらしい幽かなかすれと共に、妙な甘さも伴う奇妙な声だった。
「おうち?私の?お・・・オバケはちょっと・・・」
既にオバケに自宅の庭にまで侵入されているという事を思い出し、壮絶に引きながらマカ。
「いや、違うよマカ。ルック、マカにも教えてあげて?」
小さな子供をあやすような口調でユタが優しく促すと、ルックは再び小さく震え、先ほどよりもしっかりした声で話し始めた。
「おうち・・・かえりたい。いりえの・・・おうち・・・ぼくの」
その声は甘えているようでもあり、寂しそうでもあった。
半透明な顔は無表情だが、久しぶりに友達が出来てはしゃぐ小さな子供の感情はマカにも十分伝わってきた。
(そっか・・・元とはいえこの子もちゃんとしたオウルベアなのね)
「入江っていうと、村から一番近いのは人間の街の向こうになるね。ちょっと遠いけれど・・・」
ちょっぴり怖がった事を心の中で謝ると、マカは家の中から地図を持ってきた。
ばさり。
玄関先のテラスに置いてあるテーブルに地図を広げると、ルックは意外なはやさで庭から上ってきた。どうやら自力で動けるようだ。
「・・・あ・・・ここ・・・おうち・・・ぼくの」
ルックが震える指で差したのは、マカの予想通り人間の街の向こう側だった。
盆地にある人間の街をちょうど真ん中に、オウルベアの村の反対側というところだ。
山をいくつか越える険しく遠い道のりだが・・・
「ちょっとした遠足ってところね。ちょうど良いじゃない、今から行かない?」
マカ達オウルベアにとってはほんの遠足程度の距離だ。
さっそくマカは弁当とスフレを背負う紐を用意しはじめた。
なんだかんだでマカも切り替えの早い、ノリのいいオウルベアである。
一時間後には早くも準備を済ませて、マカはスフレを、ユタはルックをそれぞれ背負って村の出口にいた。
「スフレちゃん大丈夫かなぁ?いいの?マカ」
相変わらずスフレに対してだけ過保護なユタ。マカは苦笑いするしかないが
産まれたばかりとはいえスフレもオウルベアである。転ぼうが崖から落とそうがピンピンしてマカの背に戻ってくる頑丈な子だ。
「さて。じゃあまずは人間の街を目指せばいいんだよね?」
”おかえり、バルビレッジへ”木彫りの妙に派手な看板の下を通り抜け
久しぶりにマカ、スフレと一緒のおでかけでテンションだだ上がりのユタは
ルックを背負っているにも関わらず機嫌よく跳ねながら歩き始めた。