ものごとのはじまり ー朔夜と薬師の龍樹ー
今にも雨が降り出しそうな、六月の夕方。
俺は家の横にある厩舎の前で子ヤギたちと遊んでいた。
「……なあ、子ヤギがいるってことは、母親の山羊からミルクが出るのか?」
急に、うちの裏庭と道を隔ててる板塀の向こうから話しかけてきたおっさんがいた。
おっさんと言っても、うちの父ちゃんよりずっと若いな……。
まだ十歳だった俺は、黙ってその男のことをじっと見た。
黒髪で短髪、ちょっと無精ひげはやしてるけど、二十代前半くらいかな。なんかすっと立ってて姿勢がよくて、清潔そうな白地に灰色の線が入った着物を着てる。
「そいつらの母親の山羊から、ミルクって出るか?」
その男は、ちょっとかすれた声でもう一度聞いてきた。
みるくってなんだろ。聞き慣れない単語に俺は首を傾げて。
「……みるくって、なんだ?」
俺が聞くと、そのおっさんは、人好きのする感じでにかっと笑った。
「ああ、悪い悪い、ミルクってのは……なんて言ったらいいんだろうな、母乳っていうか……母ちゃん山羊から出る、乳って言ったらわかるか?」
「乳か。もちろん、いっぱい出るぜ」
「……俺にちょっとばかりわけてもらえる分あるか?」
知らねえおっさんだが……なんか、その少し心配そうに聞いてくる感じも、さっきのにかっと笑った感じも、俺はあっという間にその男のことを好きになっていて、少し考えてから聞いてみた。
「おっさんはどこの誰なんだ?」
「ああ、自己紹介もまだで悪かったな。俺は龍樹。最近、この道をずっと歩いて行ったところにある、翡翠宮ってところで薬師やってんだ」
「ひ、ひすいきゅう? のやくし??」
俺はびびった。
翡翠宮というのは、俺たちが住む風雅の国の、将軍さまが住んでる御殿のことだ。薬師というのは薬を作る専門家で、神殿の僧医って医者たちに次ぐ賢い人がなると言われてた。
そいつは続けた。
「奏っていう俺の美人の嫁が、身体が弱くてな。湖のほとりに住んでたんだが、ここ最近、翡翠宮で療養させてんだ」
俺はそいつが最初に言った名前を聞き逃さなかった。
「かなでって、まさか神官の奏さまのこと言ってんのか?」
それまで、俺が聞いた限りで奏という名前は、神官の奏さまだけだった。しかも翡翠宮って、間違いねえ。この人、噂の〝稀代の薬師〟だ。
奏さまが最近結婚されて、その相手は一見風来坊みたいだが、薬師としての腕は抜群らしいって噂になってたんだ。
そして、神官さまの旦那の頼みなら、断るわけにはいかないと思った。
「ちょっと……いいと思うけど、父ちゃんに一応聞いてくるから、ちょっと待ってて。 あ、俺は朔夜。すぐ戻ってくるから」
立ち上がる俺に、首をかしげて龍樹は尋ねる。
「いいが……父ちゃん、家にいるのか? 俺が直接聞こうか」
「いや、ちょっと、具合悪くて寝てるんだ。だからここで待っててくれたら」
「風邪か?」
心配そうに聞いてくる龍樹に、俺は思わず涙目になった。
「ちがう。昨日、森の方に山羊を連れていってたら、風狼が出て、それで引っ掻かれて今日になって熱が出て」
風狼というのは森の近くにいる危ない獣だ。雨の日は遭遇することが多いから、気をつけないといけない奴だった。昨日は夕立みたいに急に雨が降り出して、飛び出してきたのを避けられなかったんだ。
「一緒に行こう」
「え、でも」
「大丈夫だから案内して」
強引で有無を言わせずって態度で、でもきっぱりとしたその動きも声も、俺はなぜか無茶苦茶に安心して、家の奥に龍樹を案内していた。
◇
俺の母ちゃんは三年前に亡くなっていて、父ちゃんと父一人子一人だった。今まで二人で楽しくやってきたんだ。でも、昨日、風狼にやられた日は傷の手当てして元気だった父ちゃんが、今朝から熱が出て起き上がれなくなってた。
外の光が届かない、家の奥のせまいベッドで、父ちゃんは寝ていた。端から見ても息が苦しそうなのがわかる。でも、うちには薬を買う金もあんまりなくて、薬草の知識も俺にはなかった。どうしようもなくて子ヤギと遊んで気を紛らわせてたんだ。
龍樹は、そっと父ちゃんの額に手を触れた。そして、腰に下げてた皮袋から、いくつかの薬草みたいなのと、すごく小さなすり鉢みたいな器と、小さな小さなすりこぎを取り出した。
「ちょっと椅子と机借りるな」
やさしく言って、部屋の中央に置かれた椅子に座って、手早く薬草をすりはじめる。その夢みたいに綺麗な手つきに、俺は思わず見とれた。
「傷ってどこを引っ掻かれた?」
「手の甲」
簡単に包帯を巻いた父ちゃんの手、ふとんからちょうど外に出ていたのを指すと、龍樹は頷いて。
「綺麗な水ってあるか?」
俺は流しの方から、湖から汲んできて桶にいれてた水を持ってくる。 龍樹はそっと父ちゃんの手を取り、するすると手早く包帯を解いて、俺が持ってきた水で傷を洗い、さっきすりつぶしてた薬草を傷に塗って、あっと言う間に包帯を綺麗に巻きなおした。
手当てが終わったとき、ふう、と父ちゃんが目を覚ました。
「……あんた、だれだ?」
龍樹はやさしい笑顔を作って。
「こんちは。俺は、龍樹と言います。
翡翠宮に今、奏って嫁と滞在してるんですが」
「奏さま……? あんたが、最近、奏さまと湖のほとりに住んでるっていう、薬師か……?」
「知ってくれてるなら話がはやい。そうです」
龍樹はにっこりと笑った。
俺は不思議だった。
父ちゃんは気が強くて、知らない人間にすぐに心を許したりしないと思ってた。でも、龍樹は違った。薬草をすってる手つきもそうだったけど、その龍樹のちょっと掠れた声は、水みたいに心にしみて、なんだか知らないうちに龍樹のことを好きになってるんだ。それは、父ちゃんも同じらしかった。
「……すまんな。どういう流れか知らんが、傷の痛みが引いた」
「ちょっと今、これしか持ってねえんで応急処置です。でも、傷は浅いから大丈夫です。もしかしたら夜に熱が上がるかもしれないんで、この後、飲み薬も煎じときます」
父ちゃん、不思議そうに首をかしげる。
「そいつはありがてえが、なんでそこまでしてくれる?」
「そうそう、さっき、朔夜が子ヤギと遊んでるの見て声かけたんですが……実は最近、ちょっと奏の身体が弱い関係で、翡翠宮に滞在してるんです。
それで、栄養つけさせたいと思ってて。山羊の乳をちょっとばかり分けてもらえねえかなと思って声をかけたんです。そしたら、父さんが風狼にひっかかれて具合が悪いって言うんで、勝手に持ってた薬草使って、手当てさせてもらいました」
そう言ってまた、にかっと笑う。
「山羊の乳を何につかう?」
今まで、山羊肉は滋養にいいって言うんでさばいて売ったりしていたが、乳は余った分は捨ててたんだ。
「あー……親父さんの熱にもいいと思うんですけど。ちょっと、小さい鍋とかあったら借りてもいいすか?」
「かまわんよ。手当ての礼金など払えんからな。母山羊は四頭いるから、乳も好きなだけ持って行くといい」
「じゃ、ちょっと借ります。朔夜、悪いが、乳搾りの仕方ってわかるか?」
「わかるよ」
「じゃ、俺に教えて」
「いいぜ。父ちゃん、ちょっと厩舎行ってくる!」
「ああ、まかせた」
俺はなぜだかウキウキと、龍樹を連れて厩舎に向かった。手当しただけで父ちゃんが少し元気になったのを見て、うれしくなったんだ。それで、龍樹に乳搾りのやり方を教えたら、器用ですぐ覚えた。綺麗に洗ってた深めの盥に、ジャッジャッと音がして、乳が溜まっていく。
「あんたすげえな」
「なんでだ?」
にやっと笑ってそう聞いてくる。
「普通、こんなにすぐしぼれるようにならねえし、夕方は乳の出が悪いんだ。それに、母山羊ってちょっと気が荒くなってるから、コツがいるんだ。なのに、なんでか山羊たちも落ち着いてる」
「友達になるのが得意なんだ」
「動物と?」
「風狼なんかは無理だな。おとなしめの動物とか、人間とかかな」
不思議なこと言うなあ、と思いながら、乳搾りをする龍樹の綺麗な手つきを俺は見ていた。
「さ、こんなもんかな。こいつって名前あるのか?」
のんびりした笑顔つくって、山羊の名前なんか聞いてくる。
「いちおうあるよ。こいつはユキっていうんだ」
「ありがとな、ユキ。たすかったぜ」
優しくユキを撫でたら、びっくりすることにユキは龍樹にちょっと鼻を寄せてきた。信じられねえ。俺ですらこんなことされたことない。 なんなんだこの人。と思っていたら、龍樹、言った。
「さて。朔夜、悪いが、かまどに火を入れられるか?」
「いいよ。得意だ。今日ちょっと寒いからな。そうすりゃ部屋もあったまって、父ちゃんも楽かもしれねえよな!」
思い付かなかったことを言われて、俺はなんだか元気が出てきて、走って裏に薪を取りに行く。そしてかまどに火を入れはじめた。
「小鍋でいいけど……お前も飲むか?」
「なにを?」
「乳をあっためて飲むと、うまいし栄養になるんだ」
かまどの火を大きくしながら、俺はへえ、と思って龍樹の話を聞いている。
「じゃあ、鍋と、器取ってくるよ」
「うん、頼むわ」
火が綺麗に燃え始めて、俺は鍋を取りに行った。
「どっちがいい?」
小さめの鍋と大きめの鍋、うちにはふたつしか無くて、両方持ってきたら、龍樹、小さい方を手に取る。
「ちょうどいいな。ありがとう」
小さめの方を渡して、俺は大きい鍋をもとに戻すと同時に、小ぶりの器をみっつ持ってきた。龍樹も飲むかなと思って。そして、この人いいなあ、と思いながら、乳を少し鍋に移してあたためはじめる龍樹を見ていた。
どの動きも流れるみたいで、無駄がない。
そして、しゃべり方とか、なんでかわかんねえけど、たぶん十歳以上年下の俺に、昔っからの友達みたいな話し方をしてくれる。
変わってるなあ。でも、なんか好きになっちゃうな。そんなことを思いながら、龍樹の綺麗な手つきを見守っていた。
そして、乳がぐつぐつ言いだして、龍樹は鍋を火から下ろした。
「これ、ちょっと沸騰させた方が雑菌とかなくなっていいと思うけど、長く乗せてると急に吹きこぼれるから、もし自分でやるときは注意してな。……このかまどの火って、このままにしといていいのか?」
「ああ、火は小さくしとくから、そっちの器に注いでくれたらいいよ」
うんうん頷いて、龍樹は、俺が机に置いていた器に、そっとそのあっためた乳を少しずつ移す。
「熱いからゆっくり飲んでください。上にかかってる膜は、あんまりおいしいもんじゃねえけど、ここに栄養が凝縮されてるから、一緒に飲んだら身体にいいです」
そんなことを言いながら、父ちゃんに渡してる。
その後で、俺もひとつ受け取った。
「あんたも飲んで行ったらいいよ」
「そうだな。味見してみるか。……うん、良い感じだな」
一口飲んでちょっと笑う。
俺もつられて、ゆっくり一口飲んでみたら、ほのかな甘さがあたたかさと一緒に胸に広がった。
「これは身体があたたまっていいな」
父ちゃんもそう呟いてる。 俺は、なんでだかわからねえけど、ぽろりと一粒涙がこぼれた。
おれん家は、母ちゃんが三年くらい前に病気で死んじゃってた。以来、こんな風なあったかい感じに触れたのは初めてな気がしたんだ。
「……龍樹、ありがと……」
思わず俺は涙を拭きながら、龍樹にお礼を言っていた。
龍樹は少し笑って、俺の頭をぽんぽんと撫でて。その後、使った鍋は綺麗に洗ってくれて、それで、盥はまた返しに来ますと父ちゃんに笑って、残りの山羊の乳を持って戻って行った。
それが俺と龍樹の出会いだったんだ。
◇
夜になって、父ちゃんは晩飯に、俺が簡単に作った雑炊を食えるくらいには元気になってた。俺も安心して、風呂はいいやと思って後片付けをして身体を拭いて、父ちゃんも寝てるし俺も早寝しようかなと、布団を敷きに奥に行った夜八時半。
雑炊を食った後、すぐにまた寝ると言って寝台に戻ってた父ちゃんが、うんうん唸っていて仰天した。
おでこを触ると、びくっと手を引っ込めちまうくらい熱い。
『明日の朝また盥返しに来るから、もし、夜になって熱が出たら親父さんにこれ飲ませてな』
龍樹ってやつが置いて行ってた薬湯っていうのを、父ちゃんに飲ませようと俺は居間に走って、取って戻った。
「父ちゃん、これ、龍樹が置いてった薬、飲んで……」
器を渡して飲んでもらおうとしたら、父ちゃんの手ががくがく震えてて、一口飲んだところでからんと器が落っこちた。
どうしよう。
ほとんど床に零れちゃった。
どうしたら。
『何かあったらこれは俺の翡翠宮の通行証。預けとくから、翡翠宮に来て、龍樹いるかって、呼んで』
龍樹が俺に預けた通行証っていうやつは、大事に首にかけていた。俺はそれをぎゅっと握って、外に駆け出していた。
「父ちゃん、俺、龍樹呼んでくるから!」
外は小雨が降り出していたけど、濡れるのなんて構わなかった。
だって母ちゃんは、風邪引いて食べれなくなって弱って、俺におやすみと言ったまま、翌朝起きなかったから。頭の中でそのことがぐるぐる回って止まらなくなったんだ。
俺は途中で小石につまづいて転んで、着物は汚れるし膝もすりむいたけど、それでも走った。
俺ん家は街の外れにあって、翡翠宮までは大人の足でも小一時間かかる。でも一生懸命走ったら、まだ子供の俺の足でも一時間くらいで着くと思った。
とにかく走って走って走って。
俺はぜいぜい言いながら、翡翠宮の大きな門の前に立っていた。
◇
「なんだおまえ? きたねえガキだな。ここは翡翠の街の御殿だ、帰った帰った」
門番みたいに玄関先で帯刀して立っていた大男……でも声にも肌にも張りがあって、まだ二十歳にもなってないんじゃねえのか? って奴に、俺は追い払われようとして、必死ですがりついた。
「あっ、あの! これ! 龍樹って人に俺、これを預かってて!」
通行証ってやつを見せると、その大男は明らかに眉をひそめる。
「なんでおまえみたいなガキが、龍樹の通行証を持ってる? 盗んだのか?」
「ちがうよ! ちがう! 父ちゃんが! 父ちゃんに何かあったらコレ見せろって龍樹が!」
俺は混乱していて、何を言ってるか自分でもわからなくなっていた。
その時だった。
「……黎彩? どうしたの?」
何か、風鈴の音みたいな優しくて綺麗な声が、玄関の奥から聞こえて、その黎彩ってやつが振り向く。俺もその声がした先を見た。
そこには、紫陽花柄の浴衣をゆったりと着た、長い黒髪と星みたいな瞳の、天女さまみたいな美女がいた――。
「奏か。なんか、変なガキが龍樹の通行証持ってやがって……」
黎彩って大男、その美女に答える。
奏、と言った。
わかった。このひと。俺、遠くから見たことある。お正月に神殿の舞台に立って、天上のものみたいな舞を舞ってたこのひとを。
この人、神官の、奏さまだ――。
俺は何て言っていいかもわかんなくって、ただ見とれたように突っ立ってた。
そうしたら、奏さまはもう一回ふわりと笑って、その後ろを振り返る。
「龍樹。この子、言ってた山羊農家の子じゃないかしら」
その視線の先、奏さまの後ろからのんびりした調子で歩いて来たのは、浴衣姿の龍樹だった。
「朔夜?」
そして俺を見つけた龍樹、小雨も構わず俺にすたすたと歩み寄る。
「りゅ、りゅうじゅ……っ……」
俺はほっとしたのと、焦ってるのとまぜこぜで、必死で龍樹を見上げた。そんな俺を、龍樹は軽く抱き上げた。
「大丈夫か? 転んだ? 親父さん、具合悪くなっちまったのか」
龍樹の声にうんうん頷いていると、龍樹は黎彩って大男に笑って。
「悪い、黎彩。おまえにも言ってたらよかったな。こいつは朔夜って言って、さっきおまえも飲んだ山羊ミルク分けてくれた農家の息子だ」
「ああ、あれか。……なるほど、そりゃあ盗人よばわりして悪かったな」
意外と話がわかるやつらしい黎彩、謝ってくる。俺はぶんぶん首を振って。
「……父ちゃん、がくがく震えてて、龍樹の置いてった薬、一口飲んで落っことしちゃって……」
「わかった。すぐ行く」
あっさり言われて俺はびっくりして龍樹を見つめる。……と同時に、ふわりと膝にあったかい何かが触れた感じがした。
「……だいじょうぶ、血も止まったわ」
「奏、駄目だろおまえ、そんな無理……」
「大丈夫、龍樹。小さな傷だし、無理してない」
奏さまはあでやかに微笑んで。神官さまの家系は、触れると傷や熱を軽くできる癒しの能力があるって話は、それも街の噂で聞いたことがあった。戦で怪我した人たちの状態を、お祈りの舞で軽くすることもできるんだって。でも、ふわっと軽くするくらいで、死にそうな人を生き返らせたりはできないって。
でも、実際にそれを見せられるまで、俺は怪我人が夢でも見たんだろって思ってたんだ。
びっくりしすぎて何も言えなくなっている俺に、奏さまは微笑んだ。
「私も一緒に行けたらいいのだけど」
そんな奏さまをちらっと見て、龍樹が厳しい口調で言う。
「何言ってんだ。妊娠中で具合悪いからここに住んでるんだろ。今の治癒の光だってやりすぎだ」
そうだった。身体が弱くてって最初に聞いてたし、そっか。子供が腹ン中にいるから、浴衣をゆったり着てるし、ほんの少し気怠げな雰囲気だった。
「あっ、あの、すみません、おれ」
俺が動揺してると、奏さまは軽く首を振って。
「だいじょうぶ。山羊のお乳、すごく美味しかったから、お礼ね」
その笑顔に呑まれて俺は黙る。そして、龍樹が言った。
「やっぱ、悠長に飯食ってないで、今夜のうちに行ってりゃよかったな。ちょっと行ってくるな」
奏さまにそう言うと、龍樹は俺を抱っこしたまま駆け出した。
「え、龍樹、俺歩けるよ!」
「軽いから問題ねえよ。おんぶがいいか?」
「いいよそんなの……」
なんとなく抱っこされたまま諦めて、俺はすっごく安心してた。
このひとがいたらそれこそ大丈夫だって、そんな気持ちで。
◇
そして、小走りに龍樹が俺の家まで戻ってくれて、もう一回薬湯を作ってくれた。
夕方と変わらない綺麗な手つきで龍樹が薬草をすりつぶす横で、かまどに火をおこしてお湯を沸かしながら、俺は一生懸命に考えていた。
龍樹は二回も父ちゃんに薬を作ってくれて、奏さまは俺の擦り傷の血も止めてくれた。でもうちには金がない。さすがに夜は山羊も寝てるから、今は乳も搾れない。
お礼って、俺ができるお礼って、何?
「さ、出来た。朔夜、お湯湧いたか~?」
気が抜けちまうようなのんびりした声で龍樹が聞いて、俺はやかんに湧かしてたお湯をこぼさないようにゆっくり食台に置いた。龍樹はありがとうと言って、丁寧にそれを小さな臼に注ぐ。
「じゃ、親父さんに飲ませてくるな」
奥の部屋に向かう龍樹の背中を見つめながら、俺はひとつだけいいものを持っていたと思って、食器や鍋を置いてる棚の引き出しを開けた。
こないだ、湖で遊んでた帰りに拾った緑色の小さな石。
持って帰って綺麗に洗ったら、太陽の下ではきらっと光る感じになって、その深緑の石を俺は時々食台に置いて眺めてたんだ。
これしかないな。
俺がそのつやつやした緑色の石を握りしめて奥の部屋に戻ると、震えてたのが収まって、少し落ち着いたらしい父ちゃんが龍樹と話をしてた。
「一日に二度もすまんな……」
「いえ、俺も呑気に晩飯食ってたりしたんで……朔夜が来てくれてよかったです」
龍樹はぜんぜん気にしてない風で、にこにこしてる。そして、聞いた。
「親父さんは、お名前なんていうんですか?」
「俺か。俺は星辰っていうんだ」
「せいしん。聖なる心ですか?」
「まさか! 星に辰と書く」
龍樹、うんうんと頷いて。
「星座って意味ですかね」
「そうらしい」
「かっこいいっすね」
「そうか?」
二人の会話を、居間と奥の部屋を仕切ってる扉のところに立って聞いてたら、龍樹が続けた。
「朔夜は、新月って意味ですか?」
聞かれて、なぜだかうれしそうに父ちゃんが答える。
「新月の夜に生まれたんだ。だから朔夜にした」
そうしたら、龍樹が微笑んで言ったんだ。
「いい名前ですね。物事のはじまりだ」
「良いこと言うな」
「ですかね」
俺は自分の名前の意味なんて、それまで考えたこともなかった。
でも、その龍樹が言った、『ものごとのはじまり』っていう言葉は、何か星みたいに俺の心の中に光って残った。まるでさっき俺を見つめた、奏さまの夜空の星みたいな瞳と同じに。
「……ありがと、龍樹」
二人の近くに歩みより、そっと俺は言った。龍樹は最初に会ったときと同じに、にかっと笑う。
「ああ、朔夜。教えに来てくれてありがとな。また明日の朝来るけど、これで一安心だ」
そうそう、と呟いて、皮袋に入れてた軟膏みたいなのを取り出して、ちょっと屈んで俺の膝にも塗ってくれる。俺はその全部の流れにぐっと来て、持ってた石を龍樹に差し出していた。
「……これでおまえの擦り傷も大丈夫っと。
うん? この石、おまえの宝物か? 綺麗だな」
にっこり笑う龍樹に、俺は言った。
「うちは金とかねえから! これ、お礼だ!」
途端にびっくりした顔で龍樹が首を振る。
「いらねえよ。だってこれ、おまえの宝物なんじゃねえのか?」
「いいよ! やる! だって友達だもん! いらないならあの天女さまみたいな美人にあげてくれ」
たぶん俺より十歳以上年上の龍樹に、友達なんて言っていいのかわからなかった。普通だったら怒られるようなことかもしれないけど、まだ熱があってぼんやりしてるのか、父ちゃんはそんな俺と龍樹を黙って見守ってくれていた。
龍樹は少し沈黙した後、ふふっと笑って。
「これ、翡翠の石かな……だったらこの街の名前でもあるし、ある意味、守り神みてえな石だ。奏にも似合うだろうな」
「この前、湖の先で拾って洗ったんだ。もらって」
そう言ったら、龍樹は微笑んだまま、頷いた。
「じゃあ、ありがたくいただこう。きっと奏も喜ぶ」
俺はうんうん頷いて、そして言った。
「俺の名前が〝ものごとのはじまり〟なら、この石は俺と龍樹が友達になったはじまりの証拠だ!」
そう言ったら、俺の後ろ頭を父ちゃんがぱんとはたいた。
「いって! なにすんだよ、父ちゃん!」
「黙って聞いてたらいい加減にしろ。龍樹どのは薬師さまだぞ! 友達友達って、言い過ぎだ」
その父ちゃんの声を聞いて、龍樹、ははっと笑って。
「いいっすよ。俺はこの街に来てまだ一年も経ってなくて、友達なんて軍の黎彩と僧医の清涼くらいだし……じゃあ、朔夜は俺の、この街での三番目の友達だ」
よろしくな、と笑う龍樹に、俺はなんだか泣きそうにうれしい気持ちで、しっかり頷いたんだ。
Caita ハイファン生活部の部誌に寄稿した、身代わり姫と複雑王子 ー風雅の国ーの番外編です。
複雑王子・玲が生まれる半年ほど前、龍樹23歳、朔夜10歳の頃のエピソードです。




