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まだ名前のない気持ち

 三年前の四月、私はこの山のふもとにある高校に入学することが決まった。偏差値は中ぐらいの少し立地の悪い高校だった。

 今日は、高校の新入生説明会だった。この間、家に届いたばかりの真新しい制服を身に着けて、キラキラJKになれてるかな?と少し浮かれた気分になりながら坂を登った。

 

 私は少し緊張しながら、教室に向かった。慣れない校舎で少し迷った。教室に入ると、私と同じような面持ちで座っている人達が何人かいた。皆、どこかぎこちなくて、まだ知らない場所に居るような顔をしている。でもその奥には、少しだけ楽しみにしている気持ちと期待も隠れているように見えた。私もその一人なのは間違いない。

 中学時代の私は、あまり人と関わる方じゃなかった。なんだったら、人が怖くて自分から避けていたタイプだった。でも、高校では少し変わりたい。そんな気持ちが心のどこかに存在していた。

 席に座りながら、周りをそっと見渡す。まだ誰も話していない。教室には、少しだけ緊張した空気が流れていた。

 

 しばらくすると、教室のドアが開いた。入ってきたのは、一人の先生だった。眼鏡をかけていて、少し筋肉質な体形をしていた。マスクをしているせいで表情はよくわからず、どこか近寄りがたい雰囲気があった。その瞬間、私は思った。

 ――怖そうな先生だな。


 きっと数学科の先生だろう。怒ると冷たく淡々と詰めてくるタイプだ。妄想好きな私は、そんなイメージを持った。けれど、不思議と気になった。理由は分からない。ただ、なんとなく。この人は、私の高校生活に何らかの影響を与える人になる気がした。自分の勘が、そう言っていた。

 先生は教壇に立つと、淡々と学校の説明を始めた。私は、その声を聞きながらぼんやりと思った。

 高校生活、少し楽しみかもしれない。


 入学式の翌日、学年集会があった。体育館に一年生が集められ、それぞれのクラスの担任が紹介されるらしい。私はぼんやりと壇上を見ていた。すると、その中に見覚えのある姿が見えた。この間、新入生説明会で見たあの先生だった。眼鏡をかけていて、少し筋肉質な体形。やっぱりどこか近寄りがたい雰囲気があった。まさかだと思った。そしたら、そのまさかだった。

 先生はマイクを持つと、淡々と自己紹介を始めた。

 

「一年六組の森本悠人です。教科は国語を担当しています。よろしくお願いします。」

 

 ――国語?

 私は戸惑った。いや、どう見ても数学の先生じゃん。怒ると冷たく詰めてきそうだし、黒板に数式書きそうな顔をしている。なのに、国語なのかい。私は心の中で小さくツッコんだ。


 数日後、授業が始まった。最初の何日かは、ほとんど自己紹介やレクリエーションで終わった。皆すでに少し自己紹介疲れをしていた。

 そんな中、次の時間は現代国語だった。私は密かに、その時間を一番楽しみにしていた。

 教室のドアが開く。あの先生が入ってきた。さっきまで少し騒がしかった教室が、一瞬にして静かになった。先生は出席簿を書き、教室を一通り見渡してから言った。


「始めるよ。」


 その言葉を合図に、学級委員長が号令をかけた。

 号令が終わると、先生は黒板の前に立ちチョークを手に取った。音を立てて、名前を書く。その字は驚くほど達筆だった。


「森本悠人です。国語科です。」


 先生は黒板を軽く指さしながら、淡々と続けた。


「担当は現代国語です。あとー、お酒が好きです。」


 教室が少しざわめく。

 そして先生は、さらっと言った。


「あーあと、一応結婚してます。」


 ――え、結婚してるの?

 私は心の中で少し驚いた。なんとなく、独身っぽい雰囲気だと思っていたからだ。

 先生の自己紹介が終わると、今度は私たちの番だった。


「じゃあ、出席番号一番から自己紹介していこうか。」


 先生がそう言うと、クラスの前の方から一人ずつ立ち上がり始めた。

 またこれやるのかよ。そんなことを思いながら、順番が回ってくるのを待った。

 

 その日の放課後。終礼が終わると、教室の空気が一気に緩くなった。椅子の音や笑い声が重なって、みんなそれぞれ帰る準備をしている。そんな中で、隣の席の友達が私に言った。


「ねぇ、悠人先生に質問しに行かない?」

「え、質問?」

「なんか気にならない?あの先生」


 そう言って、友達は笑った。

 確かに、少し気になっていた。

 私は特に用事もなかったし、「いいよ」と軽い気持ちで答えた。

 教室を出て廊下を歩く。放課後の校舎は、昼間より少し静かだった。職員室の前に行くと、ちょうど先生が出てきたところだった。

 友達が声をかける。


「先生、ちょっといいですか?」


 先生は足を止めて、こちらを見た。

 友達がいくつか質問をすると、先生は短く、淡々と答えていく。やっぱりどこか無愛想な感じだった。私は横でそのやり取りを聞いていた。そして、気づいたら口を開いてこう聞いていた。


「先生ってどこ出身なんですか?」


 先生は少し驚いた様子で一瞬だけこちらを見て、普通の調子で答えた。


「岩手だよ。」


 それだけだった。

 それだけの会話だったのに、なぜか少しだけ印象に残った。


 私はその帰り道、バスに揺られながら思った。

 あの先生は、なんだか言語化しにくい雰囲気を持っている。懐かしいような、そうでもないような、なんだか不思議な感じ。

 あれはいったい何なんだろう。

 その時の私はまだ知らなかった。

 これから先、放課後になるたび、私はあの先生に質問をするようになるなんて。

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