第7話 魔術と抱擁
「お嬢様!」
「えっ!?」
立っているバランスを崩した私が、床に崩れ落ちることはなかった。
膝が床に着く寸前、ヒルダがふわりと優しく抱きとめてくれた。
「お怪我はありませんか? 痛むところは?」
「えっ!? えっ!? えっ!?
どうして? だって、あそこにいたよね? ……えっ!?」
明らかにおかしい。絶対に有り得ない現実だった。
私が呼び止められた時、ヒルダは二階への階段の一歩目に足をかけており、まだ一階にいた。
私がバランスを崩した時、ヒルダは中二階の踊り場手前にいた。
そこから私のいる場所まで行くには、まず踊り場を左に曲がり、階段をさらに登る。再び左に曲がって廊下を進まなければならない。
どう考えても、間に合わない距離だ。
ヒルダの胸の中で安心感を得るどころか、混乱する。
ヒルダは猫族であり、人間より優れた跳躍力を持つ。
しかし、私がバランスを崩した位置とヒルダの向いていた方向を考えれば、あの一瞬で間に合うはずがない。
「フフッ……。お嬢様、お忘れですか?
その昔、旦那様とお嬢様のご厚意で、私も魔術を学ばせて頂いたのを」
「魔術っ!?」
ヒルダがニッコリ微笑みながら答えたその瞬間、天啓を得た。
何故、この世界が剣と魔法の時代であると知りながら、魔法の存在を頭の片隅にすら置いていなかったのか。
前世では御伽噺の存在だった魔法が、現実に使えるなら、千里の道のりはぐんと短くなる。さらに、その先にある万里の到達さえ、夢物語ではなくなる。
不可能を可能にした目の前の現実に期待が膨らみ、鼻息が荒くなる。
「はい、風属性の魔術です。
……と言っても、私は才能がそれほどありません。ですから……。あら?」
「んっ!? ……ああっ!?」
だが、その高揚感はすぐに深い絶望へと塗り替えられてしまう。
言葉を不自然に止めたヒルダが抱擁を解き、目線を下へ向けた。それに釣られて足元を見ると、愕然とした。
赤い絨毯が濡れ、そのシミを広げていた。
膝を突きそうになった瞬間か、ヒルダに抱き留められた瞬間か、魔法の存在に驚いた瞬間か、どのタイミングかは定かではない。
確実に判明しているのは、赤い絨毯を濡らしている液体の正体と発生源の二つだけ。
それが分かれば十分すぎた。
自覚すると、生温かく濡れる両足の内側が気持ち悪い。
私見だが、今日までの十日間で悟ったことが一つある。
男性と比べ、女性は我慢が効きにくく、一度出てしまうと止めるのが困難だということだ。
もっとも、いまさら再確認してもどうにもならない。
自分の情けなさの証拠を見つめ、顔を上げられずにいると、ヒルダの気配が目の前から遠ざかっていくのを感じた。
笑われるのは嫌だったが、罵声でも構わないから何か言ってほしかった。
呆れるあまり言葉すら見つからず、愛想を尽かされたのではと不安が渦巻いたその時。
「冷たっ!?」
水が股間へ勢いよく浴びせられた。
下半身はパンツ一枚だったため、その冷たさに思わず足を閉じる。
水を浴びせられた方向を見ると、無表情のヒルダが、花瓶の口をこちらに向けていた。
「お嬢様、申し訳ございません」
「えっ!? ……何が?」
私は驚きに目をパチパチと瞬かせた。
ヒルダは左手に持っていた花の束を花瓶に入れ、花瓶を廊下の飾り棚に戻すと、跪いて頭を垂れた。
「花瓶を倒したばかりかその水でお嬢様を汚してしまいました。
いかなる罰もお受け致します。
どうか寛大な心で、私の不注意をお許し下さい。」
口をポカーンと開け、たまらず顎が抜けそうになる。
私の失態を見なかったことにしてくれるだけでも十分なのに、敢えて水を私へ浴びせ、自分は泥を被ろうという機転の良さに痺れる。
この身は女性でも、私には存在しないだろうと思っていた乙女回路が、高速でフル回転する。
火照り始めた顔とどんどん高鳴る鼓動に戸惑いながら、ヒルダに抱きつきたい衝動を必死に抑えた。




