第52話 月明かりの誘惑
「おっ!? お嬢、どうした? 眠れないのか?」
テントから顔を出すと、パキパキと木がはぜる小さな音が聞こえた。
火の番をしていた男は、背を向けたまま横顔をこちらに向ける。
彼は盗賊たちの中にいた元貴族、名前は『ロイド』という。
家を捨てたため、家名も出身も名乗ってはくれなかった。
しかし、それでは今後、不都合が生じるかもしれない。
そう考えた私は帝都に移り住んだ際、父から化粧料として与えられた村『メイヨール』の名前を彼に与えた。
こうして、彼は『ロイド・メイヨール』となった。
他の盗賊たちも同様だ。
土下座までして強く望むから、揃って『メイヨール』の出身を与えている。
ヒルダによれば大盤振る舞いすぎるらしいが、私にはいまいちピンとこなかった。
軽い気持ちだったが、盗賊たちのような流れ者には、非常に重要な意味を持つのだとか。
この戦いが済んだら、彼らの戸籍もちゃんと作る予定だ。
それを告げると、盗賊たちは抱き合って泣くほど喜んだ。
私としては、この戦いの後も自由になる手駒が欲しかっただけだが、水を差すほど無粋ではない。ヒルダには深々と溜息をつかれたけれど。
「……ヒルダは?」
テントから身体も出して立ち上がり、辺りをキョロキョロと見渡す。
だが、お目当てのヒルダの姿は、どこにも見渡らなかった。
「姉御なら周辺の警戒に……。あ、そうか、小便か!」
「えっ!?」
「弱ったな。俺じゃ駄目だし……。我慢できるか?」
その瞬間、ロイドは勘違いをしたようで、無精髭が生えた顎を右手でさすりながら眉を寄せた。
確かに、出会って以来、私が用を足す際は、ヒルダは必ず付き添っていた。
そのせいで、ロイドだけでなく、盗賊たちも私が一人では用を足せないと、完全に信じきっている。
何度か訂正したものの、彼らは上級貴族のご令嬢はそういうものだと認識しているらしい。
それでも、それを確かめさせる現場を、まさか見せるなんて有り得ない。
私は自分の認識を改めさせるのを諦めていた。
「うん、まあ……。」
「じゃあ、火に当たるか? 白湯でも……。って、それも駄目か。余計に近くなるな」
だから、私はロイドの勘違いに便乗することにした。
どうせテントに戻っても眠れない。
それなら、ロイドと雑談でもして過ごすのも悪くないと思った矢先、森の奥に二つの輝きが見えた。
一瞬、大きく輝いたそれは光を集めて煌めく虹彩だった。
「お嬢様、どうなさったのですっ!? もうとっくに寝たのではっ!?」
そして、私がそれに気付いたように、ヒルダも私に気づいたのだろう。
藪をかき分ける音と共に、彼女は血相を変え、大慌てで駆けてきた。
「おお、丁度良かった。お嬢が小便だ」
「ロイド! 『様』を付けろと、何度も言っているでしょ!
それと、お嬢様は小便などしません! お聖水と言いなさい!」
「なんだ、そりゃ?」
「ははは……。みんな、寝てるんだし、静かにね?」
街道を大きく迂回して、敵に見つかる可能性は低いとはいえ、私たちは潜伏中である。
森の静けさに響き渡るヒルダの怒号に、私は思わず顔を引きつらせるしかなかった。
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「ここまで来れば、大丈夫です。さあ、どうぞ」
ヒルダに腕を引かれ、野営地から随分と離れた藪の中へやってきた。
パンツを下ろされ、膝を持たれ、背後から抱えられるたび、私はいつも同じことを考える。
戦場では、女も『立ちション』をするのではなかったのか。
私が『立ちション』をしたのは、母の肖像画の前で一度きりだけ。
結局、こうしてヒルダのお世話になっていた。
「どうしましたか? さあ、存分に」
そんな悩みを抱える私に、ヒルダは焦れたらしい。二度、三度と体を揺すった。
だが、出ないと言うか、そもそも私はもよおしていない。
正直に言おう。
私が眠れなかったのは、もよおしたからでも、戦いを前に気が昂ったからでもない。
どうにもムラムラしたものが止まらなかったからだ。
だって、仕方がない。
ヒルダとの夜を過ごしたのは、温泉旅行の滞在最終日の夜である。もう半月以上も前の話になる。
それでも、今日までは戦場に急ぐことが最優先で、そんな気持ちなど湧きもしなかった。
ヒルダも同様だろう。私を求めてくることはなかった。
しかし、今夜は駄目だ。
私は現場を見たわけではないが、ヒルダとイザベラさんが熱い時間を過ごしたのを知っている。
夕方、小川で水浴びを一緒にした時、ヒルダの右内ももにキスマークが付いていたのも確認済みだ。
嫉妬で心がざわめき、想像が止まらない。
テントの布一枚隔てた暗闇で、どうしても二人の顔が頭を離れない。
胸の奥に灯った熱は、息苦しいほどに膨らみ、もう眠りなど訪れるはずもなかった。
限界だった。
「ね、ねえ……。つ、月を一緒に見ない?」
だから、二人だけの秘密。私はヒルダを求めるときのサインを送った。
恥ずかしさに顔を俯かせると、期待を早くも溢れさせた身体が、月明かりを受けて艶めかしく反射していた。
そのせいで、ますます頬が熱を帯び、耳まで真っ赤になっていくのを自覚してしまう。
「……えっ!?」
すぐ耳元で、ヒルダが息を呑むのが分かった。
当然だろう。イザベラさんの元から帰ってきて以来、私はヒルダに冷たく当たり、嫌味ばかり言っていた。
それこそ、夕食後に『たまには一人で寝たいから、別のテントで休んで』と突き放してもいた。
それなのに、今になって都合よく彼女を誘惑している。自分のずるさを思うと、胸の奥がひどくむず痒かった。
「イ、イザベラさんにしたのと同じことを……。う、ううん、もっと凄いことを、シて?」
「お任せ下さい!」
「えっ!? えっ!? な、なにっ!? ど、どうしたのっ!?」
突然、ヒルダが私を抱えたまま走り出した。
私の髪に、彼女の荒い鼻息が熱を帯びてかかり、くすぐったいほど揺れた。
「お嬢様は声が大きいですからね。もっと離れないと、バレてしまいますよ?」
「ば、ばばば、馬鹿ぁ~……。そ、それはヒルダのせいでしょ?」
「ウフフっ……。お嬢様、可愛いです」
私たちが野営地に戻ったのは、約二時間後のことだった。
無論、ロイドは酷く心配して待っていたが、『月を一緒に見ていた』と言い訳しておいた。嘘はついていない。




