第47話 桜舞う日に
「参る!」
白い道着に紺の袴。祖父が庭の砂利を蹴り散らし、道場へ駆けてくる。
右手に抜き放たれた日本刀、左手には腰から外した鞘。
この瞬間、夢だと悟った。
祖父に魅せられた光景は数あれど、これほど鮮烈に覚えているものは少ない。
そう、あれは十八の春。
桜が舞い、大学進学を控えた前日のこと。あの時の俺は、ただ『凄い』としか思えなかった。
今の俺なら、あの日の感覚を追いながら、目で全てを味わえる。
神様がくれたチャンスだ。改めて、祖父の教えを心に焼き付けねば。
「やぁっ!」
祖父が砂利を蹴り上げて踏み込み、一気に道場の縁側へと迫った。
俺は上段に構えていた日本刀を振り下ろし、ピーンと張った縄を断ち切った。
その瞬間を決めるのは、俺に委ねられていた。
ただし、それは祖父に合わせたものではない。
道場の天井を渡る太い梁。
そこから縄で繋がれ、道場の三方の柱上部に貼り付けられていた3匹のイノシシの骸が、次々と拘束を解かれた。
それぞれがその重い体躯を揺らしながら、勢いよく道場の中央へと迫る。
「ひとつっ!」
だが、その軌道は一直線ではない。
祖父が庭に出た後、俺は長押と長押を繋ぐ縄を、道場の中で『井』の字の形に張り巡らせていた。
さらに、イノシシと梁を繋ぐ縄に触れれば、軌道や揺れの速度にブレが生じる。
そのランダム性は、俺ですら予測できない。
「ふたつっ!」
しかし、祖父は駆ける速度を緩めることなく、迫り来る二匹のイノシシを、ものの見事に両断してみせた。
道場の三方の柱上部にイノシシが貼り付けられていると知っていても、道場に足を踏み入れた瞬間、その姿は目に入らなかったはずなのに。
「みっつっ!」
そして、3匹目のイノシシも、瞬く間に両断した。
その天井と縄で繋がらない片方が、床を転がりながら滑り、俺の足元で止まった。
見事な断面だった。
肉も、太い背骨も鮮やかに断たれている。
澱みのない力のもと、抵抗すら許さず、一刀で断ち斬った証である。
俺だったら、1匹目ですら、こうはできなかった。
きっと、2匹目の迎撃に間に合わず、イノシシの重い体躯を無様に受け止め、突き飛ばされていただろう。
「す、凄えっ……。」
祖父という、目指していた壁の高さを思い知り、俺はただ感嘆するしかなかった。
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「お前も薄々気づいていただろうと思うが……。
我が山河流剣術は三拍子が基本だ。
一打ち、二打ち、三流れ……。これが基本にして、奥義だ」
祖父は縁側に腰掛け、汗を拭っていた。
俺は道場の庭で、昔ながらのコンクリートブロックの竈に薪をくべ、イノシシ鍋の支度をしていた。
「一打ち、二打ち、三流れ……。」
そんな最中、初めて教わるフレーズと、いきなり『奥義』という言葉。
慌てて立ち上がり、祖父に向き直る。教わったフレーズを口に出し、胸に染み込ませるように繰り返した。
「そうだ。戦場では、首を手柄にしようとする瞬間こそ、最大の隙が生まれる。
そんなものを手に入れるより、次の敵を打ち、それを手柄とするのだ。
即ち、一を打ち、二を打ち、三を打って流れる。これが奥義だ。……心得たか?」
「はい!」
祖父の鋭い眼差しが俺を貫く。
思わず身体に力を込め、気合いを乗せて返事をした。
「よし……。ならば、免許皆伝だ」
「……えっ!?」
だが、驚きはまだ続いた。
予想外すぎて、胸の奥がざわつき、言葉が喉に詰まる。
祖父が眼差しを緩め、ふっと微笑む。
「本当なら、お前などまだまだ。最低、あと10年はかかる。
しかし、儂も歳だ。何があるか分からん。
そして、明日。お前はここを離れる。……だから、儂からの手向けだ」
「じ、爺ちゃん……。」
俺の胸に、ジーンと熱いものが込み上げ、涙が滲んでくるのを自覚した。
鼻をすすり、涙を拭おうとしたその瞬間だった。
「だが、せっかく東京に出て、大学生になるんだ。
もう剣など捨てて、青春を謳歌して良いんだぞ?」
「い、いきなり何を言うんだよ!」
さらなる予想外すぎる言葉に、頭の中が一瞬、真っ白になる。
気づけば、俺は怒鳴り返していた。
「我が山河流剣術は戦場の剣、生き残るための剣だ。
しかし、この平和な日本のどこに戦場がある? 殴り合いすら、見たことないだろ?」
「そ、それは……。」
「確かに、世界を見渡せば、争いは途切れない。
だが、今は銃の時代だ。剣など……。無用の長物だとは思わないか?」
しかし、祖父の言葉は重く、頷くしかなく、反論することも出来なかった。
悔しさに、俺は拳をぎゅっと握りしめた。
「昭和の終わり頃までは、この道場にも門下生は少ないながらいた。
お前が、四十年ぶりの弟子だ。
その証拠に、お前が通っていた中学校にも、高校にも、剣道部は無かっただろ?」
これも、頷くしかない言葉だった。
俺の周りで、剣を学んでいる者など、一人もいない。
正確には違うが、趣味は何かと問われて、『剣道』だと答えると、ただ『へぇ~~、そうなんだ』と返されることを、何度も経験した。
確かに、剣の道は辛く、険しく、厳しい。
鍛錬を少しでも怠れば、それを取り戻すのに多くの時間がかかる。
昔と違って、遊びにあふれている今では、皆がそちらへ流れてしまうのも理解できる。誘いを断ったことも、何度も経験した。
でも、俺は幼いあの日、祖父の強烈な輝きに、心を焼かれたのだ。
皆がゲームに、音楽に、女の子に興味を持つ中、俺は剣を捨てられなかった。
「まあ、田んぼと畑は継いでほしいが、剣は……。」
「いや、続けるよ!
俺は爺ちゃんみたいになりたくて始めたんだ! 絶対に止めたりしない!」
その熱意がほとばしると、俺が右手で胸を叩いた。
すると、祖父は薄く笑みを浮かべた。
「ふっ……。そうか。そこまで言うのなら、やってみろ」
風が吹き、桜の花びらが舞い、俺と祖父の間を駆け抜けていった。




