第43話 侍従長の問い、侯爵家令嬢の覚悟
「ヒルダ!」
夕飯時を過ぎたのに、帝都の門は長蛇の列で埋まっていた。
戦時下に突入した今、やはり入場には厳格な審査が必須なのだろう。
魔力で強化した脚力を駆使し、列の横を疾走する。
風が耳を打ち、地面の振動が足裏に伝わる。
私の呼び声に応え、ヒルダは速度を上げ、軽やかに私を追い抜いていく。
そして、迫る城壁の約十メートル手前で、ヒルダは突然止まった。
振り向きざまに腰を落とし、組んだ両手を私へ差し出す。
「はい、どうぞ!」
「はっ!」
その両手に右足を乗せ、勢いよく踏み切る。
一瞬の浮遊感。見上げるほど高かった城壁が、眼下に広がる。
風が頬を切り、城壁を飛び越え、目の前に迫ってきた屋敷の屋根に着地。
バキリと軋む音。踏み足が屋根を突き破る直前、再び踏み切って跳ぶ。
迷惑をかけた屋敷の主には、後でウォースパイト侯爵家から使いを出し、謝罪と賠償をすることにして、今は先を急ぐ。
城門の審査も、ヒルダがきっと上手いことやってくれるだろう。
「よっ! ……はっ! ……とうっ!」
帝都のメインストリートを行き交う人々が、私を指さして騒いでいる。
しかし、そんな声に耳を傾ける暇はない。
私は屋根から屋根へと跳び渡り、風に髪を乱されながら、我が家へと真っ直ぐに向かう。
******
「おかえりさないませ。お嬢様」
屋敷の玄関の扉を勢いよく開け放つと、侍従長がいた。
豪奢なシャンデリアの灯りの下、広いホールにただ一人、侍従長が立ち、深々と頭を垂れていた。
「えっ!?」
これから侍従長を探して、事情を説明しようと思っていた矢先である。
当然、私は戸惑った。戸惑うあまり身体に纏っていた魔力が途切れ、霧散する。
「東方領の危機を知れば、必ず駆けつけると待っておりました。
こちらで準備は済ませてあります。今はまだお帰りにならない旦那様の説得もお任せ下さい」
「そ、そうなんだ! じゃ、じゃあ!」
侍従長は頭を下げたまま、微動だにしない。
その揺るぎない姿から、私に対する強い信頼感が伝わってくる。胸が熱くなるのを感じ、私は目を輝かせ、一瞬だけ息を整えた。
「ですが、ご確認がございます」
「えっ!? ……な、何?」
ようやく頭を上げた侍従長の鋭い眼差しが私を射る。
思わず背筋が伸び、足が一歩後退る。玄関ホールの静寂が重くのしかかる。
そういえば、私は門から玄関前まで芝生を踏み削りながら走ってきたはずだ。
その騒がしさを耳にした者がここに集まってもよさそうなのに、侍従長以外、誰も現れない。妙だ。
「東方領へ向かうには、二つのルートがあります。
東へ向かい、副都から船で渡るルートと、北へ向かいトーリノ関門を越えて、そこから東へ進むルートです」
「うん、それが?」
「副都へ向かうのは下策です。
お嬢様は騎士でもなく、まだ未成年の女性。
戦時下の今、全ての船は軍に徴発されていると考えるのが妥当です。いかにウォースパイト侯爵家の令嬢でも、小舟一艘すら用意できません」
「なるほど……」
私は唇を噛み、視線を床に落とした。
侍従長の考察は理にかなっており、反論の余地はなかった。
しかし、心の奥底には小さな不安が芽生える。
副都から船で渡るルートしか経験を持たない私に、果たして無事に辿り着けるだろうか。
絶対に付いてきてくれると信頼しているヒルダは、もう一つのルートを進んだ経験を持っているだろうか。
「必然的に、トーリノ関門を超えるルートを選ばざるを得ません」
「うん、そうなるかな?」
「しかし、その覚悟がお有りですか?」
「えっ!?」
侍従長の声に力が増した。
その響きは単なる言葉ではなく、意志の重さを伴い、空気まで張り詰めたように感じられる。
思わず肩に力が入るのを自覚した。
「今は冬。特にトーリノ関門周辺は雪深く、馬で進むことは叶いません。
お嬢様にその覚悟がありますかな? 下手すれば、数日も吹雪の中を歩くことになります。利に聡い商人ですら諦める吹雪の中をです」
胸の奥に影が差した。
冷たい風の中で、凍えそうになる自分を想像する。
「ある! 私は行く!」
だが、私は胸を張り、拳を握りしめた。
目の前の侍従長を見据え、声を震わせずに宣言した。
「戦場へ向かうとなれば、遅参は許されません。
昼夜を問わず駆け、休憩は最小限。荷物も最小限。
今日まで食べていたようなご馳走も口にできません。
それを東方領まで耐えられますか? どんなに早くても十日はかかります。
いや、辿り着いたとしても、そこは戦場です。
そして、お嬢様は見た目麗しい女性。もし、囚われれば、慰み者として弄ばれる可能性もあるのです」
侍従長は重ねて、私の覚悟を問いただす。
その声の重みが、ホールに張り詰めた空気と相まって、全身を震わせる。
私は右手で胸を叩き、力強く頷いた。
「私を見くびらないで欲しい! そんなことは承知している!
それでも、私は帰る! 必ず!
たとえ虜囚となり、処女を奪われようと……。泥水を啜ってでも帰ってきてやる!」
侍従長の目が険しさから柔らかさに変わる。
「その言葉が聞きたかった。……やはり貴女様は奥様の子だ」
ゆっくりと頷いた侍従長は、心の底から嬉しそうに微笑む。
その笑みを受け、胸の奥に熱い決意がさらに燃え上がるのを感じた。




