第42話 皇妃の勅命、侯爵令嬢の決断
「皇妃様のご尊顔を拝謁、誠に恐悦至極に存じ……。」
「前置きは要らないわ。何が起こっているの?」
三泊四日の温泉旅行の帰り道の三日目。
小さな街に着き、与えられた部屋で夕飯までの時間をくつろいでいた。
窓の外には、沈みかけた夕日が街並みに柔らかいオレンジ色の光を落としている。
すると、街がにわかに騒がしくなった。
遠くから馬の蹄の音が連なり、人々のざわめきと混ざって響く。
何事かと窓から覗くと、軍勢が宿代わりの町長宅前を、ぞくぞくと通過していた。
鎧をまとった兵士たちの列は、町の石畳を揺るがすほどの重みを持って迫り、馬の鼻息や甲冑の金属音が静かな街を圧倒していた。
町の人々は軒先に集まり、息を潜めながら行列を見守る。子どもたちは母親に手を引かれ、犬たちは怯えたように吠えた。
軍勢の様子は明らかに変だった。
もうすぐ夜になるというのに、軍勢の足並みは早い。夜通しで行軍する覚悟が見て取れた。
たまらず部屋を飛び出し、慌ただしい足音のまま町長宅のロビーへ降りていった。
明かりの灯った広間には、すでに人々が集まり、息を呑んで事の成り行きを見守っていた。
その中心に、皇妃様と殿下。
威厳に満ちた皇妃様は椅子に腰掛け、その隣に殿下が立っている。
その前に見知らぬ騎士が跪き、泥に汚れた膝を床に押しつけ、深々と頭を垂れていた。
「サウアラ王国が東方領国境を攻め入りました」
「こんな冬に?」
思わず眉がピクリと跳ねる。
東方領、その名を聞き捨てならない。
そこは、私の家『ウォースパイト侯爵家』が統括する、帝国北東のあたる広大な一帯だ。
二十を超える領主たちを束ね、そのすべてを皇帝陛下の代理として治めるのが、我が一族の宿命だった。
「はい、それも大動員とのこと。
国境の砦を守る第五騎士団は帝都に援軍を求め、急使を送ってきました」
「……ということは、東方領の領主たちには?」
「はい、既に第五騎士団の権限において、召集令が発令されています。
恐らく、副都に駐留中だった第七騎士団も東方領国境へと向かっていると思われます」
しかし、父は今、その地にいない。
私を騎士にさせまいと、お祖父様と一緒に帝都を離れ、私が三泊四日を楽しんできたのとは別の温泉地にいる。
今、ウォースパイト侯爵家の領地にいるのは、兄だけだ。
兄は、私が来年入学する予定のオーガスタ学園を、去年の秋に卒業したばかり。
学園での成績は常に優秀で、武芸も文事もそつなくこなす。
人当たりもよく、若いながらも周囲の信頼を集めていたと聞く。
だが、ウォースパイト侯爵家の名は重い。
私が抱く兄の印象は、いつも優しく、誰にでも声をかけ、困っている者を放っておけない人だった。
だけど、その優しさだけでは、海千山千の東方領主たちを従えることは難しい。
帝都の宮廷ならいざしらず、長年をサウアラ王国との紛争を続けてきた彼らは、血筋や格式よりも『武力』と『統率力』にこそ従う傾向が強い。
ましてや、戦時となったら尚更だ。
優しさは人を惹きつけもするが、時に決断を鈍らせる。
一瞬の迷いが兵を死地へ送り、東方領の民たちの命を危険に晒す。
兄は、その重責に耐えられるのだろうか。
「それほどの大軍勢なのね……。陛下と代理は?」
「陛下は御行幸中。総司令官代理はそれに同行中と伺っています。
急使が帝都に届いたのが三日前。
御二人の帰りを待っていては遅いと、法務長官が我ら第八騎士団に派遣令を出しています」
私の眉が再びピクリと跳ねた。
まさかまさか、ここで私の騎士科入学が大きな影響を与えてくるとは思ってもみなかった。
陛下と父、そしてお祖父様が湯治中の温泉地は、帝都から馬車で一週間ほどかかる遠方だと聞く。
帝都から早馬を飛ばし、そこから三人が昼夜を問わず強行軍で戻ってきても、到着までには少なくとも一週間はかかるだろう。
つまり、最低でもあと四日。
そこから父が東方領国境へ急いだとしても、大事な局面に間に合わない可能性が高い。
「そうね。今の帝都の最上位者となれば……。
でも、足りないわね。これを持っていきなさい。少しは道中の手間が省けるはずよ」
「おおっ! 有り難く!」
「では、行きなさい。吉報を待っています」
皇妃様が短剣を騎士に授ける。
その柄には皇妃様を象徴する紋章が刻まれており、そこに皇妃様の威厳と決断が強く宿っているかのようだった。
だったら、私がここで動かなくてどうする。
ウォースパイト侯爵家の血をひく者が、この危機を知って、帝都でのうのうと過ごしていられるはずがない。
いや、嘘だ。
建前はともかく、私の本心はただ戦いたかった。
ムラサメを振るい、戦場という狂気の渦に飛び込みたかったのだ。
胸の奥で何かが弾け、身体中に熱が駆け巡る。
下腹の奥から甘い疼きが放たれ、全身をブルリと震わせる。これが武者震いというやつかと、口の端をニヤリと吊り上げる。
「ヒルダ!」
騎士が町長宅を駆け出てゆき、皇妃様が私に視線を送った。
すぐさま足を肩幅に開き、両手を左右に広げる。
「はい!」
背中でブチブチブチッと鳴る。
ヒルダがナイフで、私が着ているドレスの留め紐を断ち切ったのだ。
ドレスが音を立てて床に落ち、解放された身体が軽く弾む。
「えっ!? ちょっ!? メ、メアリス、何してるのさっ!?」
私の下着姿を目の当たりにして、殿下は顔を真っ赤に染め上げ、慌てふためいている。
だが、そんなことに構ってられない。
私は両手を広げたまま。
ヒルダがてきぱきと、私を着替えさせる手順に合わせて、体を滑らかに動かす。
相変わらず、ヒルダはスーパーメイドというしかない。
今、私が着替えさせられている冒険者時代の装いを、一体いつ用意したのだろうか。
温泉旅行に持ってきたことは知っていたが、さっきまで部屋にいたときには、確かに見かけなかったはずだ。
皇妃様付きと殿下付きのメイドさんたちも、さすがというしかない。
私が下着姿になるや、周囲に素早く集まり、背をこちらに向けて立った。
壁のように、私を囲むことで外からの視線を遮り、守ってくれていた。
でも、殿下はダメダメの失格だ。
両手で目を覆っているが、よく見ると右手にはわずかな隙間があり、そっと外の様子を覗き込んでいる。
さらに、こっそりと背伸びまでして、私の姿を見ようとしているのが丸わかりだ。
やがて、着替えがすべて済み、背後で壁になっていたメイドさんたちは静かに離れる。
「今、馬を用意させるわ」
皇妃様の心配そうな眼差しがこちらに向けられる。
「いえ、一旦屋敷に寄ります。なら、走った方が早いです」
私は力強く頷き、視線で意思を伝える。
「えっ!? えっ!? えっ!?」
殿下は状況が分かっているのか、分かっていないのか。
私と皇妃様の顔を交互に見やり、まさに戸惑いの極みといった表情。
目は泳ぎ、口元は引きつり、息も乱れがちで、まるで小動物のように挙動不審に動いている。
「約束よ? 絶対に戻ってくるのよ?」
皇妃様が駆け寄り、私をギュッと抱きしめる。
その温もりと重みで、思わず心が震えた。
「もちろんです!」
私の顔が皇妃様の胸に埋もれ、息苦しさを感じた瞬間、慌てて顔を上げる。
そして、緊張を解くようにニッコリと微笑む。
皇妃様もまた、ほっとしたように微笑み返してくれた。
最早、憂いはない。あとは進むのみ。
私はヒルダからムラサメを受け取り、玄関の扉を力強く叩きつけるように開放する。
「ヒルダ、急ぐよ!」
「はい、お嬢様!」
冬の冷たい風が顔を打ち、身体を包む。
だが、鼓動は高鳴り、体中が戦いへの高揚感で熱く燃えていた。




