第37話 皇妃様の微笑
「メアリス、何をしてるのさ! 早く、早く!」
滅多に人が通らない静かな渡り廊下の先から、私をせかす声が届いた。
T字路の分かれ道で、その場で駆け足をしながら、美少年がこちらを手招きしている。
彼の名は『クラウス・デ・マールス・ランベルク・アルビオン』という。
皇太子にして、我が国の第二皇子。
婚約者候補である私の相手で、年齢は14歳。私と同じだ。
「殿下、お待ちください。私はそんなに速く走れません」
そんな殿下に小さく苦笑を返して、猫を被って、しずしずと歩く。
本音を言えば、私の方こそドレスの裾を摘みながら猛ダッシュして、追い抜いた殿下を急かしたい気分だった。
しかし、それはできない。
ここは皇城と皇居を結ぶ渡り廊下。
殿下が急かしているのは、皇城と宝物庫と呼ばれる屋敷へ至る分岐路だ。
周囲に人影はなくても、巨大な石造りの五階建て皇城の窓から誰が見ているかはわからない。
帝都の東西を見守る尖塔は特別に高く造られており、昼も夜も騎士が常駐している。
以前、帝都の景色を楽しむお茶会で何度か連れて行ってもらったことがあるが、そこから中庭や渡り廊下の様子がよく見えた。
もしここでスカートを翻して走ったら、間違いなく私の評判は下がる。
私だけの問題で済むならまだしも、ウォースパイト侯爵家やその領民にまで影響が及ぶ可能性を捨てきれないので、外面は大事にしなければならない。
「フフ、ごめんなさいね。
クラウスったら、滅多にないメアリスちゃんのお願いだから、つい張り切っちゃって」
「こちらこそ、申し訳ありません。いきなり無理を言っちゃって」
それには、もう一つの理由がある。
私の隣を歩く女性。殿下の母、アルビオン帝国皇妃『ソフィア・デ・ビュスト・ランベルク・アルビオン』だ。
髪はやや薄い金色、瞳はグレー。年齢は33歳。
可愛い系の童顔で、スマートな体型もあり、実年齢より若々しく見える、
この世界の女性の一般的な結婚適齢期は15歳からなので、10歳を超える子供がいても不思議はないが、彼女からはそんな気配はまったく感じられない。
皇妃様は日頃から私に何かと気を配ってくれており、その期待を裏切りたくはなかった。
今日も、宝物庫を見たいといきなり言い出した私のお願いを、あっさりと聞き入れてくれている。
もちろん、最初にお願いしたのは殿下だが、国宝を収める宝物庫への立ち入りは、殿下の一存だけでは不可能だった。
皇妃様の立ち会いを条件に立ち入りが許され、今はその道中にある。
ちなみに、皇帝陛下は現在、皇城に不在だ。
どうやら父とお祖父様に釣られて、同じ温泉地へ向かったらしい。
どうせなら皇妃様も一緒に連れて行ってあげればいいのにと思うが、帝都に残った理由が私だと察しているのだろうから、感謝しかない。
その証拠に、最近は夕食の一品に皇妃様の手料理が届いている。
多分、湯治に向かった父とお祖父様に置いてけぼりを食らったと勘違いしているのだろう。
「いいのよ、いいのよ。
でも、剣が見たいっていうのは意外だったかな。
春頃、剣術を習い始めたって話は聞いてたけど、そこまで夢中になるとは思わなかったから」
「実は、やり始めたらハマっちゃって」
「うん、そういうことってあるわよね。私はいいと思うわ。
今のメアリスちゃん、運動するようになったおかげで顔色も良いし。
それに最近は寝込んだって話も聞かないから、歓迎しちゃう。女が剣術なんてって言う人もいるだろうけど、私は応援しているから」
私の剣術について、殿下や皇妃様には話したことがない。
それを伝えるなら、騎士科入学が決まったタイミングが適切だと考えていた。
その理由は、皇妃様が今言った通りだ。
爵位が高くなればなるほど、家が裕福になればなるほど、この世界の令嬢は周囲に人を置き、身の回りの世話をしてもらう。
護身目的ならまだしも、剣術を積極的に嗜み、騎士を目指す。
しかも、きったはったの戦場に立ちたいなんて論外中の論外。侯爵家令嬢としては、超マイナスポイントにしかならない。
「ありがとうございます!」
しかし、皇妃様は知っていた。
それも、私が鍛錬を始めた頃から知っていて、密かに応援もしてくれていた事実を知り、ジーンと感動して胸が震えた。




