第34話 甘い匂いと男心
「あの爺ぃ……。いや、まあいい。そこは百歩譲って許そう。
だが、風呂を勝手に使うなんて、何を考えている! 自分の立場をもっと考えろ!」
「だって、屋敷まで遠いんだもん。汗だくのままいるのは嫌だし……。体が冷えたら風邪をひくじゃん?」
「それなら、共同浴場に女湯があるだろう! そこを使え!」
テオは一体何にそこまで怒っているのだろう。
わざわざ席を蹴って立ち上がり、机を両手で叩くほどのことだろうか。
確かに、部屋に勝手に入り、風呂を使ったのは私の非だ。
だが、私との鍛錬の後、どこをぶらぶらしていたのだろう。
小一時間、私はその帰りを待たされてもいた。
それに、私は下着姿を見られている。
部屋の隅で着替えていたし、背後にはヒルダも立っていた。
しかし、出入り口の角度からすれば、姿見に映る私の姿はばっちり見えたはずだ。
それを、友人としての誼で許し、その関係を維持しようとあえて話題にせず、何事もなかったかのように振る舞っていたのに、いったい何が不満なのか。
『不満なのは、こっちの方だ』と唇を尖らせながら、私は反論を重ねていく。
「いやいやいや……。それこそ、立場を考えた結果だよ?」
「どういう意味だ?」
「ほら、第一皇子のお前なら経験があるだろ?
自分が来た途端、みんなが立場を気にして、それまで和気あいあいとした場が急に静まり返るのって」
「むっ!? ……あるな」
「それと同じだよ。私が来た途端、脱衣所も、お風呂場もシーンと静まり返ってさ。
寛げるはずの場所が寛げなくなって、みんながそそくさとお風呂を上がり始めるんだ。
これから入ろうとして服を脱いでいた娘も、急に服を着始めるし……。
昨日なんて、誰もいなくて変だな~と思ったら、私が来る時間を最初から空けて待っていてさ。
さすがに、それは申し訳ないだろ?
……で、お祖父様の部屋へ行ってみたんだけど、風呂嫌いだから滅多に使わないんだろうね。
水を温めるやつが壊れていてさ。夏ならそれでも構わなかったけど……。じゃあ、この部屋でってね」
「何が『じゃあ』だ! 妙な噂が立ったら、どうする!」
「妙な噂って……。今更だろ?
ここ最近、私とお前が手合わせを毎日しているのなんて、ここの者なら誰もが知ってることだろ?」
軍配は私に上がった。
論破されたテオは悔しがり、押し黙ったまま俯き、机に突いた両腕をプルプルと震わせている。
ふと、ソファーに座る私の背後から短い溜息が聞こえた。
思わず振り返ると、ヒルダはいつもの澄ました顔で立っており、すぐにテオの方へ向き直った。
「分かった……。お前に何を言っても無駄だと分かった」
「うん? どういう意味?」
「いいだろう。今後は風呂を使うのを許そう。
だが、風呂を使うときは部屋のドアに、分かるような札でも掛けておけ! 今日の二の舞いは御免だ!」
「ああ、それについては配慮が足らなかったって反省している。次からはそうするよ」
でも、私にも反省点はある。
テオの提案は的を射ており、頷くしかなかった。
今、周囲が気を使う苦労について語ったが、逆もまた然りだ。
最近はお世話をされるのが当たり前になりすぎて、私自身の気配りが薄れていた気がする。
そもそも、私はお風呂も着替えも一人でできる。
以前の私とは違う。
身体が固くて届かなかった背中にも今は手が届き、ブラジャーのホックも自分で留められる。
今回の失敗は、ヒルダを部屋の前に立たせておくだけで簡単に回避できたはずだ。
多分、ヒルダは世話をしたがって拒否しただろうが、テオに着替えの現場を目撃されるリスクを天秤にかけたら、立番を受け入れてくれたに違いない。
「それと、この部屋で菓子を食べるのはやめろ!」
「お菓子? 食べてないけど?」
「嘘をつけ! 甘い臭いがするだろうが!」
だが、理不尽なクレームは困る。
そういえば、以前の会話で甘いものは苦手だと言っていたのを思い出し、私は眉をひそめて困惑する。
「甘い匂い? ……する?」
「ああ……。それはお嬢様の匂いですね」
「私の?」
顔を左右にキョロキョロと振り、鼻をスンスンと鳴らして嗅いでみても、何も感じない。
意見を求めて背後に顔を向けると、ヒルダから意外な答えが返ってきた。
「はい、外では分かりにくいかもしれませんが、汗をかかれましたし、入浴もされましたから」
「ふ~~~ん……。甘いんだ?」
それならと、右腕、左腕の順に鼻へ寄せて嗅いでみるも、何も感じない。
次に着ているワンピースの胸元を引っ張って嗅いでみても、結果は同じ。
やはり、自分の体臭なんて分からないものだなと思いながら、指摘者のテオへ視線を戻したその瞬間。
「なっ、ななっ!?」
テオは身体をビクビクッと震わせると、仰け反りながら後ずさった。
その際、私の位置からは見えなかったが、椅子を足で押し蹴ったのだろう。板張りの床を滑る派手な音が、ガガガと鳴った。
しかも、その体勢のまましばらく固まったままになり、どうしたのか声をかけようとした矢先、急に無言で足早に歩き出した。
釣られて目線でその様子を追うが、仮眠室もお風呂場もトイレも逆側にあり、向かう先は出入り口しかない。
時刻はまだ夕方前で、食事を摂るにも軍司令部舎に設けられた食堂はまだ開いていない。
「どこへ?」
「知らん! さっさと帰れ!」
そして、思わず身を竦めてしまうほどの音を立てながら、ドアを勢いよく閉めて、その姿は向こう側へ消えた。
帰れと怒鳴っておきながら、自分の方が部屋を出て行くという意味不明さに、私は目をパチパチと瞬きして、改めて困惑を深めた。
「どうしたんだ? あいつ?」
「お嬢様は男心を少し勉強するべきですね」
今一度、意見を求めて背後へ顔を向けると、深いため息が頭頂部にかかり、前髪が揺れた。
そのナンセンスな答えに、思わず吹き出す。
「ぷっ!? ナイスジョーク! それを私に言う?」
元男の私以上に男心を知る女は他にいないと、ヒルダも分かっているはずなのに。




