第22話 父を呼ぶ声
「お嬢様、お待ちください! 外は寒いですよ!」
ヒルダが背後から呼び止めていたが、私はひた走った。
無駄に広い屋敷を、白い息を吐きながら駆け抜ける。今の私に、立ち止まる余裕などなかった。
私には、もう時間が残されていない。
来年、私は十四歳になる。秋が来れば、貴族として国法に従い、帝都郊外にある『オーガスタ学園』への入学が義務付けられている。
学園には、一般教養を学ぶ普通科のほか、政学科、魔術科、騎士科の三つの専科がある。
私が進むのは政学科だろう。
それは、同い年の殿下が政学科に進むためだ。
学園生活を通じて殿下との相性を見極め、将来の皇妃として政治を学ぶ必要がある。
つまり、婚約者候補の一人である私が、殿下との結婚に一歩近づくことを意味している。
絶対に、受け入れられない。
この流れは、何が何でも止めなければならない。
第一に、その気など微塵も持たない私が、婚約者候補に名を連ねていること自体が耐え難い。
他の候補者の名前は一人も知らないが、彼女たちのためにも、私は候補から外れるべきだ。
今なら、まだ間に合う。希望は、残されている。
オーガスタ学園への入学が避けられない義務なら、その中にも希望はある。騎士科だ。
皇城でいろいろな人に聞き回ったところ、皇妃に最も求められるのは『安心感』らしい。
現役の皇妃様も、殿下も、ほぼ同じ答えだった。決して、剣を手に戦うような緊張感を与える存在ではない。
だったら、私が騎士科に入ったらどうなるか。
皇帝陛下や国の重鎮たちは、きっと呆れるに違いない。
将来の皇妃失格の烙印を、満場一致で押され、私は殿下の婚約者候補から外されるだろう。
それに、騎士とはイコール軍人だ。
我が国の国民や当家の領民を守る役目があり、それは貴族としての義務を果たすことにもつながる。
さらに、自分が研鑽して積み上げてきた技術を強者にぶつけることもでき、一石二鳥ならぬ一石三鳥である。
だが、今の私は未成年。父の庇護下にある。
貴族として、オーガスタ学園で三年間の教育課程を修了しなければ、一人前として認められない。
どれだけ私が騎士になりたいと声高に訴えても、それは子供の戯言に過ぎない。
父が首を縦に振らなければ、私の進路は政学科に決まっているのだ。
「まあまあっ! 侯爵家のご令嬢たる者が、はしたない!」
「ごめん! お説教なら後で聞くから!」
冬用の防寒で、足首まであるドレススカート。
生地も厚手で走るには邪魔なので、その裾を膝上まで持ち上げながら廊下を駆ける。
道中、父の到着を知らせに来た侍女長が泡を食って怒鳴るが、その横を無視して通り抜けた。
先日、殿下と面談したとき、こう問いかけられた。
『年が明けたら、政学科に配属される生徒の審査が始まるけど、特に推薦したい友達はいる?』と。
その瞬間、私は自分の浅はかさを思い知らされた。
オーガスタ学園では、教師と職員以外の大人は原則、参観日以外立ち入ることができない。
学園は生徒会が運営し、生徒全員が学園内のさまざまな役目を担う完全な寮生活。
そこは、アルビオン帝国の中の小さなアルビオン帝国と呼べる場所だ。
学問が最優先されるのはもちろんだが、将来の人脈作りを行う場でもある。
つまり、殿下と共に学ぶ同級生は、将来の皇帝の側近を意味している。
政学科の席には限りがあるのだから、その人選に時間をかけるのは当然だ。
ところが、私はそんな事情を考えもしなかった。
慣習として、国中の貴族が帝都に集う春。
父もその時に帝都へやって来る予定だから、そのとき胸の内を明かせば、秋の入学までに十分間に合うと考えていたのだ。
私は焦った。
春を待っていたら、私の政学科入学は決まってしまう。
しかし、私に甘い父のことだ。
もし私が本気で頼み込めば、春になっていようと進路の変更は可能だろう。
だが、殿下が在籍する以上、政学科の名簿は完成して動かない。
そのため、私の名前を削除しても、その一席が埋まらない可能性が高い。
要するに、婚約者候補と同じだ。
私が存在することで、本来政学科に入学するはずだった誰かの席が押し退かれてしまう。申し訳なさで胸がいっぱいになる。
すぐさま、父への手紙を書いた。
その日のうちに完成させた。
帝都からウォースパイト侯爵家領へ至るルートは二つある。陸路だけを進むルートと、海路を併用するルートだ。
冬の今、前者は一部地域が雪深く、到着に春夏秋以上の時間を要する。後者は波と風の関係で冬でも最も早く到着するが、料金が高い。
私は迷わず後者を選んだ。それも料金マシマシの超特急便だ。
私の手紙だけを運ぶ馬が走り、副都の港へ到着次第、待機中の船がウォースパイト侯爵家領へ出港する手筈になっている。
返事ももちろん超特急。
料金は前払い済みで、その旨も手紙に記してある。
それでも返事が届く頃には新年もとっくに明けているだろう。
政学科の新入生名簿はまだふるいをかけ始めたばかり。間に合うはずと、私は算段をつけた。
ところが、嬉しい誤算が起きた。
手紙を出した翌日、なんと父が私と一緒に新年を迎えるため、王都へ向かっているという知らせが届いた。
待ちに待ったその日から、今日で一週間。
ついに父が到着したのだから、侍女長の怒鳴り声程度で立ち止まる余裕など、もはやなかった。
「……うっ!?」
しかし、玄関の大きな両開きドアを開けようと両手を突き出した瞬間、足が止まった。
廊下を爆走し、エントランスホールで三連続ドリフトを成功させ、当家最速伝説を作ってここまで来たにもかかわらず、ゴールテープを切れなかった。
「どうなさいましたか? さあ、参りましょう」
「そう、そうだね!」
そんな私の肩に、ファー付きのコートがかけられた。
思わず振り返ると、ヒルダが優しく微笑んでいる。その温かさが、私に力をくれた。
この世界で生きていく覚悟は、とっくに決めたはずだった。
だが、この一歩を踏み出すと、かつての人生や、元男だった頃の両親との繋がりを自分で断ち切ることになる。その恐ろしさが、足を止めさせた。
でも、私の後ろにはヒルダがいる。彼女と一緒なら、私は進める。
改めて両手を突き出し、玄関の大きな両開きドアを勢いよく開け放つ。
玄関前に横付けされた馬車から下りてきた紳士に向かって駆け出し、私『メアリス』がそう呼んでいたように、父を元気いっぱいに呼んだ。
「パパ、おかえりなさい!」
ちょっと照れてしまったのは、許してほしい。
前世では、父を『父さん』と、母を『母さん』と呼んでいた。その呼び方は幼い子供が使うものだと思っていたからだ。




