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侯爵家令嬢は花(恋)より団子(剣)に夢中  作者: 浦賀やまみち
幕 間 ヒルダ

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第19話 十年前の約束




「ほにゃ? 何やってんの?」



 あれは十年前のことだ。

 当時、私は九歳。お嬢様はまだ三歳で、きっと覚えてはいないだろう。


 私には、生まれ故郷がわからない。

 物心ついた頃から、私は街から街へと渡り歩く『流民』だった。


 父のことも、わからない。

 母の存在は、かすかに記憶の奥に残っているが、顔も名前ももう思い出せない。


 二歳下の弟が四歳になった頃だったか。

 流行病にかかり、亡くなってしまった。今は、どこかの名も知らぬ田舎の村の墓地に、ひっそりと眠っている。



「うるせぇっ! あっちに行け!」

「でも、寒いよ? どうして、裸なの?」

「うるせえって言ってるだろ!」

「ほらほら、はー、はー! 息が真っ白!」

「おい……。もう面倒だ。黙らせろ」



 今となっては、なぜそうしてくれたのか理由を知る由もないが、私たちには世話をしてくれる人間がいた。

 その初老の男性のおかげで、貧しいながらも、私と弟はひもじさを感じずに日々を生きてこられた。


 しかし、この帝都への道中、朝になって目を覚ますと、初老の男性はもう冷たくなっていた。

 子供だった私たちは、彼の死をどう弔えばよいのか分からず、ただ途方に暮れるばかりだった。


 初老の男性は、帝都での何かしらの目当てに胸を膨らませ、ようやく流民から定住者になれそうだと、何度も嬉しそうに話してくれた。

 だが、その『目当て』が何であったのか、私たちには最後まで知ることはできなかった。


 学もなければ、芸も持たない。

 初めて訪れた帝都に知己がいるはずもなく、九歳と七歳の子供に糧を得る手段など限られていた。


 唯一の幸運は、これまで訪れたどの街や村よりも帝都が栄えていたことだ。

 宿屋や食堂、酒場が多く、捨てられた生ゴミを漁れば、時には小さなご馳走にありつくこともできた。


 しかし、どんな場所にも先駆者はいる。

 縄張りを荒らすなと怒鳴られ、追いかけられ、殴られる日々が続いた。


 その挙げ句、浮浪児たちが作るギャングに目をつけられ、私たちは制裁を受けた。

 殴られ蹴られ、動けなくなったところで服を乱暴に剥がされ、あとは言うまでもないことが待っていた。


 あの時のことは、今もよく思い出せない。

 きっと、心が無意識のうちに、あまりにも辛い記憶を封じ込めているのだろう。



「あっ!? じじゅうちょー! こっちだよ、こっち!」

「あぁ~ん? なんだって~?」

「お嬢様、何度も言ったはずです。一人で勝手に……。

 おい、ガキども。今すぐその汚い手をお嬢様から離せ」



 だが、不運という言葉では生ぬるい地獄の中にも、わずかな幸運があった。

 もしあの時、お嬢様と出会っていなければ、私は少年たちの自分本位で乱暴な行為によって重傷を負い、その傷を癒やす手立てもなく、ただ死を待つしかなかったに違いない。




 ******




「せいや!」

「さあ、あと三往復くらいです。頑張って下さいね」



 お嬢様が魔術を併用した鍛錬を始めて、今日で十日目。

 画期的なその方法は確かな効果を示し、わずか十日でお嬢様は驚くべき体力と健康さを手に入れていた。


 十日前は、井戸から水を汲むだけでも精一杯で、それを調理場まで運ぶのも一苦労。

 息を切らしては何度も休憩を繰り返していた水運びも、今では驚くほどスムーズになり、両手で持っていたバケツも片手ずつに持てるようになった。

 鍛錬後の入浴のために湯を沸かす大釜も、満水になるまでの時間が日ごとに短くなっている。



「よぉ~し! がんばるぞー、おーっ!」

「フフフ……。」



 それが嬉しくも、楽しいのだろう。

 お嬢様は水を大釜に注ぐと、すぐに張り切って井戸へ駆け戻っていく。


 その背中で、鍛錬のために結った髪がピョコピョコ揺れるのを見て、思わず笑みがこぼれる。

 薪を竈にくべながら、今この瞬間が幸せだと、私はじんわりと実感する。


 十年前、まだ幼かった若様とお嬢様の遊び相手。

 将来は側近として仕え、若様やお嬢様に命の危機が迫れば身を挺して守り、場合によっては命を投げ出すことも厭わない護衛。


 その適任者を求め、奴隷の購入と育成を考えていた旦那様にとって、私と弟の存在はまさにうってつけだったに違いない。


 幼さもなく、成長もまだ途上。

 何かを学ばせるには手頃な年頃であり、命を助けられた恩もあった。

 そのため、成長の過程で忠誠心が自然と育まれていくのは、間違いなかった。


 旦那様は、私と弟の怪我が治ると、二つの選択肢を示してきた。


 一つは、生涯にわたる衣食住の提供を代償として、ウォースパイト侯爵家に仕え、若様やお嬢様に危機が迫った際には身を盾にする絶対の忠誠を誓うこと。

 もう一つは、お嬢様に命を助けてもらった以上、勝手に死なれることは困るので放逐はしないものの、ウォースパイト侯爵家領内の平民身分と住居を与えられ、三年間限定で食べるに困らないだけの援助を受けること。


 私と弟は、迷わず前者を選んだ。

 流民生活で余所者に対する厳しさを知っていたこともあるし、身分や居場所、援助が与えられたとしても、頼れる大人がいない不安と辛さを、短い期間ながら身をもって味わっていたからだ。


 こうして、私と弟はウォースパイト侯爵家の使用人となった。


 昼は使用人として働き、夜は戦う術を学ぶ。

 忙しい日々ではあったが、ただ生き延びることだけを目的にしていた流民時代よりも、はるかに充実した毎日だった。


 不満が全くなかったわけではない。


 男は男同士、女は女同士の理由から、若様には弟が、お嬢様には私が充てがわれた。


 しかし、お嬢様はウォースパイト侯爵家領に一人残っていた当時まだ存命だった奥方様を恋しく思い、侯爵家領へ戻ってしまった。

 そのため、私がお嬢様の遊び相手として過ごせた期間は、わずか二週間ほどに過ぎなかった。


 その年の秋には帝都へ戻ってくるだろうと聞いていたものの、結果的に再会までには約八年もの年月を待つこととなった。

 私は恩義を募らせるばかりで、忠誠の行き場を失ったまま、日々を重ねていくことになる。


「昔を思い出すな。お前たち姉弟も、ああだった。

 水汲みは基礎体力を作るにはもってこいだ。理に適ってはいるが……」

「……執事長?」

「仕える主人にそれをさせて良いだろうか。

 この十日間、その答えが出ずに悩んでいるのだが、お前はどう思う?」

「それは……。」



 ふと影が差して振り返ると、浮かない顔の執事長が立っていた。

 その問いかけに応える言葉が、すぐには見つからない。


 実を言うと、私自身も同じような悩みを抱えており、お嬢様が望んでいるからと、それを棚上げしてきていたのだ。


 若様は、将来ウォースパイト侯爵家の当主となるため、弟は元貴族五男である執事長から正統派の剣術を学んだ。

 お嬢様が将来の嫁ぎ先で困らないように、私は帝国の南方に存在する暗殺者集団『ニーンジャ』の元一員であった侍女長から、暗殺術と諜報技術を学んだ。


 ウォースパイト侯爵家領へ帰るお嬢様に付いて行けず、私が帝都に留まり続けた理由はそこにある。


 侍女長は、帝都における諜報を担う重要な存在だった。

 それに気づかず、ただ傍にいるだけだった私は、十四歳の時にようやく自力でその重要性を理解し、一人前として認められた。


 でも、どうしても侍女長から学べなかった技術が、一つだけ残っている。


 それは、男性を籠絡する技術だった。

 座学は合格をもらい、話術も合格をもらった。


 しかし、肝心の閨技術だけは、完全に落第だった。

 実践のために連れて行かれた娼館で、男娼のアレを目にした瞬間、私は吐いた。

 ゲーゲーと、声を上げて吐いたのだ。


 人を変えても駄目なら、日を変えても駄目だった。

 手足を縛ったり、服を着たままにしたり、男娼そのものを布で隠して一部だけを出すなど、あらゆる方法を試したが、やはり駄目だった。


 顔が可愛い系の女性なら、小ぶりながら胸があり体型も女性で、服装も女性風の男娼であれば、一度だけ寸前まで進んだことがあった。

 だが、アレが触れた瞬間、私は泡を吹いて失神してしまった。


 どうやら、私はお嬢様と出会うきっかけとなった出来事が、トラウマになっているらしい。

 医者にそう診断され、私も侍女長も、その方面は諦めた。

 お嬢様のためなら、どんなに辛くても耐えられると、きつい鍛錬を重ねて乗り越えてきた私にとって、それは初めての挫折だった。


 そんな私が、男性を恋愛対象として見られないことをはっきり実感したのは、兵役義務に赴いた時だった。


 アルビオン帝国では、市民籍を持つ者すべてに三年間の兵役義務が課せられる。

 ウォースパイト侯爵家の使用人として仕えると同時に市民権を得ていた私は、十五歳の春から十八歳の春までの三年間を軍隊で過ごすことになり、その世界で私は明らかに異質な存在だった。


 国中から同じ年頃の男性が兵役義務で集まっているにもかかわらず、私の心はどの男性にもときめかなかった。

 数少ない女性たちで集まると、誰々がハンサムだ、誰々が素敵だと騒ぐことがあったが、その話題に私だけが入れなかった。


 逆に、女性の中に誰かを求めている自分がいることに気づいた。

 同性同士の気安さから近づき、深い仲になった者も何人かいたが、その誰かを見つけられず、次の女性へ手を伸ばす日々が続いた。


 いつしか、圧倒的な男社会である軍隊の中で、『貴重な女性を寝取る女』として悪評が囁かれる始末だった。


 諜報員を目指す者として目立つことの危機感を覚え始めた頃、退役を迎え、私は帝都に戻った。

 そこで、ずっと探していた誰かに、運命的に出会うことになる。



「それに……。あれは誰だ?」

「誰とは?」



 執事長が重ねてきた問いかけに、応える言葉が見つからない。

 身体がビクッと震えそうになるのを堪えつつ、それと気づかれないように様子を窺う。



「とぼけるな。とうに気づいているはずだ」



 執事長は眉間に皺を寄せ、お嬢様を鋭い眼差しで見つめていた。




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