第1話 バスタブ転生
『我思う、故に我在り』
その言葉を残した哲学者が誰だったかは忘れたが、本当にその通りだと思う。
なぜ私がここにいるのか、その理由はわからない。それを知る術を、まだ見つけられずにいる。
それでも、確かにここに私は在る。
どんなに自分を疑おうとも、それだけは揺るがない事実だ。
すべての始まり。
いや、正確に言えば『新たな続き』の一歩だった。
きっかけは唐突で、一瞬の出来事。
それでいて、日常のほんの些細な瞬間だった。
私が『私』として目覚めたのは、五年前のこと。
まだ風に春の冷たさが残る、そんな季節の初めだった。
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「いぎぃっ!?」
武術の達人であろうとも、鍛えるのが極めて難しい足の小指。
その小指を、バスタブから足を跨ごうとした際に、誤って縁に強打してしまった。
右足の小指から脳天まで、電流のように鋭い痛みが走り、頭の中が一瞬で真っ白に塗り替えられる。
とにかく痛い。
目をぎゅっと閉じ、奥歯を強く噛み締め、呼吸さえも止めてしまうほどの激痛だ。
バスタブの縁に右足を乗せたまま身体を硬直させ、お風呂で温まった火照りとはまったく違う汗が全身を噴き出すのを感じる。
「ぷっはぁっ!? はっ、はっ、はっ! ふぅぅ~~~……。」
永遠のように感じられた数瞬の後、酸素不足に悲鳴を上げた肺が自然に呼吸を再開する。
荒く肩で三度息をつくと、身体の強張りが徐々に解け、大きく息を吐きながら右足を湯船の中へ戻した。
「いいっ!?」
しかし、それは失敗だった。
湯の熱さが刺激となり、強打した右足の小指にビリビリと新たな痛みが走り、背筋が弓なりにビクンッと跳ねる。
尋常ではない痛みに、思わず『まさか、骨折?』という不安が頭をよぎる。
ゆっくり身体を屈め、右手を小指に伸ばすと、胸をホッと撫で下ろした。
まだ目は閉じ、奥歯も噛み締めたままだが、小指は確かに足に付いている。
その事実だけで大きな安心感が生まれ、痛みがわずかに和らいだのを感じた。
「ひっ、ひっ、ふぅーっ! ひっ、ひっ、ふぅーっ! ひっ、ひっ、ふぅーっ! ひっ、ひっ、ふぅーっ!」
この好機を逃すわけにはいかない。
奥歯をさらに強く噛み締め、鼻の穴を全開にして、呼吸を整える。
吸って、吸って、吐いて。
そのリズムに合わせ、右足の小指の付け根を力強くギュギュッと揉みほぐす。
めちゃくちゃ痛い。痛くて堪らない。
だが、効果はすぐに現れた。
一揉みごとに痛みが確実に和らいでいくのを感じ、ようやく目を開けることができた。
「えっ!?」
ところが、患部を確認しようとした瞬間、それが見えない。
くるくるとロールした長い金髪が湯面に広がり、小ぶりながら胸に貼り付いた双丘が桜色に染まり、足元への視界を完全に遮っていた。
頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
くるくるの金髪は理解できる。いつ被ったのかはわからないが、ウィッグだろう。
しかし問題は、その桜色のぽっちを乗せた双丘だ。
もしかしなくても、これは女性の胸『おっぱい』ではないか。
だが待ってほしい。俺は男だ。
仮に突如胸が『おっぱい』化する奇病を患ったとしても、肌はこんなに白くない。
そして、密かに誇りに思っていた胸毛はどこへ消えたのか。
濃くはなかったが、大事にしていたのに。
これは、驚異のSFX技術か、誰かのいたずらなのだろうか。
そんな疑問が浮かぶが、それ以前に抗えない本能が働き、両手は自然とその『おっぱい』に触れてしまう。
「や、やわらかっ!?」
その瞬間、目をこれでもかと見開いた。
まるで極上の水風船のようだ。
握力次第で形を変え、しかし元に戻ろうとする張りとわずかな重みを感じる。匠の技が生み出した、まさに傑作品と言うほかない。
この『おっぱい』は、間違いなく本物だ。
恥ずかしながら、女性との交際経験は一度もなく、本物に触れたこともないまま、もうすぐ三十歳を迎える俺だが、それでも断言できる。
偽物なら本物の立場が無いはずだ。
思わず、続けざまにもみもみ。一心不乱にもみもみする。
揉めば揉むほど鼻息は荒くなり、腰の奥に未知のむず痒い感覚が走る。
それでも、次なる当然の興味『桜色のぽっち』を確認しようとしたそのとき、ふと気づく。
我が家の浴室は、湯船も洗い場も昭和レトロなタイル張り。
湯船は足を伸ばし切れず、洗い場も二人分がぎりぎり。決して広いとは言えない空間だ。
「えっ!?」
ところが、このバスタブは真っ白で、一目で陶器製とわかる質感をしている。
大きさも十分で、足を伸ばしてもまだ余裕がある。
そもそも浴室自体が広い。とにかく、広いのだ。
我が家の座敷やお茶の間、寝室、客間を仕切る襖をすべて取り払い、古い日本家屋特有の田の字型空間を最大限に活用した面積よりも広い。
中央にバスタブを置き、それ以外の家具や道具は一切置かない。
バスルーム自体が、贅を尽くした作りになっている。
濃いニス塗りの木造に白塗りの壁、赤い絨毯の床。
窓際には束ねられた豪華なフサフサ付きカーテンが並び、明らかに高級品であることがわかる。
それなのに、湿気や水濡れを度外視している。
一言で言えば、超セレブなバスルームだ。
窓のガラスも一枚一枚が大きく、この広い浴室の中心にいても、三方から差し込む自然光が暗さを感じさせない。
「えっ!? えっ!? えっ!?」
どうして、こんな日常からかけ離れた場所に、俺はいるのだろうか。
当然の疑問を抱きつつも、この非日常的な空間を、どこかで確かに知っている気がする。
言葉にするのは難しいが、そう感じるのだから仕方がない。戸惑いはやがて混乱へと変わる。
すでに興味は『おっぱい』から離れかけていたが、両手は勝手に心を落ち着かせるかのように、その形をゆっくり一揉み、二揉みする。
改めて『桜色のぽっち』に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「お嬢様、お待たせ致しました。
……って、何をなさっているのですか?」
窓のない左手側の壁。隣の部屋とつながる両開きのドアの片方が開いた。




