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侯爵家令嬢は花(恋)より団子(剣)に夢中  作者: 浦賀やまみち
第二章 冒険者

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第12話 幼き日のヒーロー




「退けぇいっ! 爺ぃぃぃいっ!」



 厳しさの中に優しさを孕む父や母の怒鳴り声とはまるで違っていた。

 そこに混じりけは一切なく、ただ悪意だけで満たされた怒声が耳を打った瞬間、俺は悟る。これは夢だ。


 なぜなら、この夢を見るのは今夜が初めてではないからだ。


 繰り返し見てきた記憶の断片。

 『久しぶりだな』という懐かしさが胸に浮かぶ。


 何が起きるか分かっていても、俺は当事者でありながら傍観者。

 身体は動かず、ただ当時の俺が寸分違わぬ行動をなぞるのを、低い視点から眺めるように見守るしかない。


 そう、あれは六歳の夏の日。

 ほんの一分にも満たない出来事が、鮮烈に心へ刻み込まれた。

 肌を刺すような暑さも、夕立の後に漂った独特の匂いも、道端の雑草までもがありありと思い出される。


 祖父と二人で出かけたデパートの帰り道。

 散々ねだり倒して買ってもらった光線銃を、待ちきれず電車の中で化粧箱から取り出した。

 引き金を弾けば、テレビで日曜朝に放映されていたヒーロー番組のような電子音が鳴り響く。


 俺は夢中でその音を鳴らし続けていた。

 その時、あの出来事が訪れた。



「えっ!?」



 突然の怒鳴り声に思わず振り向くと、そこには一目で怪しさが際立つ男が立っていた。


 黒いキャップ、強い日差しを考えれば不自然ではない。

 サングラス、これも同じ理由で許容できる。

 大きめのマスク、夏風邪かと疑う程度にやや不自然。


 けれど、この三つが揃えば話は別だ。誰が見ても異様にしか映らない。


 極めつけは右手に握られた包丁だった。

 どこの家庭にもある、ごく普通の文化包丁。

 だが、夏の日差しを反射してギラつく刃先は、日常の風景を一瞬で非日常へと変え、理屈抜きの恐怖を呼び覚ます。


 距離は十数メートル。

 開け放たれたコンビニの自動ドアの向こうから、その危機は容赦なく迫ってきた。


 その時、俺は初めて知った。

 驚愕が限界を超えると、人は呼吸も止まり、体も硬直する。息を飲むとは、まさにこのことだ。



「やれやれ……。」



 しかし、泰然自若とはこのことだった。

 杖を突きながら隣を歩いていた祖父は、俺とはまるで違う。

 怒鳴り声を耳にした瞬間こそ歩を止めたが、次の一歩は揺るぎなく、まるで俺がおもちゃ売り場で光線銃をねだった時と同じ調子で、コンビニへと歩みを進めていく。


 行く手を阻まれて立ちすくむだけの幼い俺とは違う。

 その怒鳴り声の矛先が、間違いなく祖父に向けられていることを承知の上で。



「かあああああああああああああああああああっ!?」



 そんな祖父の揺るぎなさに苛立ったのか、それとも底知れぬ不気味さを覚えたのか。


 男は突如、喉を裂くような奇声をあげた。

 その叫びに狂気を乗せるように、右腕を身体ごと振りかぶり、包丁の切っ先を祖父へと振り下ろす。


 その瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは、容易に想像できてしまう惨劇の光景だった。

 父や母が観るドラマや映画の中でしか見たことのない現実が、今まさに目の前で始まろうとしている。


 止めたい。

 だけど、声は凍りつき、足は竦み、身体は一歩も動かない。



「へっ!?」



 だが、風を裂く鋭い音が鳴った瞬間、未来は変わった。

 甲高い衝突音がカンと響き、炎天下の陽光を乱反射させながら、何かが左手へ弾き飛ばされていく。


 視線が勝手に引き寄せられる。

 コンクリートに落ちたそれは二度、三度と跳ね、なおも回転を止めずに滑り、歩道の縁石にぶつかってようやく停止した。


 正体に気づいた瞬間、間の抜けた声が喉から漏れる。

 大惨事を引き起こすはずだった包丁だったのだ。



「ぎいいいぃっ!?」

「ほら、大人しくしろ。暴れると余計に痛いぞ?」



 悲鳴があがり、慌てて正面へ顔を戻すと、理解を拒む光景が広がっていた。


 ほんの二、三秒の間。

 包丁に目を奪われていたわずかな隙に、状況は逆転どころか決着していた。


 祖父は男の右腕を左腕でねじり上げ、そのままコンクリートに額を擦りつけて蹲る男の背中へ、のんびりと腰を下ろしていたのだ。


 男は必死に身をよじる。


 しかし、祖父の体はほとんど揺れず、ただ尻がみっともなく振られるだけ。

 祖父が軽く杖で尻を小突くと、男は観念したように力を抜き、祖父の『椅子』に成りさがり、ついに嗚咽を洩らし始めた。



「うっ……。ううっ、うっ……。」

「理由は知らん。だが、暴力はいかんな。暴力は」



 祖父が溜息を漏らすと、男を叱った。

 声は穏やかで、命を奪おうとした相手に向けられるものとは思えなかった。


 俺はただ茫然と目を見開いていた。

 当時は状況が理解できず、頭が追いつかなかったが、この夢を何度も見る今なら、祖父が男にどう対したかが分かる。


 祖父に何度尋ねても『自慢するほどじゃない』と口を濁したため、これはあくまで俺の想像だ。


 まず、祖父は右足を大きく踏み出しながら杖で突いた。

 間合いが一気に詰まり、右半身を沈めることで、祖父の男に向ける面は小さくなり、そのぶん危険も減った。


 続けて手首を捻り、杖先で男が振り下ろした包丁の腹を払い落とす。

 この瞬間、男は手の内から包丁が忽然と消え、俺と同じように、駐車場を滑って転がる刃先に目を奪われたはずだ。


 次に祖父は、伸ばしていた左足を身体に引き寄せ、沈んだ体勢を元に戻した。

 包丁を払われた反動で右腕も払われた男の無防備な姿は、すでに至近距離まで迫っていた。


 最後に左腕で男の右腕を絡め取り、左足を軸に外回転する。

 背中をぶつけることで相手の腕は勝手にねじ上がり、男は痛みに耐えかねて膝を折るしかなくなる。


 祖父が男の背に腰を下ろしたのは、あくまで余裕の所作だった。

 本来なら杖や右腕で止めを刺す局面だが、祖父はそこまで手を伸ばさなかった。


 この夢を見るたび、祖父の高みを思い知らされる。

 今の俺なら同じ状況で男を退けられる自信は少しあるが、祖父のようにスマートに片づけることは難しい。どうしても相手に深い怪我を与えてしまうだろう。



「だ、大丈夫ですか! け、怪我は有りませんか!」

「じ、じいちゃん、すげぇぇぇぇえっ!」



 一度閉じていたコンビニの自動ドアが再び開き、血相を変えた大学生風の男性店員が駆け出してきた。


 その瞬間、俺は我に返り、両拳を天に突き上げて吠える。

 祖父への称賛の声が勝手に口をつき、目はキラキラどころかギラギラに輝いた。


 なにしろ、本物のヒーローが目の前にいるのだ。

 興奮するなというほうが無理だった。


 テレビの向こう側でしか会えず、決して手が届かない存在とは違い、祖父はすぐ隣にいる。

 つい先ほどまで宝物だった右手の光線銃が、急にただのガラクタに見えた。



「なに、只の大道芸だ」



 祖父は自嘲するように苦笑いを浮かべるだけだった。

 繰り返すが、この出来事について何度尋ねても、多くを語ることはなかった。



「すげえぇっ! すげえぇっ! すげぇぇぇぇえっ!」



 それでも、俺にとって祖父は紛れもなくヒーローだった。

 この時に抱いた憧憬を胸に、俺は幾日も請い、祖父を師と仰ぎ、武術という果てなき道を歩み始めたのだ。




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