母のレシピ
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
その声は、いつもと同じだった。
高校二年になったばかりの僕は、いつもの朝と同じように玄関で靴を履き、学校へ向かった。
父はだいたい、僕の三十分後くらいに家を出る。都内の設計事務所に勤めていて、忙しい人だ。
母は専業主婦。僕たち三人は、マンションの小さな三LDKに暮らしている。
ごくごく普通の家庭だった。
朝はきちんとご飯と味噌汁が並び、昼は母の手作り弁当、夜は五品ほどの料理が食卓に並ぶ。
どれも本当においしい。
家の中はいつも整っていて、散らかっているのは僕の部屋くらいだ。
父の書斎には建築関係の本がずらりと並び、夜中、ときどきキーボードの音が聞こえてくる。
仕事熱心な人だと思う。
月に一度は外食をして、年に二回、家族で小旅行にも行く。
周囲からはよく言われた。
「絵に描いたように幸せな家庭だね」と。
不満があったわけじゃない。
ただ、僕はそれを「特別」だとは思っていなかった。
これが普通なのだと、疑いもせずに生きていた。
部活には入っていなかった。
学校から帰ると、時間を持て余してゲームをしたり、ぼんやりと妄想に耽ったりしていた。
いつの間にか、頭に浮かんだ物語をノートに書きつけるようになり、それが密かな楽しみになっていた。
――その日も、そんな何でもない一日だった。
家に帰ると、母がソファーに横になっていた。
僕が帰ってきた気配に気づいて、ゆっくりと起き上がる。
「珍しいね、寝てたの?」
「うん、ちょっと疲れたみたい」
「たまにはゆっくりしたら? 働きすぎだよ」
そう言って、僕は母の肩を揉んだ。
「少し楽になったみたい。ありがとう」
そのときは、深く考えなかった。
疲れることなんて、誰にだってある。
数日後の休日。
少し遅く起きると、リビングで父と母が話していた。
「どうしたの?」
「お母さんが、胃の調子があまりよくないって言うからさ。来週、一緒に病院で検査を受けようと思って」
父は、できるだけ軽い口調でそう言った。
「この前の健康診断では、なんともなかったんでしょ?」
「まあ、念のためだよ」
「……うん、分かった」
それから、いくつかの検査が続いた。
二週間ほど経ったある日、両親はいつもと変わらない様子で帰ってきた。
「まだ、よく分からないって。とりあえず、また検査みたい」
母はそう言って笑った。
その夜、母がお風呂に入っているとき、父が小さな声で言った。
「……お母さん、胃がんなんだ」
一瞬、意味が分からなかった。
「スキルス胃がんって言ってな。見つかりにくくて、見つかったときには手遅れのことが多いらしい。
余命は……三か月だそうだ」
その先の言葉は、ほとんど耳に入らなかった。
スキルス胃がん。
余命三か月。
何それ。
どういうことだ。
泣きそうな父の顔を見て、ようやく現実なのだと理解した。
どうして。
どうして、あんなに働き者で、家族思いの母が。
僕は自分の部屋に閉じこもった。
でも、今泣いたら母に気づかれてしまう。
「……母さんには、もう言ったの?」
「まだだ。迷ってる。先生に、息子ともよく話し合うようにって言われてな」
どうすればいい。
リビングから聞こえてくる、母の「ご飯よ」という声。
出ていかないほうが、かえって怪しまれる。
顔を洗って涙を誤魔化し、何事もないふりをして食卓についた。
黙ってご飯をかき込み、部屋に戻ろうとした、そのとき。
「ちょっと、待って」
母が言った。
そして、母の口から病気のことを聞いた。
先生から、すでに説明を受けていたらしい。
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
止まらない。
どんどん、出てくる。
「母さん……嘘だよね。父さん、嘘だって言ってよ……」
僕は泣き崩れた。
ずっと、両親と一緒にいたい。
神様、お願いします。
生まれて初めて、本気で神様にすがった。
そのときだった。
母は、泣き伏せる僕を起こし、頬を打った。
乾いた音が、部屋に響いた。
「いつまで泣いているの」
母の声は、震えていなかった。
「母さんが生きている間、ずっと泣いて過ごすつもり?
母さんは、最後まで母さんにできることをする」
真っ直ぐに、僕を見て言った。
「あなたに、全部教える。生きることも、残すことも」
その表情は、今まで見たことのないものだった。
僕は、その強さに、言葉を失っていた。
その夜、僕は一晩中泣いた。
布団の中で、声を殺しながら。
今まで母さんがしてくれたことが、次から次へと頭に浮かんできた。
朝、眠そうな目で起こしてくれたこと。
雨の日、黙って傘を差し出してくれたこと。
テストの点が悪くても、「次があるわよ」と笑ってくれたこと。
気づいたんだ。
僕は、ずっと幸せだった。
何の不自由もなく、当たり前のように守られてきた。
それがどれほど尊いことだったのか、失うかもしれない今になって、ようやく分かった。
思い出の中の母さんは、いつも笑っている。
怒った顔よりも、泣いた顔よりも、笑顔しか思い出せない。
母さんは、父と僕を、言葉にせず、ずっと支えてきたんだ。
――もう、泣くのはやめよう。
少なくとも、母さんの前では。
そう心に決めた。
あのとき母さんが言った言葉が、胸に残っている。
「最後まで、母さんは母さんにできることをする」
その言葉に、覚悟と、僕たちへの深い愛を感じた。
ならば、僕も――僕にできることをしよう。
それから、母は毎日、僕に料理を教えてくれるようになった。
「今日は初日。何を作ると思う?」
急に聞かれて、僕は首をかしげた。
「え……分かんない。んー、カレーライス!」
半分冗談で言ったつもりだった。
「ピンポン」
母は、楽しそうに笑った。
「普通じゃん」
「いいの。お父さんも、あなたも、大好きでしょ?」
「……うん」
二人で顔を見合わせて、笑った。
その笑い声は、いつもと変わらない。
でも、僕は生まれて初めて、本気で料理を学び始めていた。
最初は、包丁の使い方からだった。
包丁なんて、切るだけの道具だと思っていた。でも、違った。
玉ねぎの押さえ方。
刃の入れ方。
じゃがいもや人参の皮のむき方。
少しでも油断すると、指を切りそうで、手が震えた。
「そこ、違う」
「そうじゃない」
「それ、炒めすぎ!」
母は、驚くほど真剣だった。
――結構、スパルタだ。
そう思いながらも、必死についていった。
玉ねぎを切っていると、目が痛くなってきた。
「……泣いてないからね」
そう言うと、母はくすっと笑った。
火加減。
煮込み方。
焦らないこと。
覚えることは、思った以上に多かった。
「書かないと覚えられないよ」
そう言うと、母は引き出しから一冊のノートを取り出した。
「大丈夫。このノートに、全部書いてあるから」
そこには、母の字で、たくさんのレシピが残されていた。
やがて、カレーのルーを入れると、部屋中にいい匂いが広がった。
思わず、僕のお腹が鳴る。
母は、それを聞いて笑った。
「早すぎるわよ。もう少し待ちなさい」
体は、正直だ。
弱火で、しばらく煮込む。
――もう限界だ。
そう思った、そのとき。
「ただいま」
玄関のドアが開いた。
父だった。いつもより、少し早い帰宅だ。
「外まで、いい匂いがしてたぞ。ああ、腹減った」
三人で、顔を見合わせた。
その日の夕食は、いつもより、少しだけ特別だった。
でも、特別なことは何もしていない。
ただ――
同じ食卓を囲み、同じ匂いを感じて、同じ時間を過ごしただけだ。
それが、今は何よりも大切だった。
次の日は肉じゃが。
その次の日は生姜焼き。
また次の日は――。
気づけば、僕は時々、母が病気だということを忘れていた。
それくらい、母はいつもと変わらず、台所に立っていた。
母は、「できること」を本当に、全部してくれていた。
料理だけじゃない。
洗濯、掃除、風呂掃除。
名もない家事のひとつひとつを、順番に、丁寧に教えてくれた。
家事って、こんなにあるんだ。
そう思ったとき、胸が痛くなった。
今まで、僕は何一つやってこなかった。
手伝ったことすら、ほとんどなかった。
――なんて息子だ。
最低だな。
そんな考えが、頭をよぎる。
もしかしたら、バチが当たったのかもしれない。
そんなことを思ってしまう自分も、嫌だった。
母には、頭が上がらなかった。
部屋に戻ると、自然と涙があふれてきた。
声を殺して泣いた。
母に聞こえないように。
それからしばらくして、手術の日が決まった。
がんは胃全体に広がっていて、全摘出が必要だと言われた。
入院前日。
病院から帰ってきた両親を、僕は食卓に呼んだ。
「じゃーん。僕の特製カレー」
胸を張って言った。
母は一瞬、驚いた顔をして、それから――
病気が分かってから、初めて涙を見せた。
けれど、すぐにいつもの母に戻る。
「よし。出来栄えを見てやろうじゃない」
そう言って、三人で食卓を囲んだ。
「……うん。思ったより、うまいな」
父がそう言うと、母は腕を組んで首を振った。
「お父さん、甘い!」
「じゃがいもも人参も固い。コクが足りない。肉がくっついてる!」
僕は、なぜか嬉しかった。
「はい! 先生、がんばります!」
笑いが起こる。
「まあ……何もできなかったあなたが、ここまでできた分を加算して――五十点!」
「えぇ……加算して、それ?」
「厳しいでしょ?」
また、笑いが起こった。
それが、三人で囲んだ最後の手料理だった。
母は入院し、手術を受けた。
退院後は、家で療養することになった。
父は仕事を在宅に切り替え、家にいる時間を増やした。
母は胃がなくなったため、少しずつ、少しずつ、時間をかけて食事をした。
僕には、母が一日中、何かを食べているように見えた。
見た目は、あまり変わらない。
でも、日に日に、確実に弱っていっているのが分かった。
母の希望で、自宅療養と訪問介護を受けることになった。
いつの間にか、僕も父も、覚悟をしていた。
そして、ある朝。
目を覚ますと、母は――
眠るように、静かに息を止めていた。
僕も、父も。
母が言っていた通り、
それぞれが「できること」をしていた。
それが、母の最後のレッスンだった。
亡くなる前に、母さんが言っていた言葉を、ふと思い出す。
「頑張りすぎないようにしなさい」
「それから、何か夢中になれるものを見つけなさい」
「それだけよ」
母さんがいなくなってから、父も僕も、多くを語らなかった。
ただ、それぞれが、できることをして生きていた。
母がいなくなってから、
いつしか僕はノートに物語を書くようになっていた。
それが、母に教わった「生きること」を、
自分なりに残す方法だと思ったからだ。
母さんが亡くなって、半年が経った頃。
高校三年の春、僕は父を誘って、ある追悼劇を観に行った。
その劇は、
僕が初めて「誰かのために」書いた物語だった。
追悼のためであり、
そして、生きている人のための物語でもあった。
物語の最後。
少女は病室で、静かに息を引き取る。
少し離れた席にいた父が、泣いているのが分かった。
暗転。
やがて、小鳥の声が響き、森のざわめきと小川のせせらぎが広がる。
父は、ゆっくりと顔を上げた。
舞台の上で、死んだはずの少女が起き上がり、歩き出す。
光の差す森の奥へ。
世界は広がり、草原があり、湖があり、遠くに山が見えた。
二人の若者が、笑いながらその前を横切っていく。
「ここは楽園よ」
父は何も言わず、僕のほうを見て、静かに頷いた。
そして、黙って学校をあとにした。
「悟……かおるを助けてあげたね。ありがとう。」
美奈代の言葉に、
「母も助けたんだけどね。」
と、こころのなかで呟いた。
完




