第1話「聖女の失墜」
朝の陽光が、王都大聖堂の色とりどりのステンドグラスを通して神々しく差し込んでいた。虹色の光の帯が石造りの床に踊り、跪く信徒たちの白い衣を優雅に彩っている。静寂に包まれた聖堂内には、朝の祈祷を捧げる数百人の吐息だけが微かに響いていた。
祭壇の前で、一人の女性が両手を胸の前で組み、目を閉じて祈りを捧げている。リナ・クラリス――王国で唯一の聖女として、五年間この座に君臨し続けてきた女性だった。彼女の長い金色の髪が、朝日を受けて天使の輪のように輝いている。純白の聖女衣に身を包んだその姿は、まさに神の使いそのものに見えた。
「慈悲深き主神と優しき女神よ、今日もまた民草に祝福を――」
リナの唇から紡がれる祈りの言葉が、静寂な聖堂に響く。しかし、その声は普段よりも微かに震えていた。ここ数日、体調の異変を感じていたのだ。魔力を行使する度に襲ってくる激しい疲労感。そして、今朝も感じている胸の奥の重苦しい痛み。
「あなたの御心のままに――」
祈りの言葉を続けようとした瞬間、リナの視界が急激に霞んだ。膝が崩れ、祭壇の大理石の床に手をついて身体を支える。冷たい石の感触が掌に伝わってくるが、それ以上に体の内側から湧き上がってくる異常な虚脱感に彼女は戸惑った。
「聖女様!」
信徒たちの驚愕の声が聖堂に響き渡る。リナは必死に立ち上がろうとしたが、力が入らない。まるで魂が身体から抜けていくような感覚に襲われ、彼女は祭壇に崩れ落ちた。
「聖女様、聖女様!」
慌てふためく信徒たちの声が遠くなっていく。リナの意識は薄れ、最後に見えたのは天井に描かれた天使たちの慈愛に満ちた微笑みだった。それは、もう二度と自分には向けられることのない笑顔のように思えた。
「魔力枯渇症です」
教会付きの治療師ベルモント師の冷たい声が、簡素な診察室に響いた。白いベッドに横たわるリナの顔から、血の気が完全に失せていく。隣に控えていた神官長ロドリゲスの表情も、一瞬で険しいものに変わった。
「治療法は?」
リナの震える声に、ベルモント師は無慈悲に首を横に振る。
「ありません。魔力の源である精神核が完全に疲弊している状態です。一時的な回復は見込めても、根本的な治癒は不可能でしょう」
「では……余命は」
「長くて一年といったところでしょうか」
まるで天から雷が落ちたような衝撃だった。リナの手が、ベッドのシーツを強く握りしめる。二十三歳の若い命に、突然死の宣告が下されたのだ。
「そうですか……」
リナの呟きは、諦めにも似た静けさを帯びていた。神官長ロドリゲスが一歩前に進み出る。
「リナ聖女よ、教会としての判断をお伝えせねばならん」
その言葉には、既に冷たい決意が込められていた。リナは薄々感づいていた。自分の運命が、この瞬間に決定されようとしていることを。
「魔力を失った聖女など、もはや聖女ではありません。本日をもって、あなたの聖女職を剥奪いたします」
神官長の宣告は、まるで死刑宣告のように重く、冷酷だった。リナの心臓が激しく鼓動を打つ。五年間、自分の全てを捧げてきた聖女という地位。民衆から愛され、崇められてきた唯一の居場所。それが、一瞬にして奪い去られようとしていた。
「お疲れ様でした、リナ」
神官長の最後の言葉には、一片の慈悲も込められていなかった。彼にとって、リナはもはや用済みの道具でしかなかったのだ。
治療師と神官長が診察室を出て行く足音が遠ざかっていく。一人残されたリナは、天井を見つめながら静かに涙を流していた。それは悲しみの涙というより、五年間の重圧から解放されたことへの、複雑な感情の現れだった。
扉が静かに開かれ、二つの人影が現れた。一人は茶色の髪をした青年――ギル・ハント。もう一人は、猫の耳を持つ獣人の女性――クリス・アリーシャ。どちらもリナにとって、この世で最も信頼できる存在だった。
「リナ……」
ギルの声は震えていた。彼の手が、リナの手を優しく包み込む。
「聞いていたのね」
「ああ。でも、諦めるな。きっと何か方法が――」
「ギル」
リナはゆっくりと首を振った。
「大丈夫よ。むしろ、ほっとしているの」
その言葉に、ギルとクリスは驚きの表情を浮かべた。リナは小さく微笑みながら続ける。
「ずっと重かった。聖女という重荷が。やっと……やっと自由になれるのね」
夕日が診察室の小さな窓から差し込み、リナの頬を赤く染めていた。それは新たな人生の始まりを告げる、希望の光のようにも見えた。
……余命まで残り365日……