『花火』(拙作『梅ケ谷駅物語』より抜粋)
短編連載「梅ケ谷駅物語」をお読みの方へ
コロン様「酒祭り」への参加のため、ほんの少し手直しをしていますが、9割がた同じものとなります。
釣り広告のPRを見たからだろうか。それとも、花火のためのダイヤ変更と書かれた半ぴらのお知らせを見たからだろうか。いや、駅ですれ違った花火列車の中にいた仲良さ気な若い浴衣のカップルを見たせいなのかもしれない。ぎゅうぎゅうに詰め込まれて、扉に体を押しつけているくせに、楽しそうな二人。
終点、梅ケ谷駅のアナウンスと共に電車から降りた私の頭の中には花火を見たい、という欲求というよりも使命感が芽生えていた。
花火大会が行われるのは、ここ梅ケ谷駅から普通列車に乗って、三〇分程の河川敷が会場になる。毎年大々的に行われ、かなりの集客があるらしい。始まった当初はその混雑に一般客が乗り切れないという事態まで起こした花火大会。その当時の混雑は知らないが、会場まで直行する花火列車のお陰で、混雑は随分解消されたらしい。
しかし、ここ梅ケ谷からも方向と高ささえ合えば花火が見られる。最早公然の隠れスポットなのだ。この辺りだと、丸梅かティアラの最上部にあるレストラン街南側が有力候補にあたる。そのため、飛び込みでは席に預かれない。予約は半年前から始まって、半年前に埋まってしまうのだ。
私にとってこの下車は寄り道というわけでも途中下車というものでもない。だが、それによく似ている。いつも通り過ぎている駅に降り立ち、新しい明日を生きるための、リセットをするような。
私は梅ケ谷駅から地下鉄『東山公園前』には向かわず、そのまま候補の一つ丸梅へと迷わず足を進めていた。丸梅は中元解体セールをしており、人の多さはいつもの倍以上。それに加え、ここのレストラン街である一〇階、十一階からは花火が見えるということで、その人だかりは輪をかけて多くなっていた。もちろん、夕刻ということもあり、多少熱気はなくなっているのだろう。それでも、人の肩に当たらずに歩く事が難しいくらいの人が蠢いていた。その人の群れを掻い潜り、旧館側の非常階段口まで、私はやってきていた。携帯電話の時刻は十九時を過ぎている。花火の打ち上げ開始は十九時半だ。私はさらに上へと続く階段を上り始めた。
非常事態でもないので、買い物目当て、もしくは花火目当ての人達がこの階段を上ることはまずない。しかし、封鎖されている場所でもない階段だ。防犯カメラに収められているのだとしても、多少不審者扱いの様子見をしてくれるだろうと勝手に思いながら。別に悪いことでもないし、違反でもない。それでも、僅かに心は揺れる。人に気付かれないように、扉を閉めて、何となく足音を忍ばせて、ヒールが階段に当たらないよう気をつけて、階段を上っていく。
ここを教えてくれたのは、意味の分からないロマンチシズムを語る元彼だった。ここの警備のアルバイトをしていて、気付いたのだそうだ。最高の隠れスポットを。
階段の先にはもちろん屋上へと続く扉があるのだが、当たり前のごとく、そこは立ち入り禁止である。故に、鍵も掛かってある。しかし、非常時は電子ロックが解除されるというのは、その元彼が教えてくれた。
そして、電子ロックなんて最新を極めた響きを持つはずの扉は、後付けロック錠のアルミ製のドアノブがついてある時代遅れの形をしていた。星形の模様が彫られてある、年代物のすりガラスをはめ込んだ扉。その向こうにヘリポートがあるなんて信じられないくらいの、昭和感漂う扉だった。
彼は花火の季節になるとよく言っていた。
ここからの花火が一番最高なんだ。
すりガラスの向こうに見える花火は音と共に遠くに打ちあがり、滲み絵のように広がっていく。
あの時、私は。
そうだね、とは答えなかった。
薄暗い最上階。九階催し会場を通り抜け、四階分登ってきたハイヒールの足は爪先から、踵から全てに痛みを感じて、訴えかけていた。花火開始まで十五分。崩れるようにして、最上階の階段に腰を下ろす。
勝手な人だった。こちらからのメールの返事はないくせに、私が少しでも返信しないと催促もせずに勝手に不貞腐れるような。その癖、自分の行動が私を不機嫌にさせてはいなかっただろうかと打ちひしがれるような。
私の誕生日に会社を辞めて来て、一番のサプライズがあるんだ、なんて悪ぶれもせずに言うような。そのくせに、ものすごく切なそうな表情で「これからはいつでも会えるんだよね」とぼそりと呟く。
とても弱い人だった。上司にからかわれて、お腹を下し、先輩の嫌味に不眠になる。返信が無くて彼のアパートに行けば、げっそり痩せて三キロも落としていたような。
そんな会社辞めればいい、と言ったことを真に受けて……。優柔不断だった彼が決断を下した数少ない武勇伝。
だけど、優しい人だった。
ちょっとした私の変化に気付いてくれて、口下手ながらに慰めようとしてくれるような。面白い写真だと、写メを見せてくれたりするような。
騒々しいのは嫌いで、人混みは苦手で、公園デートには必ずお弁当を二つ作って来てくれて、「外食できなくてごめん」と呟いて。
別にお弁当を作って来てくれなくても、私のおごりで外食くらいできるのに。
でも、きっと私はそれが続くと彼を責めていたのだろう。アルバイトしかしていない不甲斐ない彼を、見下ろすようにして、傷付けていたのだろう。
だから、振られたのだと思っていたのに。
私が知る中で、二度目の彼の武勇伝なのだと思っていたのに。
それなのに、一週間前、彼からメールが届いた。三年も放っておいて。今頃一体どんな要件なのだろう。私はもう……。だから、終業までそのメールを見ずに放っておいた。少しは苦しめばいいんだ。なんて思いながら。そして、夏の忙しさにかまけて、メールの存在などに重みを置かなかったのに。
今朝、花火列車について、ダイヤ変更についてをホームアナウンスで流していた。電車内の釣り広告には花火大会の大きな文字が目に飛び込んできた。一度もちゃんと見たことのない花火の事ばかりが、頭にぶち込まれてくる。頭を振って忘れようと努めた。しかし、終業のチャイムが鳴り響き、残ってする仕事もなく、電車が混む前に帰ろうと携帯を見た時にメールの存在を思い出したのだ。
なんだったのだろう。
じゃあね、と言って別れたあの日。またね、と続かなかったあの日。
この三年間。あんなに弱くて儚い彼が、ずっと闘っていただなんて。
メールは一斉送信だった。きっと年賀状もない中、彼の交友関係も分からず途方に暮れた家族の誰かが、悲しみを堪えて送信した文章。
それなのに、私はそれを無視した。
だから、お通夜にも行けなかった。お葬式にも行けなかった。自業自得なのだ。罰が当たったのだ。
私の背後が朱色に輝き、コンクリートの階段が朱色に染まる。わずかに遅れた花火の音。花火大会が開始されたのだ。
発泡酒じゃなくて、ちゃんとホップの入ったものが好きな癖に体調の良い時にしか飲めなかった彼。缶ビール一つで酔えた彼。
もう、体調なんて気にせず飲めるでしょう?
プルトップを引き上げて、彼に供える。自分の缶をそっと合わせて乾杯し、立ち上がった後、次の花火を見つめた。滲んだ黄色い花火。ガラス越しに響く音。私は瞬きもせずにそれを見つめ、囁いた。
「そうだね」
震える唇を缶で押さえ、一口飲みこんだ。金色の液体が喉を焼き、空きっ腹に流れてじんわりと染み渡っていく様子が感じられた。
「……ほんとうに、最高だね」
見つめる先の花火は当たり前のように、いつまで経っても滲んで打ち上げられ続けられていた。
『梅ケ谷駅物語』https://ncode.syosetu.com/n5661dw/
第7話(花火)より