男爵家を支えてきた私を売り飛ばすって正気ですか?
「クソッ! どこだ! おいエミリー!」
「……はい、なんの御用でしょうか?」
男爵家の机で羊皮紙にペンを走らせる私に、父が怒鳴りつけた。
「アルフォンス伯爵との毛皮の契約書を確認したい! 毛皮の輸入量をもっと詳しく書いた奴があったはずだ!」
それだけ騒ぐと、父はフーフーと怒り顔のまま睨みつけてくる。
「えっと、それがどうかしましたか?」
「持ってこいと言っている!! アレがないと取引にならんだろうが! 一々口にせんとわからんのか!!」
分かるわけないだろう。溜息を我慢しつつ、私は淡々と父が求めているだろう答えを口にする。
「アルフォンス様との領地間の流通や利益の見込みを纏めたものでよろしいでしょうか」
「だからそれを寄越せと言っているのだ!」
「……既に封蝋をして使用人に預けております。今は出払っていますが、写しを作成していたのでお渡ししますね」
「当主に控えだと!? 俺は当主だぞ! 俺には正式な判をついたものを寄越せ! ただのお前の写しなど信用できるか!」
封蝋をした書類を開けろ、というのか。ああもう、こんな基礎的な事をいちいち説明しないといけないなんて。
流石に怒りを覚えつつ、なんとかこんな父にも伝わるように口にした。
「一度封蝋をした以上、開けては蝋が砕けてしまいます!」
「それがなんだというのだ!!」
「蝋が飛び散っては失礼に当たると言っているのです! ましてや相手は爵位が上のアルフォンス様ですよ? 今後の取引のためにも、体裁だけでも整えておかねば……」
私の言葉を遮るよう、父が今日一番の怒鳴り声を上げた。
「当主の俺を馬鹿にしているのか!!」
馬鹿の一つ覚えが出た。爵位について触れられるといつもこれだ。
はしたない言葉を我慢しつつ、私はこの家の爵位について丁寧に言及する。
「伯爵家からの覚えをよくする事は、私たちモンテルーク男爵家の社交界における地位向上にもつながります。そのためには少しでも気を遣うことが……」
「そんな小賢しいことせんでも、我がモンテルーク家は王族からも認められているのだ!! いいからさっさと使用人を呼び戻せ!!」
領地に特出すべき名産物もなければ、由緒ある家柄でもない。金で買った男爵位に王族が興味あるわけないだろう。
どこまでも自信過剰で、浅ましく、はしたない。
「……では取ってまいりますので、ここでお待ちください」
「フンッ!」と椅子に座った父をしり目に、羊皮紙とペンをコッソリ持って隣の部屋へ。
この家の取引についてはすべて頭に入っているので、ここで”それっぽく”書いてしまえばいいのだ。
これで封蝋を解くことなく、アルフォンス伯爵との取引も上手くいく。
もっとも、私が尻ぬぐいをする羽目になるのは目に見えているが。
「はぁ……」
書きながら、ようやく一人になれたので溜息を吐く。いつまでこんな生活が続くのかと頭痛を覚えながら、亡き祖父の築いた男爵家のためにペンを走らせた。
####
「お金があれば幸せになれる。だからなによりもお金を愛しなさい」
一代で貿易商からモンテルーク男爵位を買うまでに至った祖父の言葉だ。とてつもなく強欲な人で、いつかは公爵位だって買ってやると息巻いていた。
とはいえ寄る年波には勝てなかったようで、私が幼いころに貿易の場から引退した。
しかしその後は、私を含めて男爵家全員に金儲けと人の使い方をとことん教えた。どうやら祖父は、自分がいなくなってからのモンテルーク家を心配していたようだ。
それもそのはずだ。私には商才があったようだが、その他の家族が壊滅的に商売に向いていなかったのである。
平民から男爵という爵位を得た故に自信過剰な父。お金目当てで嫁いできた散財してばかりの母。すっかり爵位と大金に毒されて盲目になった兄。
商才は欠片もないが、残念な事に三人とも根拠のない自信だけはあった。ストッパー役だった祖父亡き後、あれこれと金儲けに手を出しているのだが、そのすべてが失敗に終わる始末。
損を取り返さないと家が潰れるのは目に見えていたので、私は方々を駆けずり回る事となった。
ある時は父が無礼を働いた取引先に上等なワインを携え謝りに行き、ついでに新しい商売の話を持ちかけて損を取り返した。
またある時は、祖父の跡を継いだ父と兄に見切りをつけようとした相手を説得し、ここでもついでに新しい商売の話を持ち掛けて信頼の回復に努めた。
とにかくあの手この手でモンテルーク男爵家の品位と財産を守るために頑張り通しだったのだ。
プライドの高い、というか足元の見えていない家族は自分の手柄だと思っているようで、私の頑張りは知らない。
文句の一つも言いたいのだが、年がら年中しりぬぐいに奔走しているので、そんな暇はない。
そんなこんなで、今まで男爵家を守ってきたのだが、今度ばかりはしのげるか分からない問題に直面していた。
「不味いですね……」
父が勝手にとんでもない取引を始めてしまったのだ。
なんと相手は、百戦錬磨の商人を大勢抱えたシリウス・ファルクレスト公爵。
悪い噂の絶えない人であり、特に女性関係は酷いなんてものではない。
取引にかこつけて、巧妙な話術と餌をチラつかせて多くの貴族から令嬢を無理やり娶っていくのだ。買われた、というのが正しいのかもしれない。
娶られた女性は公爵の数えきれないほどの妻の一人となり、物として弄ばれると聞いている。噂では、相当な加虐趣味で妻が何人も死んでいるそうだ。
当然、父では口先でも知恵でも勝てるわけがなく、あれよあれよと追い込まれた。
結果として頭のこんがらがった父は、何の価値もない枯渇した鉱山の権利書を金貨百枚で買う契約を結んでしまった。
当然今の男爵家では金貨百枚は用意できない。しかし取引の際に使われた書類をよく見てみると、もう一つの条件があった。
それというのも、私が嫁ぐのなら結納金として金貨二百五十枚相当として換算するというのだ。こちらが本当の狙いで間違いないだろう。
父は気づくや否や、すぐに私を呼び出した。
「そういうことだエミリー、遺憾だが金貨が用意できないのでファルクレスト公爵に嫁げ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 今帳簿を確認して金貨の用意ができないかを調べていまして……」
と、私がテーブルにモンテルーク家の帳簿とお金を貸してくれそうな人のリストとを必死に見比べていると、兄が鼻で笑った。
「無理無理、今まで僕たちがどれだけの取引を成功させてきたと思ってるのかな? 誰がその時の利益を減らしたのかな?」
あなたが減らしたんですよ! 失敗談と一緒に全部頭に入ってます! なんならそれが積もって金貨払えないんですから! なんて言い返すこともせずに手と頭を動かしていると、父が「分かっていないようだな」と呆れたように口にした。
「お前を差し出せば金貨二百五十枚として換算されるのだぞ? そして要求されているのは百枚だ。つまり、お前を差し出せば金貨百五十枚分の釣りがくるのだ。ある程度は家も建て直せるだろう」
それを聞き、私は茫然としてしまった。父は家が傾いているとはいえ、娘を売るというのだ。
「すでに王都への馬車は用意させた。お前はさっさと身支度を整えろ」
「え……そんな……嘘ですよね?」
「いつも取引に首を突っ込んで余計なことばかりする我が男爵家の面汚しが高値で売れるのだ。嘘などではない」
「ですが! 今までは私が損した分を補填してきたから成り立ってきたわけで……」
「なんの話だ? お前はいつも私たちが取引を終えた後に余計な話を持ち掛けては失敗し、儲けを少なくしてきたではないか」
「それは逆だ」と言う暇もなく、決定事項だと押し切られる。
呆然とする私をドレスに着替えさせると、気づけば馬車に押し込まれていた。
逃げられないよう、馬車の中はスーツ姿の父と兄にガッチリ挟まれて進んでいく。
ああ、このまま物として扱われる日々が待っているのだ。その果てに死んでもおかしくないのだ。
王都への道中、私はただ、真っ暗な未来に絶望していた。
(おじい様の、嘘つき)
お金があっても、幸せになんかなれないじゃないですか。むしろ私は、お金のせいで死ぬかもしれないのです。
信じていた祖父の言葉に裏切られたようで、私はついに泣きだしそうになったその時――
「隣の馬車からそちらの馬車の上に失礼!!」
ガタっと、馬車の上に誰かが飛び乗ってきた。
何事かと騒ぐ父と、いきなりの事に頭が追い付かない兄。
そんなことを知らずか、飛び乗ってきた誰かさんは颯爽と馬車の前に飛び降りると、恭しく頭を下げた。
「どうもどうも! ボクの名はネストサーカス団長レイヴンと申します! 突然の強引な来訪にはご容赦ください!」
顔を上げると、ピエロメイクに奇怪な服装の男性がニッコリ笑っていた。
しかし、父はすぐに「無礼だぞ!」と怒鳴る。
「貴族の馬車に土足で飛び乗りおって! 貴様、立場をわきまえているのか!」
仮にも男爵とそこらのサーカス団長では身分が違いすぎるのだが、レイヴンと名乗った男性は笑顔のまま「いえいえ無礼を働く気など滅相もない!!」と元気に言い放つ。
「ちょっと今日は買い物に来ましてね。早速でなんですが、そちらのお嬢さんをボクのサーカスに売ってはくれませんか?」
「いきなり現れて意味の分からんことを申すな! 貴族の娘だぞ! サーカスなどという下賤な連中が何をさせる気だ!」
怒声を上げる父に、兄が鼻で笑いながら出てきた。
「エミリーは役立たずだけど、顔だけはいいからね。見世物にでもするんじゃないの? サーカスで見るものなんて、貴族の僕には分からないけどさ」
二人の声を受けたレイヴンとやらは、一切動じることも引くこともせず、ニッコリ笑顔のまま、指を天に掲げた。
「何をさせるかも見せるのかも明かせませんが、こちらの扉は開けて見せましょう!」
パチン! とレイヴンが指を鳴らせば、馬車の扉が開いて金貨がジャラジャラと零れ落ちていく。
今度は驚きの余り言葉を失うことになった。父と兄に至っては、開いた口が塞がらないまま、零れ落ちた金貨に駆け出していた。
「ほ、本物だ! 純度も高い!」
「お、落としたのはそっちだからな! なくなっても知らないぞ!!」
ああ、仮にも貴族が地に落ちた金貨を拾うなど……って、気づけば立場が逆転している。
一方レイヴンは陽気に続けた。
「落ちた分は無礼を働いた謝礼金として持っていっていただいて構いません! 加えて、馬車の中に詰まっている分は金貨にして四百枚! 売ってくださるのなら馬車ごと持って行ってください!」
父と兄が馬車の中も確認すれば、次いで出る言葉は決まっていた。
「貴様に売ってやる! ありがたく思え!」
「役立たずが最後に役に立ったな!」
なんて、まるで演目の一つを見ているような錯覚に囚われながら、私はサーカスに売られる事となった。
####
「よりにもよってサーカスに売られるなんて……」
王都の端にある屋敷の中、一人頭を抱えていた。
一体どんな目に遭うのだろう。あんなふざけたピエロの考えることなど想像もつかない。
そもそも、なぜあれだけの金貨を用意できたのか。なぜ私如きを買ったのか。
お金稼ぎが得意な私如きには、やはりわからない。
大方、このまま私は落ちぶれた男爵令嬢として見世物にされるのだろう。
幸せになるためのお金稼ぎもできず、ムチで叩かれて檻の中で暮らすのだ。
「こんな事なら、公爵家に売られた方が……いえ、どっちもどっちですね……」
女としての尊厳を奪われるか、人としての尊厳を奪われるか。こんな事になるなら、お金を貯めて逃げておけばよかった。
私一人なら、今までの取引先のどこかで働くこともできた。礼儀作法も体に叩き込んであるので、貴族の家に自分を売り込めた。
おじい様の言葉を嘘と思うこともなく、幸せになるためにお金を使えた。
後悔ばかりの私だが、一つ気になることがある。
(妙に小奇麗なお屋敷ですね)
サーカスと聞いて、私はテントに連れて行かれるものだと思っていた。それがどうだ。端っこにあるとはいえ、ここは王都の屋敷である。
そこらのサーカス団如きに手が出せる場所ではなかった。
キョロキョロ通された部屋を見渡していると、扉がノックされる。「どうぞ」なんて言える立場ではないので黙っていたが、一向に扉を開ける様子はない。
「えっと、誰だか知りませんけど入っていいですよ?」
このままというわけにもいかないので声を出す。
すると、「失礼」と落ち着きのある声と共に、一人の男性が入ってきた。
(綺麗な方……)
黒曜石のような深みのある瞳に、艶のある漆黒の髪。スーツに身を包む姿は長身なのも相まって、名のある貴族のようだった。
誰なのか分からず黙っていると、男性の方から口を開いた。
「先ほどは手荒な真似をしてすまなかったね。君が売られると聞いて、ボクも急いでいたんだ」
「先ほどって……お会いした事ありましたか?」
聞くと、この人はフフフと笑った。
「こっちの顔をしていると伝わらないものですね。では先ほどのピエロ、と申せば伝わりますか?」
「えっ!? ピエロって、まさかさっき馬車に飛び乗ってきた……」
あの時見た恭しい礼を見せ、「ご名答」と笑って見せた。
「ネストサーカス団長、レイヴンです」
驚いた。あんなふざけた真似をして私を買ったピエロが、メイクを取って着替えただけで貴族と見間違うとは。
とはいえ、私はレイヴンへ目を細めた。
「落ちぶれる寸前の男爵令嬢をあんな法外な額で買ったのはなぜですか。口ぶりからするに、私が公爵に買われることも知っていたようですが」
そもそも金貨四百枚もどこから用意したのか。爵位の高い貴族か大商人でもない限り用意できないはずだ。
そういったことも察してか、レイヴンは指を二つ立てた。
「まず一として、ボクのネストサーカス団は方々を移動していてね。行く先々でテントを張るための契約とかをするんだけど、そこで君を知ったんだ」
「どうせ没落貴族と陰で噂でもされていたのでしょう?」
「いやいや、確かに君の家は没落貴族もいいところだけど、世間での君個人の評価は違ったよ?」
まさか知らないのかい? といった様子のレイヴンに頷けば、勿体ないと返ってきた。
「貿易の神モンテルーク先代男爵の生まれ変わり、エミリー・モンテルーク。商売の世界じゃ、君と取引をしたいと思っている商人は数えきれないよ?」
ポカン、と口を開けたまま呆けてしまった。そりゃ、家族がヘマをするたびに損した分を取り返してきたのは事実だし、そこから新しい商売話も持ちかけて成功してきた。
だからといって、そんな過大評価……
「……そういえば引き止められても、いつも別件があったので取引先に長居はしませんでしたね」
「大方、もっと別の取引もしたかったんだろうさ。そこで二つ目。君を買ったのは、当然君が欲しいからだ」
「見世物にでもするんですか?」
「そんなことしたら、社交の場にいるお偉いさんたちから殺されちゃうよ」
「へ? 社交の場?」
これも知らないのか。レイヴンは私に向けて、なぜ両親が離婚しなかったのかと聞いてきた。
「考えてもみなよ。プライドの高い男爵と、金遣いの荒い夫人が、今にも落ちぶれそうな男爵家から夜会の場に何度も足を運んでいるんだよ? 加えて二人の無能っぷりは周知の事実なのに、スーツもドレスも一級品ときた。どちらもお金がないと出来ないことだ。で、誰が工面しているかってなったとき、いつも夜会の場でお偉いさんたちに挨拶回りをしている君じゃないかって噂が広まってね」
そこからは簡単だった。私が今後取引を行うかもしれないと声をかけていた貴族たちは商人に確認させたそうだ。「あの無能男爵家で唯一立場をわきまえていて、時に実のある話を持ちかけてくる娘は誰か」と。
商人たちは口を揃えて言ったそうだ。彼女こそがモンテルーク男爵家を貴族として成り立たせている天才だと。
そして、いつも取引の場に長居しないが、両者にとって利益になる話を置いていく女性であるとも。
まさか、そこまで名が知れていたとは。私自身知らなかった事に言葉を失っていると、レイヴンは身を乗り出した。
「以上の事から、ボクはこのサーカスのために何がなんでも君が欲しくなったんだ」
「えっと、私の事を買ってくれる理由は分かりましたけど、なぜサーカスのためなんです? 忙しくて観劇を見に行ったこともないので、大衆娯楽の知識なんてありませんよ?」
「そこはボクの領分さ。君にやってほしいのは、金儲けと王都で名を売っていく手伝いだよ」
レイヴンは続けた。社交界で広まっている顔を生かして富裕層を呼び込んでほしいと。それから金と人材は用意するから、今以上に儲けてほしいと。
「時には君が夜会に出ることで広告塔となり、そこらの成金じゃない公爵や王族を招いてもらう。その間ボクは身分の高い人へ向けての上品なネタを作る。代わってボクがサーカスでピエロを演じている時、君はお得意の金儲けに勤しんでもらう。つまりは役割分担で、このサーカスを王都一の大衆娯楽にしたいんだ」
そのためなら、金貨四百枚は安い先行投資だった。そう締めくくるレイヴンは、祖父以来、初めて私を正当評価してくれて、信頼してくれる人だった。
しかし、だからといって「運命の相手」だとか「私を救ってくださった王子様」なんて思わない。
レイヴンは、私を”買った”のだ。正当なる取引によって私を手に入れて利用するのなら、当然これは言っておかねばならないだろう。
引き受けてくれるかな? と手を差し出すレイヴンに、私は問いかける。
「私の取り分はいかほどですか?」
流石に失礼だっただろうか。顔を窺うと、声を殺して笑っていた。
「それくらい貪欲じゃないとね。噂通り、合理的で金銭勘定に長けているようだ」
話を詰めよう。レイヴンは真面目な顔になると、私との交渉を開始した。
私も大金を掴むため――いや、幸せを掴むため、恩は一旦忘れて交渉に臨んだ。
####
「宰相よりも頭がキレて、社交界でも顔が広く、金儲けは天才的」
次第に私はそう呼ばれ始め、
「趣向を凝らした多彩な演目を披露してくれる、道化と紳士の二面性を使い分ける魅力的な謎の人物」と名高いレイヴン。
私たちのタッグは瞬く間に王都に留まらず辺境伯領まで知られていった。
私が稼いだ金でサーカスの大道具と小道具は品質の良い物へと変わり、呼び込んだ上流貴族たちは満足していく。
このチャンスを逃すことのないよう、レイヴンもまた次々に増える道具を使ってのネタを増やして観客を飽きさせないようにした。
私たちはすっかり抜群の相性のあるビジネスパートナーとなってた。最初こそは買った側と買われた側で離れていた距離も、一月も経つ頃にはすっかりなくなっていた。
私は、ようやく自分の得意分野を己の夢のために生かせる生活に満足していた。
祖父から受け継いだ知識と技術を生かせる環境に感謝していた。買った買われたなんて忘れ、レイヴンには感謝してもしきれないと毎日のように思っている。
しかしいくら私でも、時に失敗することもある。私が陰で損をしたと泣いていたら、レイヴンはそっと肩を抱いて「次があるさ」と慰めてくれた。
儲けもしっかり私に支払われ、当面は使う予定がないので貯金している。結構な額になるのだが、幸せの定義なんて教わってもいないし深く考えたこともなかったので、貯まる一方だった。
時折幸せについては考えるのだが、男爵家にいる時と同じかそれ以上に忙しいので、なかなかじっくり考える時間はない。
とはいえ、たまには休みもある。サーカス団員たちが街に繰り出したのを見送ると、レイヴンが誰もいないテントの中で「一緒にどうだい?」とシャンパンを手にしていた。
断る理由もないし、なによりレイヴンといるのが楽しい自分がいる。
シャンパンを受け取って一口含むと、ちょっとした静寂が流れた。
男爵家では感じた事のない、居心地のいい静けさだ。
「――幸せってなんでしょうね」
ふと、私は口にしていた。咄嗟に手で覆ったが、レイヴンは意外そうな顔で私を見ている。
なぜか恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じていると、普段とは違う、どこか澄んだ声がした。
「幸せを追う日々そのものじゃないかな」
「え?」
「言い方を変えるなら、夢を見ている日々とでもしようか」
レイヴンは静かに語った。幼いころの自分には、とても叶わない夢があったと。でも諦めず、必死に頑張ったと。
そして、世界中の人々を笑顔にするという夢を、サーカス団を作ることで実現しつつあると。
「貧困層も、富裕層も、子供も老人も……それこそ海を越えた先の人だって笑顔にする――果てしない夢だと笑うかもしれないけど、それがいいんだ。ずっと夢を見ていられるから、幸せでさ」
自分の夢を見る日々そのものが幸せという事だ。たしかに、夢が叶って覚めてしまったら、もう続きはない。
幸せを追う今の日々だって、具体的には分からないけど、たどり着いてしまったらそこでお終いだ。
でも、今こうしてレイヴンと二人でいる時間は、幸せじゃないかと思った。
なんとなくだけど、まさに夢を見ているようで。
「……ボクの夢を笑わないのかい?」
「いえ、素敵だと思います」
「なら、この先も付き合ってよね。夢にたどり着く日まで」
「たどり着けない事を楽しんでいるのに手伝えとは。難しい頼みですね」
「じゃあお詫びに、ダンスの相手でもしようか? いつも夜会じゃ、宣伝ばっかりで踊れていないだろう?」
それもそうか。ダンスの仕方は頭に入っているが、実際踊るのは初めてかもしれない。
「では、リードしてくださいね?」
「お任せあれ」
気取った様子のレイヴンと二人、誰もいないサーカスで静かなステップを踏んでいく。初めての私でも踊れているのは、おそらく知識だけじゃない。
レイヴンのリードが慣れすぎているのだ。相当場数を踏んでいないと、ここまで初心者を導けないだろう。
一つだけ前から気になっていた事が頭に浮かんだ。レイヴンの素性だ。
ステップを踏みながら、私は問いかけてみた。
「団長、あなたは何者なんです?」
「ん? なんのことかな」
「あなたは立ち振る舞いから察するに、名のある貴族なのではないですか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。まぁ別に重要な事じゃないだろう? 大事なのは今だって話したばかりなんだしさ。今はただのレイヴンとして、サーカスという巣を守る大カラスであることが大事なんだよ」
と、煙に巻かれてしまった。それでも、改めてレイヴンが今を大事にしてくれていてホッとした。
なにせ、私が私らしくいられる世界に、レイヴンは連れてきてくれた。今まで認めてもらえなかった私を認めてくれた。失敗したら怒られるばかりだった私を慰めてくれた。
幸せの答えも、掴めてきたような気もする。
私の心は、だんだんとレイヴンへ惹かれているのだ。もう男爵令嬢ではない。身分差もないので、恋をしたっていいだろう。
恋をすることもまた、幸せだろうから。
####
商売において一番気をつけないといけないのは、あまりの利益に浮かれている時だ。
有頂天だと思っていたら、とんだピエロだと思い知らされるなんてざらにある。
それは人生の全てに言えるだろう。
どうやら、その時が来たようだ。
レイヴンが手紙に目を通していたら、出会って初めて激しく動揺していたのだ。
どうしたのと聞く前に、レイヴンは「少し一人にしてくれ」と言い残し、屋敷の部屋に籠ってしまった。
サーカスも休業して待つと、レイヴンは手紙をサーカス団員に預けて、私に寄越した。自室へ来るよう記されていたのでノックをして入ると、疲れ切った顔のレイヴンがいた。
「えっと、大丈夫ですか?」
「……ああ、気にしないでくれ。あとすまないね、わざわざ呼び出しちゃって」
とてもやつれた顔のレイヴンに、いつもの前向きな面影はない。重大な何かがあったのは明白なので言葉を待つと、深いため息の後に、私に相談したいと切り出した。
「ずっと隠していて悪かったんだけど……実は、ボクはとある伯爵家の次男でね」
そこまで驚きはしなかった。礼節に長けた素振りは、平民が見よう見まねで出来るレベルを超えていたし、金貨四百枚をポンと用意する事からして、裏があるとは思っていたのだ。
「領地の事とかは、兄がやりたいっていうから任せてたし、なにより向いていたんだ。今では結婚もしていて、最近までは順調だった」
「ですが、状況が変わったと?」
頷くレイヴンは、生家であるアルミンスター領に流行り病が蔓延したと言った。
アルミンスター領を治める兄も夫人も病に倒れ、薬も医者も足りていないという。
そしてなによりレイヴンを悩ませていたのが、治める者がいなくなってしまっている現状だった。
「兄は病に侵されながらも、領地の管理のために血を吐きながら仕事をしているそうだ。そこで見かねたメイドがボク――レイヴォルト・アルミンスターに領地を治めてほしいと手紙を送ってきたんだ」
「ですが、それは……」
レイヴンが悩んでいたのは、まさにこれだろう。領地に戻って、兄の代わりを一度でも務めてしまえば、もう平民には戻れない。サーカス団を見捨てることになるだろう。団員達も路頭に迷うことになる。連れて行って流行り病を患わせるわけにもいかない。
かといって兄を見捨てるわけにもいかず、悩み通しだったのだ。
しかし、決断を下したとレイヴンは重苦しい顔で静かに口にした。
「領地に戻って、貴族に戻るよ。ボクの個人的財産は全部団員に配って、交流のある他のサーカス団に雇ってもらえるよう手紙を出す。あと、エミリー、君には……」
言葉を区切ると、ほんの少し微笑んだ。
「心から感謝しているんだ。君は幼いころからの夢を大いに手伝ってくれた。サーカスを作って、まずは王都で平民も貴族も笑顔にする目標は、君無しじゃ叶わなかった……けど、それも叶ったよ。ついでにずいぶん稼いだしね――君の稼いだ金だ。好きにするといい」
「……では、好きに使わせていただきます」
私は部屋にあった羊皮紙を一枚テーブルに広げると、ペンを手にして、「領民の数と領地の広さ」を聞いた。
なぜそんなことを聞くのか分からないといったレイヴンを急かして聞き出すと、随時メモしていく。
更に今までの人脈から医者やら薬の売買で儲けている商人を書き出すと、貯金してある分とレイヴンが回すといった額を想定して書き綴っていく。
「こんなところですかね」
「エミリー? それはいったい……」
「アルミンスター領の住民全員に満足のいく量の薬を買うお金と、医者を雇うお金です。これくらいなら、私の貯金を全部使えばなんとかなりそうですね」
私が一息つく一方、レイヴンは慌てていた。
「君の金だろう!? せっかく自由の身になれるんだ! 何もボクに付き合う必要はない! 見返りもないのに手放すなんてらしくないよ!?」
「そうですね。あなたに買われる前までの私でしたら、稼いだお金を手に店の一つでも構えていたでしょう。ですけど、あなたと過ごすうちに見つけたんです――お金より大切なものを」
私は笑って見せると、ここに来てからの日々は男爵家で冷遇されていた日々とは比べ物にならないほど充実していたと言った。
「このサーカスがあって、あなたがいるから、私は私らしくいられるのです――きっと、これこそが幸せでした。そして幸せに終わりはない。ならとことんお金をつぎ込みませんとね……それに、失ったお金は取り戻せばいいだけでしょう?」
フフン、と自信たっぷりに口にしたのだが、レイヴンはまだ問題があるという。
「ボクが戻っても、婚約者の一人もいないんだ。兄が回復するまでとはいえ伯爵になるのなら、当然社交界にも顔を出さないといけない。そんな時、一人では領地の品位を落としてしまう……」
「あら、簡単な問題ではありませんか。あなたが最初に仰っていた役割分担ですよ。あなたが領地の管理をしている間、私は伯爵夫人として茶会にでも出ればいい。その間私は、夫が忙しい旨をそれとなく伝え、夫人の方々を通して仕事をしていると伝え、だから社交の場に出られないと知ってもらう。とても簡単ですね!」
自信満々に言うも、レイヴンが珍しく顔を赤くしていた。キョトンと首を傾げていると、つっかえながらレイヴンが私へ言った。
「それって、ボクと結婚してくれるってこと?」
「……あ!!」
お金やら今の生活の事ですっかり忘れていたが、私は結構な爆弾発言をしていたことに気づく。
あわあわと顔が熱くなっていくのを感じていると、レイヴンが私の前に膝を突いた。
「是非ともお願いしたい。実はボクも伝えたかったんだ。君とはビジネスパートナーではなく、もっと深い関係になって、もっともっと広い世界に羽ばたけるって。だから、君さえよかったら、ぜひボクと婚約してほしい」
手の甲へキスをされ、私の頭は沸騰してしまいそうだった。
同時に、結ばれたらレイヴンの言うとおりもっと広い世界で金儲けができるとも考えている。
レイヴンの事も、救ってもらったとか諸々の事を抜きにしても、好きになっている自分がいるのも事実。
とはいえ金儲けは大得意でも恋愛は初めてなので、婚約を申し込まれて返事をするのにとんでもなくどもった末に、
「よ、よよよよよよろしくお願いします……」と、レイヴンがつい笑ってしまうほどに動じながら婚約を受け入れた。
以後、レイヴンの兄と夫人が回復してもアルミンスター伯爵夫人として社交界で人脈を広げながら金儲けの匂いを探る日々を送った。
一方男爵家はとっくにレイヴンからの金は尽きて、貿易に手を出したがもちろんうまくいかず、今や平民同然だという。そんなことはもう知らず、サーカスも続け、私たちは末永く幸せに面白おかしく過ごしたが、それはまた別の話。
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