ラベンダーの置き土産
ドアを開けた途端セミの合唱に歓迎される。車から降りると初夏の風が頬を撫でた。
見上げた空の青と入道雲の白のコントラストが美しい。このままどこかに行けたら。青草の匂いを感じながら、そんなことを考えてしまう。
隣を見ると助手席から降りた明日香が大きく伸びをしていた。空に向かってつき上げられた腕が輝いて見えるのは、まだ恋心が残っているからだろうか。
「いやー、ありがとね。優次がいてくれて本当助かった」
「別に。これくらいなら、いつでもやるし」
「優男だねー」
車の屋根に頬杖を付き、からかうようにでニシシと笑う。
髪、服装、仕草、表情、視線、匂い、音。何気ない日常の一コマに過ぎないはず。それでも、ここから見える全てがいつもより鮮明に感じる。
きっとこの光景は二度と見ることはない。それでもふとした瞬間に何度でも思い出すんだろう。
毎日この笑顔が見たい。こいつのために生きてこいつの隣で死にたい。まだ間に合うのだろうか。こいつを連れてどこか遠くへ。
2メートルにも満たない距離。手を伸ばせばが届くのに車に隔たれたこの距離が酷く遠く感じる。
耐えられなくなり、逃げるように後ろを向く。そして車にもたれスマホを取り出した。
「時間やばいぞ。喋ってないで早く行け」
「えー、つれないなー」
後ろからセミの鳴き声に混ざりガサガサと荷物を取り出す音が聞こえる。
今は冷たくあしらわれて不貞腐れているが、そのうち鼻歌でも歌い出すんだろう。荷物をまとめ終える頃には何に怒っていたか忘れているかも知れない。どれだけ喧嘩しても次の日には何食わぬ顔で話しかけてくる。そういうところは昔から変わらない。
ふっと暗くなった画面に我に帰る。
後ろ向いたはずなのに気を抜けば明日香のことを考えてしまう。ここまで来てもなお、縋っている自分に笑ってしまいそうになる。
バタン!
背中にドアが閉まる振動が伝わる。
「じゃあ私行くね」
「明日香!」
呼び止めるつもりはなかった。無駄だと分かっていたから。傷つくだけだと分かっていたから。
だが気づいた時には、俺の視線の先に明日香の後ろ姿があった。
「どうしたの?」
不思議そうに見つめる明日香の髪を乾いた風がなびかせる。願わくばずっと見ていたかった。
しかし思うようにはいかない。
風が止み静寂が流れる。
ここで想いを伝えれば楽になるのだろう。ただ伝えた先で明日香は笑ってくれるのか。どうせ自己満足なら明日香には笑っていてほしい。
「……兄貴のこと好き?」
「うん、好き……世界で1番愛してる」
繰り返し言葉を選んだ末の質問に、静かで落ち着いた声で答えが返ってくる。
少し上がった口角。頬はまだ赤い。だがそれを恥じる様子はなく、優しく前を見据える。
その目に写っているのは俺なのか。それとも未来の景色なのか。分かるのは幸せに満ち溢れていることだけ。
でも、それだけ分かれば充分だ。
「……そっか」
「何? もしかして聞いただけ?」
「……ああ、聞いただけ」
「はぁ? ふざけんなよー! 今の凄い恥ずかしかったんだから!」
「あははっ! ごめん、ごめん」
慣れない拳を振り上げる。届くはずがないと分かっているのに、後ろに下がりバカして笑う。
やっていることは中学生レベル。しかし叶わない想いを伝えるよりかは、ずっとマシだった。
一通り笑い合って一息つく。そして少し怒った表情の明日香を再度真剣に見つめる。
「明日香」
「何⁈」
「結婚おめでとう」
明日香が愛した人と一緒になる。
今の俺が望める1番の幸せだ。兄は優しいし頼りになる。稼ぎもあるからいい旦那さん、ゆくゆくはいいお父さんになるんだろう。そんな兄を明日香が隣で支える。絵に描いたような幸せな家庭だ。
幸せが始まるこの瞬間、俺はちゃんと笑えているだろうか。
「ありがと。優次もいい人見つけなよー」
「ありがとう」
ニシシと笑った明日香が再び振り返る。そして一歩踏み出した。
普段気にならない足音が大きく感じる。道を進む足は止まることはない。大きく感じた足音も次第にセミの鳴き声に染まっていく。
見慣れた後ろ姿が遠のいていく。届かないと分かっていながら手を伸ばしてしまう。
行き場を失った手をごまかすように車の屋根の上に置く。
明日香は振り返る事は無い。それを知りながらもなお無理やり微笑んで彼女を見守る。
これでいい。これでいいんだ。明日香の幸せが俺の幸せだから、明日香の幸せを笑って見ていたいから。
心の中で何度も言い聞かせる
駐車場から式場まで歩く、たったそれだけの時間。気の遠くなるような時間がようやく終わる。気づけば屋根の上に置かれたては固く握り占められていた。
「……行ったか」
明日香が式場に入るのを確認してからすぐ車に乗り込む。気が抜けたのか、自然と大きなため息が出た。全身に込められていた力が抜けていくのを感じる。
ひとまず明日香を送る仕事は終わった。次は家に帰っていろいろ準備をしてから親を乗せてここに来る。今日は無理やり入れられた夜勤もあるから、どこかで仮眠を取っておきたい。
やることはまだある。早くここを出発しなければ。でも呼吸をするたびに感じるラベンダーの香りが集中力をまぎらわせてくる。
なかなか動かない俺を急かすように、車内の温度がじわじわと上がっていく。ここに来るまでは冷房をついていたはずなのに。
やはり夏の日差しは厄介だ。さっきまで気持ち良いと感じていた青空が急に恨めしく感じる。
少し窓を開けようとしていた手が止まる。
ラベンダーの香りを逃したくない。理由はたったそれだけだった。
本来なら消し去ってしまうのがいいんだろう、全て忘れて前に進むのがいいんだろう。
幸せそうなあいつの笑顔。堕落した自分への怒り。隣にいられない事実。
息を吸うたび、それらが変わり様のない現実だと突きつけられるから。
それでもこの香りだけは。この気持ちだけは消したくなかった。
叶わない未来と知りながら、残された些細な期待にすがる。そんな自分に呆れつつエンジンをかけた。