大事にしたかった
ゾーイの生まれた隣国では、イーサンとライアンの評価が逆転していた。
国王をはじめとする高位の貴族や老獪といわれる者ほどイーサンを見直し始めたのだ。
きっかけはもちろんゾーイである。
政略結婚の常として、ゾーイはこの国の情報を手紙に書いて親元に送っていた。とはいえそれは特別なものではない。一国の重要な政策を婚約者でしかない他国の姫君に相談などするはずがないし、ゾーイに漏らすほど愚かではないからだ。
ゾーイが書いたのは日常である。妃教育や文化の違い、教師陣の人柄や王宮侍女、アメリアと彼女の紹介で出会った令嬢たち。そしてイーサンとライアン。
国の中枢ともいえる宮廷の人間模様、その人物像をゾーイはしたためたのだ。
ゾーイの感想――主観が多分に含まれてはいるものの、判断するのは実父と義父になった国王たちである。ゾーイの目を通して見たイーサンとライアンに、当初聞いていた両者の評判は作られたものだった、と彼らは修正した。
誰が作ったかは想像するまでもない。ライアンだ。
確かにライアンは頭が良く、その決断に間違いはなかった。だが、言い換えればそれだけなのだ。その問題にかかわる人々の感情、心を無視して結果を出す。
たとえば数学の問題だとしたら、解答だけを答えるのがライアン、数式を使いどうやって解いたのかわかりやすく説明するのがイーサンだ。納得のいく説明、誰もが理解しうなずいてくれる説明など数式を知らない者もいる中ではありはしないが、わかるように心を砕いてくれるだけでも心証は違ってくる。
血の通った、あたたかな、人の心に寄り添う政治ができるかどうか。
そんなことは社交に出ずともわかるものだ。最も身近にいるものを大切にできるかどうか、気を使わないからこそ言葉や態度に出るものなのだから。その点においてライアンは信用できなかった。無駄に敵を作る王子。そう国王は評価した。
現にゾーイを大切にしたのはイーサンだった。婚約者のライアンではない。異国でひとり教育を受ける、隣国の宰相にして公爵家の令嬢。政略結婚のために王女のいない王家の養女となった複雑な立場のゾーイを慮り、友人を作れるように立ち回ってくれたのは、ライアンではなくイーサンだったのだ。
加えてアメリアとジェイコブの恋路である。
イーサンを知る以前なら女一人惚れさせることもできない情けない男だったが今は違う。あの男がここまでするからには何かある。そう期待されていた。
隣国における評価がイーサンより下だと知らないライアンの策は、大胆で精密で、そして穴だらけだった。
王位を狙ったイーサンがまず王太子になるべくライアンの婚約者を毒殺しようとした。ゾーイの国は長子相続が基本。このまま放置していてはイーサンの命が危ない、そう懸念してのことだった。筆頭公爵家の令嬢との婚約解消が間近、後ろ盾がなくなれば誰もイーサンを守ろうとはしない。殺される前に手を打たなくては。恐怖と猜疑心にとらわれた末の凶行だった。
犯行の動機もありイーサンが否定しても疑いようがない。しかし、ゾーイ毒殺未遂の真犯人は別にいた。
ゾーイ本人である。
ライアンの婚約者であったゾーイはアメリアを通じてイーサンと交流するうちに、彼に懸想してしまったのだ。思いつめた末の無理心中が真相である。
と、これがライアンが描いた筋書きだ。
よくできているのはイーサンが実際にやってもおかしくないところだ。
アメリアの実家がイーサンの後ろ盾というのは周知の事実。筆頭公爵がイーサンについたのは、側妃の子とはいえ彼が第一王子であるからだ。自分に頭の上がらない王の外戚となれば思うまま権勢をふるえる。野心家でなくとも魅力的な誘惑だった。それが、肝心の娘が側近とはいえたかが子爵家出身の騎士ごときに下賜されてしまってはだいなしになる。恩どころか恨みを買いかねなかった。イーサンは公爵家に取引を持ち掛けた。それがゾーイ毒殺である。
しかしこれは上手くいかない。少し調べればイーサンも公爵家もそんなことをしていないとわかるだろう。こちらはただのフェイクだ。
イーサンに横恋慕したゾーイによる無理心中。ゾーイなら毒を持っていてもおかしくない。暗殺などという物騒なことにではなく、自決用の毒。つまり致死毒だ。
とはいえゾーイはライアンの婚約者、イーサンと二人きりになる機会などない。そこでゾーイは日頃の礼にと自国のワインに毒を入れて贈ったのだ。ぜひ今夜の寝酒にしてください、とカードを添えて。人の好意を素直に受け取るイーサンは素直に飲むだろう。ゾーイとイーサン、二人の時間差はこうして生じた。
この筋書きにおけるライアンの立ち位置は、婚約者に面目を潰された被害者、ということになる。多少の泥は被らなければ自分にも疑いの目が向けられかねない。ゾーイとの交流をおろそかにしていたのは事実なのだ。
イーサンは生き残ってしまうが失脚は確実だ。そもそもの発端は、彼がアメリアを大事にすると言いつつ彼女の恋心をもてあそんだことからはじまっている。早々に婚約を解消し、それからジェイコブを取り立てていれば良かったのだ。
第一王子イーサンは何事にも決断が遅く、優柔不断。それが最悪の局面で現れた。
未遂だったのでゾーイも助かるし、イーサンは生き恥をさらして失脚するだけ。あとはライアンが反省したふりでゾーイをやさしく慰めればいい。ゾーイが否定しても『無理心中に失敗した女』の言い分など誰も信じはしない。辛かったのだな、いいよ、許す。そう言っておけば被害者にもかかわらず裏切った婚約者を許容する寛大な第二王子ライアンの出来上がりだ。おまけで娘の教育に失敗したアメリアの実家の責任も問える。くだらない初恋などさっさとあきらめさせるのが正しい親というものだろう。貴族失格だ。
さて、この筋書きには大きな穴がある。自分に自信のあるライアンは自分の側近にも相談せず実行した。もちろん彼が自分で動いたわけではない。ライアンはやれと命令しただけだ。
自分は優秀で完璧、失敗しない自信がライアンにはあった。それは別に悪いことではない。問題は、自信があるから誰にも相談せず決めてしまうことだった。
それは傲慢であり、とりもなおさず誰も信頼していない表れでもある。
ライアンが思っていたよりもイーサンは人気が高かった。以前は身分違いの恋にあこがれる女性や子供、下位貴族ばかりだったはずが、ここ数年で高位貴族からの目も変わってきている。大臣や官僚などは遠回りに思えるイーサンのやり方にここにきて納得し感心していた。
政治とは面倒で煩雑で、時間がかかるものなのだ。粘り強く交渉するだけでなく、アメリアの結婚相手にふさわしくあれるようジェイコブを取り立てた。ジェイコブだけをひいきにして他をおろそかにしたら恨まれてしまう。イーサンは側近たちを平均的に取り立て、功績を上げさせた。ジェイコブの事情を話し、さりげなく協力する体制を整えた。
たとえ結果が出なくても、その過程を、努力を認め、次に繋げるように仕事を回す。各々の得意とする分野を見抜き実力を発揮できる環境を整えてやる。
彼らの家族にも気を配り、褒める時は大げさなほど褒める。ついでとばかりに家族や友人まで褒めた。
ここまでしてくれる主人を裏切る者などいるはずがなかった。
どんな相手にもイーサンは敬意を払う。政治とは時に人を踏みつけにする。それでも最大限、痛みの内容に配慮する。イーサンはそれができる王子だった。
もう一つ、ライアンが見落としていた穴がある。
ゾーイが本当に、イーサンに惹かれはじめていたことだ。
アメリアとの婚約解消が成ればイーサンの婚約者の座が空位になる。そこにゾーイを、という話がすでに二国間ではじまっていたのだ。
無理心中などする動機がすでにない。ライアンの失策は、人の心をおろそかにしていたことに尽きた。
「こちらに来た当初、わたくしはライアン殿下に冷遇されておりました。イーサン殿下が気を遣ってくださらなければ、たったひとり、他国でさみしく死んでいたかもしれません」
王族同士での婚姻は貴族や平民と違い、身一つで嫁ぐのが慣例である。持参金や化粧料などは別として、ドレスから下着、宝飾品も、思い出の品ひとつ持っていくことは許されていなかった。他国の人間になるのだ、それを自覚させるためである。もちろん侍女もついていけない。
隣国の姫に対し、ライアンは本当に、何もしなかった。本来なら母である王妃が助けるものなのだが、隣国の姫とはいえ養女、実の父は公爵と聞いたライアンはゾーイを下に見て、母に手出しさせなかったのだ。だからといって気の利く侍女を用意するなどもしていない。
彼にしてみればちょっとした癇癪のつもりだったのだろう。そんなことを言っても結局は誰かがなんとかする、そう考えてのことだった。
「まさかその日食べるものにも事欠くとは思いもよりませんでした。顔を合わせたのも数えるほどしかありません。その際にお声をかけていただくこともなく……見慣れない新人女官がいるなとでも思われていたのかしら?」
実際には誰も何もしなかったわけではない。
食事と呼べるものは確かになかったが部屋には果物や菓子が用意され、水に困ることはなかった。
ただし毒見役はおらず、ゾーイは警戒して絶対に毒を混入できなそうなものを選んで食べるしかなかった。
世話役のメイドもいなかったので、ライアン付きの女官から話を聞いたイーサンが母の側妃に訴え、側妃から国王に伝えていなければ隣国との関係は今頃最悪なものになっていただろう。
ゾーイが自分で訴え出なかったのは意地である。ライアンがそのつもりならと受けて立った。我慢比べだ。
「イーサン殿下は頭を下げてくださいましたわ。ご自分のしたことではないのに、弟の不始末だから、と。そうしてアメリア様を紹介し、アメリア様がご自分の侍女やメイドを貸してくださいました。使用人の貸し借りなど品のない行いですけれど、わたくしはこちらに伝手がありません。一度借りたことにして、気に入ったので引き抜きをした、という形をとりました」
毒見役は話を聞いて怒った国王がライアンの毒見役をゾーイ付きに変更している。ライアンの毒見役は新人があてがわれていた。
やがてゾーイとアメリアの交流がはじまり、そこに時折イーサンが交ざることでゾーイの護衛が選ばれていった。
誰かがやるだろう。ライアンの思った通りになった。その誰かがイーサンだったのは想定外だったとしても、ライアンが文句を言う権利はどこにもない。
「結果として、わたくしの周囲がイーサン殿下のお身内……配下ばかりとなったのは、当然ですわね」
心底馬鹿にした口調でゾーイが言った。
イーサンは弟の尻拭いをしただけだ。ライアンが何もせず、このままでは隣国との関係が悪化する。イーサンが動いたところで感情が冷え込むのはどうしようもない。けれども何もしないわけにはいかない、というところまで追い込まれてようやく国王に相談し、許可をとった。
そうして今、関係者全員が集まった場で、ライアンは断罪されている。