なにが大事
婚約者を大事にしろよ!と言われた王子が大事にする話。
「たとえば僕は、歴史が苦手なんだ。何百年前の偉人が僕に何の関係があるの、と思ってしまう。他にも意味のわからないマナーが嫌い。音を立てないのはわかるよ? 不快だものね。でも美味しかったと料理人に直接伝えて褒めるのはダメ、また食べたいと頼むのもダメ。王子の僕が言うと圧力をかけて命令したことになるから。相手のことを思うのなら、さりげなく伝えるにとどめるのが正解だそうだ」
そこまで言ってイーサンは紅茶で喉を潤した。ここまでが前置き、ここからが本題だ。
「君のことを大事にしろ、と母だけではなく父にも、侍従にも言われた。婚約者なのだから僕も当然そのつもりだった。けど……ここまでしつこく言うくらいなのだから、君のほうに何か事情があるのではと思い至った。ああ、何もなくても君のことを教えてくれると嬉しい。僕の『大事にする』と君の『大事にする』は違うだろうし、うっかり嫌なことをして嫌われてしまうのは避けたい」
長い前置きはその説明だったらしい。どんなに正しいルールでも押し付けられると嫌なものだ。『大事にする』を建前に独りよがりになってはいけないと思ったのだろう。
イーサンの言葉に、彼の婚約者となったアメリアは目を真ん丸に見開いた。
「……本当ですか? わたくしの嫌なことはなさらないと?」
「もちろんだ」
「本当の本当に、本当ですか?」
「本当だ、男に二言はない!」
それなら、とアメリアは息を吸い込んだ。思い切って叫ぶ。
「わたくしには好きな人がいます。この婚約そのものが嫌です!」
イーサンはこの国の第一王子。とはいえ側妃の子である。王妃の息子である第二王子が隣国の公爵令嬢と婚約したため、国内のバランスを考え、そしてイーサンの後ろ盾として、筆頭公爵家の令嬢であるアメリアとの婚約が決まったのだ。
第一王子、しかし王太子ではない複雑な立場にあるイーサンのため。周囲がアメリアを大事にしろと言うのは当然であった。
そして行われた初顔合わせの茶会。自分なりに考えて大事にすると伝えたイーサンに、双方の付き添いが胸を撫で下ろし、ほのぼのとした空気に包まれたところでのアメリアの爆弾投下である。
まさかの婚約そのものが嫌。何もかも吹き飛ばす発言であった。アメリアの付き添いが今にも気絶しそうな顔色になる。
言われたほうのイーサンはと言えば、
「そうか。わかった」
理解を示していた。そこでうなずかれたイーサンの付き人が目を剝く。アメリアでさえ「えっ」と驚いていた。もっとこう他に言うべきことがあるだろう。しかしイーサンは大真面目に考え込む。
「……今すぐ婚約解消というわけにはいかないだろうな。王家と公爵家の婚約だ。僕に非があったことにしても君に傷がついてしまう」
「それは……むしろ望むところといいますか」
「傷物になるのが? ……となると、その思い人とは身分の問題で婚約できなかったとか? ああ、誰かは言わなくていいよ、排除されかねないし……。うーん、でも、その想い人さんは君が傷物になって喜ぶような男なの? もしそうならそんな男に君を任せられないよ」
アメリアは筆頭公爵家の令嬢である。王族を除けばほとんどの男は格下だ。
「そんな人ではありませんわっ。ジェイは本当に誠実な……あっ」
好きな人を疑われてアメリアがつい声を荒げた。うっかり名前を言ってしまい慌てて口を押さえたがもう遅い。イーサンは目を覆って天を仰いだ。アメリアの付き添いは今にも首を括りそうに足をもつれさせた。
「あー、うん。君が好きになった人だもの、そんな不誠実ではないよね」
イーサンは聞かなかったことにした。口調がくだけたものになってきている。
「だからこそ、自分のために傷物になったりしたら、負い目になると思うんだ。君も、彼も、僕も、みんなが幸せになる道を探そう?」
「そんな道があるでしょうか?」
「だから探すんだよ。もしなかったら作ればいい。まだ時間はある。なにしろ僕たち、まだ九歳だもの!」
これがイーサンとアメリアの出会いだった。婚約直後に婚約解消の約束とは前代未聞である。緘口令など敷けるわけもなく、両家は頭を抱えることになった。
みんなが幸せになる道。どこにあるかもわからないその道を探すことにアメリアが賛成したため婚約は継続になった。しょせん子供の言うこと。大人になれば互いに意識しあうだろう。子供の初恋を無残に砕くほど非道にはなれなかった大人の意向により、放置されることになった。
ただしイーサンは本気だったらしい。茶会の直後にアメリアの想い人、ジェイコブを護衛騎士候補として召し抱えた。ジェイコブはアメリアの幼馴染で、公爵家の分家筋となる子爵家の子供だった。放っておけばジェイコブだけでなく子爵家まで咎められ、遠くに追いやられてしまうかもしれない。
その点イーサンの護衛ならばアメリアとも会えるし出世も確実である。なにより身分違いの幼い初恋に王宮メイドが胸ときめかせて三人を見守る体制に入った。
「これもイーサン様のおかげですわ。ジェイも騎士として側近として学ばせていただいておりますし、王宮で会うことに不自然はありませんもの」
あれから数年、イーサンとアメリアは十五歳になった。
王妃の子である第二王子のライアンは十四歳。婚約者のゾーイが十三歳になり、こちらで教育を受けるためにやってきている。
今までは月に一度、交流名目の茶会でしか王宮に来ることはできなかったが、隣国からはるばる来たゾーイは友人もおらず寂しいだろう、どうせならアメリアと一緒に妃教育をしたらどうか、とイーサンが提案したのだ。
実に上手いやり方である。
ゾーイのためでもあるし、イーサンとライアンのどちらが王太子になっても妃同士が友人なら敵対意思はないと表明できる。反対しにくいのだ。たとえアメリアとジェイコブの会う機会を増やしたいのが本音とはいえ、反対すれば隣国と王家に何か含むところがあるのかと痛くない腹を探られてしまう。
初志貫徹もいいかげんにしろと言いたいところだが、アメリアを大事にしているだけだと反論されてはそれ以上咎めることができなくなる。大事にしろと言ったのは両親と周囲の大人なのだ。
「イーサン殿下はおやさしいですわね」
「ええ、本当に……。婚約が継続となり、どうなることかと思いましたけど……」
妃教育を受けた後、二人の少女がのんびりお茶をしているのはそうしたわけである。二人から少し離れたところでアメリアの想い人、ジェイコブが主人の婚約者の護衛として立っていた。ジェイコブは十七歳になり、正式に護衛騎士として任命された。アメリアと目が合うと嬉しそうに笑う。どこからどう見ても浮気なのだがそんな雰囲気にならないのは、この数年でイーサンがせっせと二人の味方を増やしていったからである。
「正直意外でしたわ。イーサン殿下はわが国では……なんといいますか、慎重に過ぎる、という噂でした」
より正確には慎重ではなく愚鈍、馬鹿すぎるうえ行動力もない、石橋を叩くどころか渡ろうともしない王子。さんざんな言われようであった。第一王子ではなく第二王子との縁談と聞いてゾーイも安心したくらいである。
「そうですわね。ご本人を知らなければそう見えてしまうかもしれません」
「あ、申し訳ありません。ライアン様は即断即決なところがおありですから、イーサン殿下はのんびりとして見えますの」
フォローになっていないフォローにアメリアはかちんときた。図星だったからだ。
イーサンは優秀ではあるものの頭脳明晰というわけではない。気品はあるが品行方正とまではいかない。いつも穏やかに笑っているが誰にでも優しいわけではない。ようするにごく普通の少年だ。
一方のライアンはというと、理想の王子様を体現したような完璧さである。賢くやさしくいつも品行方正清廉潔白、そして物事を迷いなく捌き決断する。
たとえばイーサンとライアンに同じ問題を出したとして。ライアンならその場で正解を答えるのに対し、イーサンは自分で考え周囲に意見を聞き、さらに三日ほど悩んだ末に答えを出すだろう。しかもライアンと同じ解答なのだからイーサンが愚鈍と思われるのもしかたがないことであった。
だがそれはイーサンが無能という証明にはならない。アメリアは憤然と反論した。
「イーサン様は熟慮の方なのですわ。ご自分だけではなく周囲の者たちのことまで考えて行動なさいます。時には側近に功を立てさせようと、花を譲ることさえあるのです」
その恩恵を最も受けているのがジェイコブである。よく言ってくれた、とばかりに激しくうなずいていた。
「ご、ごめんなさい……?」
あまりの勢いにゾーイはつい謝罪していた。アメリアの恋人はイーサンではなくあちらの護衛のはずである。そんな思いで何度も二人を見る。
アメリアの想い人は今も変わらずジェイコブだ。しかしあの気迫は恋人をけなされた女のそれだった。
「いえ、失礼いたしました……」
「いいえ、わたくしの失言でしたわ。アメリア様はイーサン殿下を大切に思ってらっしゃるのですね」
「そうですわね……大切な、友人ですわ」
嫌味ではなかった。それが忠義なのかそれとも別のものなのか、おそらくアメリアにもわかっていないのだろう。何であれ大切だと言える相手がいることをゾーイは羨ましく思った。
友人、と言ってしまってから、アメリアはなぜか悲しくなった。友人。イーサンはアメリアの良き理解者であり友人である。
だが、イーサンはアメリアの婚約者なのだ。いくらアメリアとジェイコブの仲を認めて応援してくれようとも、そこに変わりはない。アメリアの婚約者はイーサンだ。
思慮深く思いやりもあり頭も良い、どこか傲慢にすら感じるライアンより、イーサンのほうがよほど国王にふさわしい。
そんな男の婚約者でありながら恋の道が二人にはないことが、アメリアは悲しかった。