5-3.
そう二人に言われて、それでも私は信じられなかった。
そもそも兄から嫁げと言われた時から信じられなかったのだ。一切の質問を認めない、有無を言わせない命令だったから仕方なく今ここにいるわけだが……ずっとずっと、自分は一人で静かに朽ち果てるのだと思っていた。
あの、城の敷地の奥にある、美しい庭の見える小さな館の中で。
そこは美しい場所だった。
城壁に囲まれた敷地の最奥、誰も立ち入る事のない場所にその美しい庭は作られていた。そして、その庭を愛でるためだけに作られたと言われる小さな屋敷に、私は母が亡くなってから住んでいた。
その前には母と、城から少し離れた王家の所有する森の中の、小さな泉の辺りにある城を与えられて隠れるように過ごしていた。父はなかなか訪れる事は難しいようだったが便りが頻繁にきていたし、何より母がいれば私には十分で、実際、満たされた幼少期だった。
母亡き後住んだ城の屋敷では、屋敷内とその庭以外に出歩く事を禁じられた。しかし、父王が存命の頃にはよく会いにきてくれた。
たまにはそっと正体がわからないように変装して街に連れ出してくれる事もあった。私はその時間が楽しくて大好きだった。
父亡き後も引き続きそこに住んだ。世話をしてくれる者は少数だがいたし、王となった兄も時々思いついたように訪れてくれていた。それから物事を教えてくれる先生と書物は十二分に与えられていて、時間潰しには困らなかった。
そう。そこに居続ける事に困っていたわけではない。むしろ、出ろと言われても出たくはなかった。人目に晒されるのが怖かった。その恐れと蔑みが混じった視線が耐えられなかったし、何より自分に殺意を持つ者がいると、父の葬儀の後に身をもって知ってからは暫くは人を見るのも嫌だった。
私は忌み子であった。
聖なる乙女は王家を始め由緒ある貴族たちと結ばれてはいけないという教会の決まりに背いた結果、私が生まれた。
愛の内に生まれたことを疑った事はない。でも、私は呪われた子ではあったのだ。
「だいたいさ、調べてみたらあの話、後付で教会が言い出したんだろ? それを何を律儀に信じているのやら。呆れるね」
カルが言う。その通りだと思う。
ある時代に聖なる乙女を巡って鞘当て争いが起きた。男達にとって、そして権力者にとって彼女は魅力的だったらしい。結局、誰も手を出さないという事で終わったのだが、その時にできた、権力に近い者は乙女と結婚しない、という不文律を、蚊帳の外にされた教会側がいかにも自分達の戒律のように発布したのだ。
民衆は事情を知らない。そして信仰は強い。やがて何か教義上の理由があり、破ると罰が下る教えとなる。
「バカバカしいよな。信仰深すぎなんだ、お前の所の国民性は。マティアス王も手を焼くさ」
その通りかもしれない。でも、理由のない恐れ、理由のない教えは強いものだ。ただ信じればいい。
母は、”聖なる水の乙女”は”本物”だった。彼女は僅かではあったが水を操れた。そして何より愛らしく、誰もに好かれ自然と跪かれるような人だった。
その彼女が戒律を破り王の子を産んだ。何故? 悪魔に騙されでもしたか? だとしたらその悪魔は?
……それは、私。
美しい聖なる乙女は悪魔に騙されて私という呪い子を産んだ。彼女が早死にしたのもそのせいだ。
ただ、そんな話を母の死後だいぶたってから知るくらいには私は守られていた。そして父王が死去した時までは、殺されるほどの事だとは思ってなかった。皆に嫌われているのはわかっていたけれど、でも。
悪い事は全部、忌み子の私のせい。それは何と明瞭で簡単な理屈だろう。
……そして、それは本当にただの狂信者の思い込みだろうか……?
「おい、どうした?」
カルの声ではっと我にかえる。
「あ、ごめんなさい」
「なーんかつまんない事考えてそうだよな」
「……王に迷惑かからないといいけど。何にしろやっぱりわからない。こんな条件の悪い王妃なんていらないはずよ」
「あーもう、マジで疑い深いな! 聞きたい事教えてやるよ。何が知りたい? 全部聞けよ」
カルは再び椅子に座ると怒ったように言った。
「え。そんな急に」
私は慌てた。長い間、誰にも質問なんて求められてきてなかったし。
「で、気が済んだらつまらない事は忘れろ」
「待って、待って、えっと……」
何を知りたかったんだっけ? 何を知ればいい?
「じゃあ、聞くけど、なぜこの話を受けたの? 他にもっとよい女性はいたはずよ? 帝国の王女がご執心だったって聞いたこともあるし」
あの陛下の雰囲気ならさもあらんと思わせる。
「あー? 俺の嫌いなあの女?」
「あなたの事なんて知らないわよ」
「……ま、いいけど。帝国の人間なんてごめんだ。そもそも今この国に嫁ぐってそう良い事でもないぜ。残念ながら」
「そう? いい国だと思うわ」
「じゃあ、何でお前、一日中歩いてんの?」
……そうだった。
この国が今不安定なのは元々知っていた。先の王の死後、後継争いがあったと聞く。まだその余韻が残っているのだろう。だから私がこんな目にあうわけで。
ならば敢えてこのタイミングにした訳は。……ああ、そうか、妃の持つ後ろ盾を味方にできる可能性があるか。……だとしてもやはり人選……。
「何考えてるか凡そ想像つくから言うが、はっきり言って誰が妃になっても大差ない。口出しさせる気はない」
「それが陛下の本心?」
「そう、俺もあいつも。あくまでマティアスが持ち出してきてのったまでだ、と言えば気がすむか?」
「何故兄はこの時期に?」
やっぱり面白半分の嫌がらせかしら。
「約束したからじゃね?」
「約束?」
「そう、昔な。あんたが18歳になっても結婚してなかったら貰ってやるっていう……」
一瞬、頭が空白になる。確かに私は18歳になったところだけど、……え?
「どう言う事?」
「口約束したんだ。留学時代に。……怒るなよ、その頃はこっちだってただの先行きのわからない庶子だったんだ。本気とは思わないだろ。なのにあいつ、覚えてて持ち出してきやがった」
……兄様、貴方という人は。
「でも、だったら余計、断ればいいじゃない! そんな昔の話!」
「まあな、でも、正式に申し込んできたしな。それに味方は欲しい。隣国なら文句は無い……というのもあったが、どうせなら興味がある女を貰った方がいいんじゃないかって話になって」
「誰が?」
「陛下が?」
「……何で? 何の興味? 怖いもの見たさとか?」
「何でそうなる。マティアスが言ったんだ、昔その約束をした時に」
「何て?」
「どんな女の子なんだって聞いたら、あいつ、言ったんだ、”宝物だ”って」
…………え?
「あの男がだぞ? その女に会ってみたくなるだろう?」
「うそ……」
カルは肩をすくめた。
兄様がそんな事……そんな事言う訳がない。ずっとあの場所に押し込められて、迷惑顔ばかりを見てきたのに。
「……何か裏があるとか……」
「さあな、知るか。信じたい事を信じろよ。俺はそのままの言葉を信じた」
わからない。本当にわからない。
だって、今ここにいる事でさえ、思いもよらぬ事なのだから。
暗闇と緑を抜けて風が吹く。ぼんやりとした光が美しくゆらゆらと揺れる。
そう、あの庭も、私が住んだあの屋敷も、風が吹く美しい場所だった。季節に合わせて咲く色とりどりの花々。それを庭のよく見える部屋の窓辺に座って眺める日々。
誰も来ない、何も起こらない。時間は静かに降り積もった。散る花と、めくれていく本のページだけが時間が経つのをかろうじて現していた。
ただ私は眺めていた。
花びらが、本のページの一枚一枚が、静かに私の中に降り積もっていき、いつか体中を埋めたその時、風が吹いて足元から私の形が吹き散っていく、そんな幻想をずっと……。
「大丈夫ですか?」
「ああ、ごめんなさい」
私はユニハの心配に額を押さえながら答えた。
「大丈夫です。ただ、なんだか急に疲れが……」
「いろいろな事が御身に起こってますから。もう、おやすみ下さい」
ユニハが優しく言ってくれた。
「そうします。ありがとう」
カルの小さなため息が聞こえた。
「吊り橋渡ってた時はもう少し気丈に見えたがな」
「カル」
ユニハが強い声で咎めてくれたおかげで私は怒らなくて済んだ。
「……そういえば、なんであんな事させたの?」
私は立ち上がりながらカルに問うた。今更たいした問題でもないけれど。
「身代わりをたてるのに、場所がよかった。後はまあ、あれだ」
「何?」
なんだか嫌な予感。
「そんな条件でもあげれば断ってくるかと思ったんだがなあ。強行してきたな。お前の兄貴」
……これはもう、誰にどんな文句を言っていいのか。自分の命が他者に握られるのは今に始まったことではないが、目の前でそれをヘラヘラ言われると嬉しくない。
「そんな理由で私は一歩間違えたら死ぬ羽目に?」
「マティアスが大丈夫って言ったんだって。それに死んでない」
私はカルに近寄るとおもいっきり仮面の端を掴んで引っ張った。
「痛い! って! やめろよ、兄貴に文句を言え!」
「ここにいないし!」
「やめろって」
カルは私の手を仮面から剥がしながら言った。
「生きててよかったじゃないか」
……この男、どうしてくれようか。
「睨むなよ。一応な、マティアスの肩も持ってやると、あの娘は生まれ変わる必要があるからちょうど良い、絶対大丈夫だって言って寄越したんだ」
「意味わからない」
本気で意味がわからない。
「そうだな、俺らもそう思った。でも、今は少しわかるな」
何がよ。
「睨むなって。……あんた、綺麗だったよ。橋の上で靴脱ぎ捨てた時。見惚れた」
「……………は?」
何を言ったの、この人? 馬鹿にした?
……もしかして……褒めた?
ああ、どいつもこいつも。私をあの場所から引っ張り出してくれて……。
カルが何を察したのか自分の顔に手を当てて守る動作をしたと同時に、ユニハが割って入った。
「まあまあ、二人とも。まだ道は続く事ですし、ここは……あれ?」
ユニハは言葉を切るとカルを見つめた。