4. ここ、なに?
そうこうするうちに西の空が赤くなり始めたと思ったら、あっという間に森の中は暗くなり始めた。昼間とは聞こえてくる音も違う。鳥の囀りも、虫の声も。風の音さえ違う気がした。
そんなことを気にしてるのかどうかもわからないまま歩き続ける男の後ろを、不安な気持ちでとにかくついて行く。
周りは相変わらずの樹々、というか、どんどん森の奥深くに入り込んでいる気がする。
泊まれるところがあるというのは私を歩かせるための嘘で、実際はきっと程よい所で野宿に違いない。
そう確信したところで彼の呟きが耳に届いた。
「この辺なんだがなあ……」
そうして立ち止まるとキョロキョロしながら、手近な樹を触ったりしている。
「何してるの?」
「探してる」
「何を?」
「宿屋の入り口」
「……何を言ってるの?」
私は思わず苛立ちを隠せないまま言い返した。
1日中歩いて、もう限界だった。脚は最悪に痛むし、気力もそろそろ尽きそうだ。つまらない冗談には付き合えない。
「もう野宿でいいから場所を決めましょう。さすがに真っ暗になってから歩くのは……」
「あった」
私の言葉を遮って彼が再び呟いた。何やら空中を見上げている。そして何かを触るかのように手をかざしている。何があったというのだろう。
「いったい何?」
カルは振り向いて言った。
「行くぞ。迷子になるなよ」
そう言って歩き出す。
何がなんだかわからない。が、置いていかれるわけにもいかないので、腹立たしい思いのまま後について行く。
なんだかわからないし、辛いし、腹が立つし。陛下に再びお会いした時に彼の悪口を言わないでおくのは、だいぶ骨が折れそうだわ。
と、ふと、風が変わっているのに気づいた。少しだけ温かくて柔らかい。それに、周りが暗くない。いや、もちろん薄暗いのだが、どこ、とは掴めないのにぼんやり明るい。空気が発光しているような。
「……ここ何?」
私は恐れと共に聞く。決して身の危険を感じたわけではない。だが違う、何かが。
「宿屋さ」
私の震える声とは対照的に相変わらずの明るい調子で彼は答えた。
「いい加減に……!」
言い返そうとする私をカルは遮った。
「着いた着いた。お疲れさん。流石にちょい疲れたよなあ」
そう言って立ち止まった彼が指差した先に、明るい光が見えた。
森の奥、樹々の陰にぼんやりと、でも明るく、丸太造りの一軒家が暗闇から浮かび上がるようにそこにあった。
おかしな家だった。
確かに間違いなくそこにあるのに、ふと視線をはずして見ると見つけられないのだ。そして、あれ?と思うと再びなぜか当たり前のようにそこに見える。
おかしな家だわ。
家の戸口の前には一人の壮年の男性が立っていた。
長い銀灰色のローブを身にまとい、ハシバミ色の長髪を後ろでざっくり束ねている。
ゆったりとした笑みを浮かべており、どうやら急な客にも寛容らしい、と、少しほっとする。
「やあ、誰かと思えば。久しぶりですね、カル」
その人は穏やかに緩やかにカルの名前を呼んだ。
何だかフワフワする。ただ単に疲れているせいか、光る森のせいか、この家のせいか。どこか現実味がなく心許ない。
「ユニハ、久しぶりだな」
カルも応えると抱擁し合う。
それからユニハと呼ばれた男は私に言った。
「ようこそ姫君。よくいらっしゃいました」
……え⁈
躊躇なく姫君と呼ばれた私の戸惑いを他所に、彼は家の扉を開けながらにこやかに言った。
「お疲れでしょう。質素な食事しか用意できませんが、暫しの間お寛ぎください」
そうして、こぢんまりとしているが居心地の良さそうな部屋に通された。
日が沈み冷えてきていたが暖炉のおかげで温かかった。色とりどりに織られた羊毛の布が床や木で作られた椅子にかけられている。
荷解きを済ませて、勧められるままに大きな木のテーブルについて待っていると、ほどなく乳白色の温かいスープがでてきた。潰した豆のスープのようだった。とろっとした食味が体に優しい。
たかだか半日ぶりだか、温かい食事がこんなにも心身を癒すものなのだとしみじみ感じる。
そのあと野菜の煮込み、パン、白いチーズ、最後にお酒の香りのする葡萄のタルトがでてきた。質素と言っていたが十分な食事だった。そしてどれも美味しい。
ユニハも同じテーブルにつき食事をしている。カルの方は食べるのに夢中で碌に返事もしない。
そんな彼を見てユニハはにこにこしている。この二人、どんな関係なのだろう。
食事を終えて最後にお茶を飲みながら、ふと気づいた。驚くほどに疲れがとれている。
食べたから? ……というには回復している。私、こんなに回復力あったかしら。
「さて、色々お話したい所ですが、お疲れでしょうからまたの機会に。姫は湯浴みされますか? 介助の者はおりませんが……」
あ、そうか。普通のお姫様は一人で身の回りの事なんてしないものね。
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
では用意を、とユニハが立ち上がってカルの脇を通った時、いきなり彼の仮面に手を伸ばして剥がそうとした。
「痛っ! 痛いって! 何しやがる、急に!」
「まだ取れないままなんですね」
「おう。なんとかならんか?」
「……なりませんね。こんなものつけようと姑息な事思いつくからいけないんです」
「しょうがないだろ」
不満顔……たぶん……のカルをそのままにユニハは部屋を出て行った。カルはブツブツ言っている。
「初めから取れない訳じゃないの?」
カルに聞くと頷いた。
「なんでまた、そんな事に?」
「うーん、顔を晒さない方が都合がよい頃があって初めたんだが、ちょっとした隙に取れなくさせられてさ」
「王も?」
「え? ああ」
そう言って背筋を伸ばすように天井を向く。
「仲が良いのね、陛下と」
「いいとか、悪いとかの仲でもないなー」
カルは気のぬけた声でそう答え、
「生まれた時からいるからさ」
と、つけ加えた。
何だか羨ましい、と思った事を、私は口にはしなかった。
ユニハは戻ってくると寝室に案内してくれた。この家で客室に使えるのは一部屋しかないらしく、ユニハが私に使うよう勧めてくれた。ベッドが二つあって、その上に丁寧に刺繍された掛け布団がかけてある。小さいけれど、清潔で温かみのある部屋だった。
その後、湯浴みをしてその部屋に戻ると……。
「ちょっと! 何であなたここにいるの⁈」
「何でって眠いし」
と、二つあるベッドの一つに寝っ転がってカルが言う。
いやいや、別の部屋使うはずでしょ。
「どいてくださらない?」
「えー、だって床で寝ろとか言われたんだぞ。俺だってベッドで寝たいわ」
それは申し訳ないとは思う。思うけど……。
「じゃあ私が床で寝る」
「ユニハのベッドの隣でか?」
あ、そういう事か。それは無理だし、どうしたら……。
「ま、気にするなよ」
ずいぶん気軽に言ってくれるんだけど、何かが違うでしょう。
「いいから、どいて。疲れてるから眠いんだけど」
「別にベッドニつあるからいいじゃん」
「そういう事じゃないし。どけ」
眠いんだから。早くベッドに潜り込みたい。
カルはくくっと笑った。
「面白いな、あんた。人の事とやかく言ってるけど、あんたの言葉使いも大概だぞ。本当にお姫様か? 偽物じゃね?」
偽物と言われれば偽物だけど……。
「本人よ。あなたに合わせてるだけ」
「へえ、じゃあさ……」
カルはニヤッと笑った、ように見えた。
「別な事で意気投合するのはどうだ? 心配性なお嬢さん」
どういう意味⁈ だいたい私はお嬢さんなどと言われる立場では……
と、声に出して言えなかった。
気づいたら私はベッドの上に仰向けになり、上から黒い男が見下ろしていた。
何が起こった? 何が起こっている?
私は目を丸くしていたと思う。驚きながら彼を見上げる。
表情の見えないはずの男から、なぜか明らかに、からかうような気配が伝わってくる。
「退きなさい。冗談にもならないわ」
「そうかな、そうでもないけど」
腹が立った。
「いい加減にしなさい。私はあなたの王の妃になりにきたのよ。不敬罪で首がとぶわよ」
「そういえばそうだったなあ。でも、多分気にしないぜ?」
呆れた。呆れたが、なるほどそうか、そういうものかもな、とは思った。私は女性として求められて嫁ぐわけではないし、姫君の火遊びは昔から噂話の定番だ。
が、しかし。
選択する意思を示す自由くらいは、こちらにもあったっていいだろう。
私は押さえられていない左手を無言でカルの仮面の端に伸ばすと、おもいっきり引っ張った。
革製らしいそれは思ったより柔らかいのに顔から外れる気配はなかった。
「いった! 痛いって。止めっ!」
カルは大袈裟なくらいに叫びながら離れると、ベッドから転げ落ちて床に座り込んだ。
思った以上の反応にびっくりしてしまう。
「……本当に、はずれないんだ? っえ、本当に痛いのね?」
「そうだよ。思いっきり力いれやがって。顔の皮が剥がれるわ」
そう言って仮面の上から頬を撫でているカルを見ていると、何故だか怒りではなく笑いが込み上げてきた。
「笑うな」
不満気にカルが睨んでくるが、逆に笑いが止まらなくなる。
「あー、性格悪いな!」
「どっちが。自業自得よ」
私は笑いながら言った。
「冗談だっての。第一この仮面のおかげで接吻もできないってのに…… 」
カルは小さく口の中でブツブツ言いながら、明らかに不貞腐れてる。私はどんどんおかしくなって笑いが止まらない。
こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。
そこへ、騒動を聞きつけたのかユニハが部屋に入って来た。
「カル、あなたなんでここにいるんですか!……姫? 何かありましたか? 大丈夫ですか?」
ユニハはベッドの上で笑い続けている私に、怪訝な表情で聞いた。