18. 力
「ねえ、怖くはないの?」
私は靴を拾ってくれているカルの後ろ姿に声をかける。
「何が」
そう言って彼は私の足元に靴を置くと体を折って顔を近づける。私はまた口づけされるかもと思って身を引いた。嫌じゃないのよ、嫌じゃないけどまともに話ができなくなるのだもの。
「私は怖いわ。とても」
「だから仲良くやろうぜ」
彼は離れると立ったまま話し続ける。
「そうなんだけど……」
「そんな心配するくらいなら、自分が死ぬ危険を先に心配してみたらどうだ?」
「え?」
カルは楽しそうだ。
「そんなつもりは全くないが、他所の国に来て立ち回りを失敗して命を落とす女もいる。そういう心配はしないのか?」
「ああ……」
私はちょっと考えて続けた。
「しないわ。その時はその時だもの」
それに他国に嫁ぐって初めからそういうものでしょう?
「だったら俺だってその時はその時だ」
「そうね……」
わかっている。私を怖がっているのは私なのだ。でも、どうしたらいいのかわからないのだもの。
「本当に心配性だな」
「だって……」
「俺を殺したい奴なんてそこら中にいるさ。兄を除けば筆頭はエイスだな」
「え⁈」
驚いて大きな声が出てしまう。カルは笑った。
「もちろん例え話だ。本当にあいつがそんな事するとは思ってない。でもさ、考えてみろよ、俺が死ねば自分が王座に座れるんだぜ? それに四六時中側にいるんだ。その気になったら簡単だろ」
「そう、かもしれないけど……」
私は変わらず明るい表情のカルをまじまじと見つめた。
「例えだからな。エイスは王冠なんかやるって言ってもいらんと言うさ。でも、運命とやらが何をどう転がすかなんてわからないだろ。だから、好きな人間を身近に置きたいんだ」
「そうね、危険は避けておきたいものね……」
「それもあるけど、好きな人間なら仕方ないって思えるだろ? 本当にエイスが俺を狙う事があるとしたら、それ相応の理由があるはずだ。だからその時は仕方ない、そうだろ?」
そう笑顔で言うカルを眩しく感じて私は目を細めた。命をかけて信頼しているのだ。そういう事をしてしまう人なのだ。
笑顔の彼に窓から陽が当たっている。私はつられて笑顔になる。
そして不意に思い出した。雨の中、暗い瞳をしていた人を。彼もきっと友人だったに違いない。
「どうした?」
「あ、いえ……」
私は僅かな表情を読まれて言い澱んだ。
「言いたい事があったら言えよ、って、前にもこんな事言ったな」
「そうね、言われた気がするわ」
「で?」
そう聞いてくるカルを見ながら思う。友人を斬った人に何を問えるというのか。
「何でもない」
「気に入らないな」
「何でよ」
「途中で話やめられるの嫌だろ」
気を遣ってるんでしょ。
「好き嫌いで決めてるの?」
「嫌な事は減らしたいんだ。あんたは心配性だしな。で?」
で?って言われても、それ以外に聞きたい事なんて……。
「リリアス?」
顔を覗き込まれ彼の手が伸びてくる。その手が自分の頬に触れる前に私は言った。
「イルシーヴァって誰?」
カルの手がピタリと止まる。そして低く「あー」というような声をだして姿勢を戻すと私を見下ろした。
私は彼から視線を外し横を向く。窓の外は明るく良い天気だ。
「言わせたの、貴方だからね」と、心の中で言ってみる。そんな狡い言い訳をしてみる。でも、今、一つだけ聞けというなら出てきてしまう質問だった。
「聞こえてたのか?」
「少しだけ。名前くらい……」
カルは見下ろしながら腕を組んだ。それから小さくため息をついたように見えた。
私は慌てて言った。
「ごめんなさい。悪かったわ。やっぱりいい……」
私のその言葉とカルの言葉が重なった。
「イルシーヴァは……」
私は彼を見上げた。淡々としたその表情からは何の感情も読み取れない。
「イルシーヴァは俺の昔の女」
……ああ、聞かなければ良かった。
私は思わず目を閉じた。胸の奥に重ったるい塊が湧いてくるみたいだった。
「……に、なりそ……し損ねた女性だよ」
間を置いて続けられた言葉を、私も間を置いて理解する。
カルを見上げると悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。
この人やっぱり、ちょっといじわるだと思う!
睨みつける私へ、カルは笑顔を返した。
「平たく言うと、ウーヴェルの里の年上の幼馴染だよ」
「そう、聞いて悪かったわね」
声が尖る。
「いや、別に」
カルは何でもなさそうに答えると、私の隣に再び座った。会話が途切れる。何故か二人で座ったまま前を向いていた。
「まだ聞く?」
「どうかしら。貴方次第」
「そうだな、話してもいいな……いや、あんたには話したい。聞くのが嫌じゃなければ」
「それなら話して。私が聞いていいのなら」
「……イルシーヴァは皆にセラフィーナの生まれ変わりだと、聖女だと言われていた女性だよ」
静かな声でカルは話しだした。
セラフィーナ。初めの王とともに海を渡ってきた最愛の想い女性。王がこの地を去ったのは彼女を亡くしたからだとも伝えられている。美しく可憐で癒しの力を持った理想の女性像として、彼女の名は今でも特別なものだ。
「美しい方だったのね」
「そうだな、綺麗だったよ。セラフィーナがそうだったと言われている、同じ絹のような金の髪をしていた。病弱だったせいかどこか儚げで、いつも微笑んでいるような女性だった」
私の胸はチクリと痛む。でも前を向いたまま話すカルの端正な横顔を見ていると、話を止めようとは思わなかった。
「彼女は癒しの力も少しだけど使う事ができたから、聖女と言われてそう振る舞い続けて、そのままに死んでいった」
「……好きだったの?」
カルは私を見て、ニヤッと笑った。
「城に来るかと誘ったけど断られた」
「振られたのね」
「そうだな」
二人で小さく笑い合う。
「……リアムの想い人だった。そう、それが彼女を表すのに一番嘘がない。リアムの想いの全てだった女性だ」
雨の中崩れ落ちた人が脳裏に浮かぶ。その人に自分のマントをかけた人も。
「来て欲しかったのね」
「城にか? そうすればもっと楽になるのにとは思ったな。結局、それからほどなくして亡くなった」
もし彼女が来ていたら結果は違ったのだろうか? でもそうしたら私は今ここにいなかっただろう。
「後悔してる? 」
「何を?」
「無理にでも連れてきたほうがよかった、とか」
「いや、あの場所以外で彼女は生きられないともわかっていた」
「そう……」
「そして、そんな彼女のためにリアムは里に居続けた」
カルの横顔に陽があたる。緑の瞳が煌めいて見える。でも表情は静かで、私の胸は痛む。
「……彼が貴方の敵に回ったのは彼女の事が……?」
「どうかな、他にもあるだろうが……。彼奴、まるで死に急いでいるようだった」
ほんのひと時だったが無言が支配した。小鳥の鳴き声がする。風がふわっと窓から入ってきて抜けていった。その風に誘われるようにカルが呟いた。
「……愛していなかったわけではない」
その小さな呟きは私の胸を抉った。嫉妬ではない。誰に向けてなのかわからないその言葉は、小さな嫉妬なんかどうでもよくなるくらい哀しく感じられた。
カルはそんな私を見て、微笑むと言った。
「イルシーヴァの事も今となっては済んだ事だ。ただやるせなさは残っているけどな。他人の無責任な期待に命を削ったかと思うとね。美しくて優しくて、聖女の条件と言われるものに当てはまったばかりにさ」
私はある女性を思い出す。とても似ている。
「私の母もそういう人だった。優しくて可愛らしくて、大好きだったけど……聖乙女として生きて幼い私を置いて死んじゃったわ」
「そうか……。だが、母君は本物だっただろう?」
「そうね。それにそんな自分に誇りを持っていたのも知ってる。でも私と年月を重ねられなかったことを痛いくらい悲しんでいたのも知ってる」
「リリアス……」
カルの右手が私の片頬をそっと覆った。温かくて大きな手。私はその手に自分の手を重ねる。
「あのね、あのね、聖乙女って自分のために死ねないの。皆のために生きて死ぬの。母は力を使い果たして亡くなったわ。……イルシーヴァ様が本当はどう思っていらっしゃったのか私にはわからないけれど……」
私はカルの瞳を見る。この国を愛している瞳を、光溢れた森の色を。
「もし彼女が誰かのために生きて死んだのなら、彼女は聖女だったのではないかしら。本当に」
それが幸せかはわからない。でも喜びがあったに違いないと思う。
「……きっととても愛したのよ」
きっとそれが聖なる乙女の何よりの条件。そして母が私に残したもの。
カルの緑の瞳が私を静かに射る。私が耐えきれず目を閉じると、瞼にそっと温もりがもたらされ、それから優しく抱きしめられた。
「そうだな、きっと。貴女がそう言うのなら」
明るい窓から涼やかな風が来る。
「でもリリはそんな者にならなくていいからな」
え?
抱きしめられてどこかぼうっとしたまま思う。今なんて呼んだ?
「えっ? なに?」
「だから聖女なんて必要ないって……」
「そうじゃなくて」
カルは腕をゆるめると、私の顔を覗き込むように見た。先程と違ってからかうような笑顔で。
「愛称がないって言ってたろ? だから。でも俺以外に呼ばせるのは禁止。命令」
そう言って軽く口づけをした。
ちょっと待って。あ、愛称って……、私の呼び名? え、不意打ちじゃない!
「め、命令っていきなり王様みたいね」
私は胸の高鳴りを誤魔化したくて言ってみる。
「実は俺、王様だからな」
カルは笑った。それからまた抱きしめられた。
「……前も思ったけど、あんた体温高いよな。あったかい」
え。また、あんた呼びになってる。
それはいいとして、体温高いって何?なんなの? あたたかい? 子ども? 子どもっぽいってこと?
会ったことは勿論ないのだけれど、美しいと何度も形容されていたイルシーヴァ様が頭に浮かぶ。ああ、なんだかもう、ぐるぐるしちゃうんだけど!
「そ、そんな事ないと思うわ」
「そう?」
「そうよ、ただ単にその、あ、貴方が抱きしめると、むやみにドキドキするからってだけで!」
……あ、しまった……。
顔が熱くなってきて体が固まった。私の肩に置かれた彼の頭部から、ゆっくりと笑いが伝わってきた。
ああ、何これ、もう。
私は笑っているカルを引き離した。すっごい楽しそうに笑っている。私は顔が真っ赤になっているのを自覚する。
「笑わないで」
「ごめん」
そう言いながらソファの背に腕を置くと、顔を伏せながらまだ笑っている。
「忘れて」
「…………」
彼は答えない。笑ってる。
「わ・す・れ・て!」
私が力を込めて言うと、やっと「ごめん、ごめん、わかった、わかった」と、なんとか止めてくれる。
でも私を見つめるその顔に、まだ笑いが残っていて、そして私は、まだ顔があつい。
カルは赤くなったまま不貞腐れている私の頬を両手で挟んでぎゅっと押した。私は思わず目を瞑る。
「何するの」
声がくぐもる。
「可愛いな」
どうしろというのよ……。ますますぐるぐるしちゃうじゃない!
「もう、離して」
離そうとして彼を押したがびくともせず、逆にカルは私を引き寄せた。抱きしめられて、優しい手つきで頭を撫でられる。
ドキドキが落ち着いてふんわりとした喜びがやってくる。愛しい人に心が振り回されるというのは何て甘美なのだろう。それは知らなかった甘さだった。
と、カルは落ち着いた声で言った。
「イルシーヴァは病弱だったせいか手足がいつも冷たかったんだ。……温かいのはいいよ、生きている感じがする」
腕に力が込められ強く抱きしめられる。
「約束するから」
「何?」
「もう二度と、誰かの血を流させるような事はさせない、絶対に。約束する」
その声もまた力強くて、本気で言ってくれているのが伝わってきた。
「カル……」
それからとても優しい声で彼は続けた。
「だから自分も傷つけなくていいからな、リリ。もう、怖がらなくていい」
思いがけない言葉だった。そしてゆっくりと体の奥から何かが込み上げてくる。
「いい、の?」
「ああ」
「でも、私……」
私自身が変わるわけではないのに。良いと言うのだろうか、この人は本当に。私がこのようであっても。
「もういい、大丈夫だ。よくここまで来た、礼を言う」
……私は呪われた子どもだった。そう、言われた。でもわかっている。いつだって温かな手はあった。父様や母様、兄様、ヴィルマ。私の世話をしてくれた人たちも。彼らが私をここまで連れてきてくれたのだ。
私は震えるまま、彼の背にまわした腕に力をこめた。彼もまた温かかった。
ああ、それでも。
「私は私が怖いわ」
「それなら怖がればいい。でも怯えるな」
怯える。ああ、そうだ。私は怖がっていたのではない、怯えていたのだ。自分に、自分の力に、自分に向けられる悪意の視線に、ずっと。兄様たちが全力で守ってくれたのに、それでも。
「私、私……」
何を伝えたいのかも分からず、ただ、カルにしがみついた。
ここにいたい、ここにいたい、ここにいたい。
私は許されたかった。私のままを許すことを許されたかった。
「言ったろ? 橋を渡ってきたあんたは綺麗だった。世界中で一番綺麗な女だと思ったよ」
私を抱きしめる腕は優しくて、力強かった。
「もう戻すつもりはないからな」
私の目から涙が溢れた。
「いいの?」
「いいの」
どこか揶揄うように楽しげに彼は言う。私の中にずっとあった暗く重い何かが、ゆっくりと明るい霧のようになって消えていくようだった。
カルは腕をほどいて私を真正面から見た。浮かんだ涙の向こうに、彼の姿を見る。
彼は指でそっと私の頬に触れると涙の跡を拭った。それから静かに、でもはっきりと言った。
「俺のそばで生きてくれ、リリアス」
「……はいっ」
ああ、私はここに居ていいのだ。この人とともに、この国で生きていいのだ。
涙がこぼれたまま、私は愛おしさが溢れて彼に腕を伸ばす。それは受け止められて、長く優しい口づけで返される。
風が吹いた気がした。緑の香りとともに。
私は明日、この人の花嫁になる。




