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16. 水面

 静かだった。一面の水はまるで固まっているかのように動かず、空は七色にギラギラと光っていた。それでいて色がないような、暑いのか冷たいのかもわからぬ世界。ただ空といえない空を映して光る動かない水面が、どこまでも果てしなく続いている。


 気づくと私はその中に座り込んでいた。死んだのかな、と思ったが、違うな、とすぐ思う。

 ここは”美しき浜辺”ではない。例えそれが宗教的な嘘だったとしても、死後の世界にしては余りに静かだと、なぜか思った。


 鏡のように張り詰めた水面を揺らしたくなくて指一本動かさない。それでも辛いと感じることはなかった。永遠にこのままでいられそうだった。


 いえ、永遠にこのままでいましょう。


 どれくらいそうしていたのか、この世界では時間を考えることさえ出来なかったが、とにかく、不意に近くの水面に小さな丸い波紋があるのに気づいた。

 それがひろがり消えると、また小さく波紋が出来る。その繰り返しをぼんやり見続けていたが、ある時点でふと気づいて視線をあげた。


 空中に拳くらいの大きさの丸くて透明な塊があった。透明だけれど碧い。碧いけれど七色の光を映してギラついているようにも見える。宙にあるそれから、ポツン、と雫が落ちる。それが波紋を作る。それがいつしか消えると次の雫が落ちる。


 繰り返し繰り返し。まるで命が落ちていくように。


「母様……」


 意図せず口からこぼれ出たその言葉を耳にした時、驚きそして涙が零れた。


 ……母様、母様、どうしたらいい? どうしよう。また、死んでしまった。また、死なせてしまった。それも、何人も。


「……誰にもどうしたらいいか聞けないの。母様はなんでいないの? どうしていないの? 誰も……」


 何処にも、私のような人間はいない。世界中で一人だ。どうしたらいいかもわからない。誰にも相談できない、誰にも……。


「……助けてって言えないの……」


 下を向いて両手で顔を覆った。この水の広がりはもしかしたら誰かの涙だろうか。だったらこのままここで泣き続けたら私もこの中に溶けるだろうか。そうならいい。


 と、全身に温かみを感じた。誰かが抱きしめてくれているような。ううん、知ってる、これは……。


「……」


 顔をあげると、そこに自分と同じくらいの年恰好の少女がいた。初めて見る。でも、誰だかわかる。私は声をあげて泣いた。少女の姿の母が強く抱きしめてくれるのを感じる。でも抱きしめ返しはしなかった。そうしたら消えてしまうのがわかっていたから。


 少女は泣き笑いの表情で抱きしめてくれていた。そう感じる。わかる。

 ああ、そうね、貴方もずっと独りぼっちだったのね。だからこの国に、ユニハに会いにも来たのね。だから、父様を愛してしまった事を手放せなかった、だから、あんなに私を愛し、心配しながら逝ったのね。


 ああ、貴方にいて欲しい。父様に会いたい。兄様の側にいたかった。

 誰かに、誰かに……それでも別にいいのだと、言って欲しかった……。

 

 その時、声がした。私のでもなく少女のでもない。でも、女の人の泣き声だった。それはとても悲しげで苦しそうだった。とても。


 誰? そんなふうに泣かないで。


 顔を上げると母様が微笑んでいた。微笑みながら左腕を真っ直ぐ上げて遠くを指差した。私は促されるようにその方向を見る。そこは変わらず水面だった。そして視線を戻すと少女はもういなかった。

 私は面影を探して上を見た。そうして、それからゆっくりと、立ち上がった。

 

 いつの間にか頭上はギラつくのを止め、青く澄み渡っている。


 


 私は歩いた。膝下にひろがる鏡のような水は、歩くと揺らめいたが音はしなかった。ただ、誰かの泣き声が遠く近くするばかりだった。

 泣かないで、と、呟いてみる。


 どれくらい歩いただろう。なんだか歩いてばかりだな、と思った時に、足元に赤い糸が流れて来ているのに気がついた。それは私の足首で絡まるように解れまた流れていく。

 よく見ると、それは糸ではなかった。下を見ながらその赤い筋を追って歩く。


 やがて、流れ出ている元にたどり着いた。赤い筋の先には抜身の剣があり、その切先から流れ出ている。剣は握られ、握った手の甲に赤い糸のようなそれが縦断している。その先、腕から先は黒い服に覆われ、その赤い糸のような血を隠していた。


「カル……」


 私はそこに剣を持って立っている人物の名を口にする。彼は遠くを見ていた。血を長く長く流しながら、ただ遠くを見続けていた。


 彼は言葉を発せずこちらを見ることもない。私は視線の先を追う。そこには変わらず張り詰めたような水面があるばかりだった。青い空を映したそれは、やはり青く澄んだままどこまでも広がっている。


 私は彼の横に立ち同じようにその水平を見ながら、まるで何かに似ていると思った。そう、海のようだ。海を見たことはなかったが、きっとこのように美しいに違いない。

 少なくとも、”美しい浜辺”の先にある旅立ちの海は、きっと。

 ああ、そう言えば、海を見たいと私に語った人だった。


「海ってきっとこんな感じ?」


 私は聞くともなしに呟いた。隣の人の動いた気配に視線を戻すと、そこには私を見つめる明るい緑の瞳があった。その瞳を見た時、急に胸がぎゅっと締め付けられた。たまらないほどの切なさで。

 私はその緑の瞳を見返す。

 そして止んでいた泣き声が再び耳に届いて、また遠ざかる。

 ああ、行かなくちゃ。


 私の頬を柔らかに触れていくものがあり、微かに水面が揺れた。

 

 彼は剣を鞘に収めると私に手を差し出した。その掌にもやはり一筋の赤い血が流れていた。私はもう一度、水の彼方に目をやり、それからそっとその手に自分の手を重ねた。


 ざあっという音がした。同時にそれは水面を遠くから揺らしながらやってきて、私の足元を抜けて行き、そして再び遠くからやってきたそれは、今度は私の髪を揺らしていった。


 風が、戻ってきた。



 


  ***********************************


 ヴィルマは聞こえないほどの微かな音に、顔を上げ濡れた瞳でその方向を見た。まさかの思いに見つめていると、愛らしいが血の気のない唇が再び小さく動いた。


「姫、さま……?」


 瞳は閉じられたままに再び唇が動く。音のないままそれでも確かに「泣かないで」と。


 ヴィルマは震える手で姫の頬にそっと触れた。ゆっくりゆっくりと、その瞳が開いていった。




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