15. 聖乙女
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開け放たれた窓から明るい秋の日差しと爽やかな風が入ってきていた。窓の外では樹の葉が陽にきらめき揺れて、枝の上には小鳥が飛んできて止まっている。
静かで穏やかな秋の午後、しかしヴィルマは沈痛な面持ちで木の椅子に座っていた。目の前の寝台には死んでいるかのように静かに、一人の少女が横たわっていた。
ギィと木の扉が開く音がした。ヴィルマは振り返ると同時に立ち上がって礼を示そうとしたがそれを身振りで止められる。
「どうだ? 変わりなしか?」
カルが入って来ながらヴィルマに聞いた。
「はい。……眠られたままです」
ヴィルマは答えながら椅子をカルに譲る。だが彼は座らずに立ったまま、眠るリリアスを覗き込んだ。
「息も穏やかだし、なんで目を覚まさないかなあ」
「はい」
「外傷らしい外傷もないんだが」
「はい」
「どうしたもんかね」
「はい。……結婚式の準備は終わられましたか?」
「ああ、まあな、らしいぞ。明後日だしな。代役も立てたらしい」
「そうですか」
と、カルは眠る少女に向かって言った。
「腕のいい髪結も見つけておいたぞ。目を覚ませ。代役は嫌なんだろう?」
だが、リリアスは瞼をぴくりと動かす事さえなかった。
カルは一つ息を吐くと椅子に座る。ヴィルマその横に半歩下がって立つ。
「もしこいつがこのままだったらヴィルマはどうするんだ?」
「こいつ、と呼ばれるのはおやめ頂きたい」
「悪い……で、どうするんだ?」
「目が覚めるまでは姫様の側におります。許されるならば、ですが」
「それは勿論いいが、何ならずっといてもいいんだぞ。こい……姫が目を覚まそうが、そうでなかろうが」
「いえ、陛下に報告するまでが私に与えられた命令ですので」
そうか、と言ってカルは少し笑った。一時、静かな時間が訪れる。遠くで鳥の囀りがする。
「……しかし、あれだな。マティアスも、宝物とか言ってとんでもない者をよこしやがった」
「……」
ヴィルマの形のよい眉が僅かに上がった。
「何にしろ、目覚めるのを待っているしかないというのも間怠っこしいな。ユニハでさえそう言うしなあ」
「はい。しかし……姫様にとっては目を覚まさないほうが良いのかもしれませんが……」
「おいおい、随分弱気だな、らしくない」
カルはヴィルマを見上げて言う。
「申し訳ございません」
「謝る事でもないが。でも確かに、あの場で気を失ったままだったのは良かったとは思うね」
カルは再び視線を眠る少女へ向ける。
「あれは全部このお姫様の仕業なんだろう?」
「……はい」
「だったら、あれだよな。戦場に連れ出せば一人で一軍を倒せるわけだ」
カルは面白そうに言う。ますますヴィルマは難しい顔になる。
「姫様が自分のお力をそこまで意図的に使えるとは思えませんし、何より今のこの状態を考えると、そんな事をすれば命を落としかねません」
「まあ、そうだろうな。そうでなければマティアスだって手放さないだろう」
「マティアス様は姫様に幸せになって欲しいのです、本心では」
「本心がわかりにくすぎるんだよ、あいつは」
「…………」
「そもそも何なんだ、あの力は」
カルは軽い口調だったが、ヴィルマはますます難しい顔になった。
「私にはわかりません。わかりません、が、姫様には風の精霊がついておられる。先代の聖乙女の血と力を引き継いだ真の聖乙女です」
ふーん、とカルはつまらなそうに言った。
「この国には今更そんな者いらないんだけどな」
その言葉にヴィルマが口を挟む前にカルは立ち上がった。そして眠る姫にいつもの明るさで声をかける。
「お前も呪い子だったり聖乙女だったり散々だな。でも、まだ王妃の役目が残ってるぞ、さっさと目を覚ませ」
もちろん反応はない。カルはそんな彼女をじっと見下ろして、それから戸口に向かった。そして出ていく間際に振り返ってヴィルマを見た。
「ああ、それから」
「何でしょうか」
「マティアスがお前に与えた命令っていうのはそれだけか?」
ヴィルマは不意をつかれて瞳が揺れる。カルは真っ直ぐにそんな彼女を見つめる。その視線をなんとか逸らさずに受け止めてヴィルマは言った。
「おっしゃる意味がわかりかねますが、私がすべき事は姫様を無事にここまでお連れした後、式に参列し、それを報告する事と心得ております」
カルはふっと笑った。その場の空気が軽くなる。
「そうか、それなら尚更、明日までには目が覚めるといいな。引き続き付いててくれ。何かあったら報告を」
「かしこまりました」
カルが出ていくのを立ったまま見送ってから、ヴィルマは疲れ切ったように椅子に再び腰掛けた。
それからリリアスの顔を見つめると絞り出すように「姫様……」と呟いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヴィルマは覚えている。あの時の姫を、はっきりと。
あれは、先代の王の葬儀の後だった。ふと気づくとリリアス姫がいなかった。周りに聞くと神官が教会に連れて行ったという。ヴィルマは慌てて後を追うと、城から教会に通じる長い廊下の途中でその姿を見つけた。
彼女はそこで足を止めた。蒼白な顔をした姫が立ちすくんでいた。その前に新王が立っている。そして姫のすぐ近く、一人の年老いた神官が血を流して倒れていた。首から胸元にかけて鋭い切り傷があり、明らかに絶命している。その右手近くには短剣が転がっていた。
もう一人、若い神官がいた。何かに怯えて膝をついたまま、陛下を見上げて縋るように声を絞り出していた。
「へ、陛下、あ、あの姫が、あの呪われた女が、やったのです。あ、悪魔の力だ、どうか、助け……」
マティアス王が腰の剣を抜いた。若い神官はほっとした表情を見せた。ヴィルマはそれを見て自ずと厳しい表情になった。その後が予想できたからだ。そして、その通りになった。
王は剣を振りかざすと若き神官を切って捨てた。男は声も出せないまま、ただ目を驚いたように見開いたまま倒れ生き絶えた。それから王は絶命している老神官に剣をむけるとその傷を剣でなぞるように切った。鋭い切り口は剣の傷へと変わった。
「誰かいないか! 狼藉者だ!」
滅多に大声を出すことのない王の声が廊下に響き渡った。すぐに騎士達がやってくる足音がする。
「ヴィルマ」
「はい」
「リリアスを部屋へ」
「畏まりました」
ヴィルマは立ち続けている姫の元に行く。
「リリアス様、行きましょう」
リリアスは固まったように動かない。ヴィルマがそっと肩に手を置いて歩く事を即すと、やっと歩き出した。その表情は硬く青ざめ、口は一文字に閉じられている。ヴィルマはそっと声をかけた。
「大丈夫ですよ、姫様」
リリアスはすぐには何も言わず黙って歩いていたが、不意に、
「ごめんなさい」
と、呟いた。その瞳に涙を溜め愛らしい唇を小さく震わせながらも、しかし、視線を落とす事なく前を向いて歩く。
その姿を見てヴィルマは体の奥から湧き上がるように強く思った。
この姫を護り抜こう。必ず。
力無く泣き崩れるわけでもなく、言い訳をするわけでも当たり散らすわけでもないその姿は、ヴィルマには尊いものとして映った。
彼女は王家の者であり、そして何より、聖なる乙女だ、そう思った。
ヴィルマはこの時には既に、呪い子と蔑まれた彼女が生まれ持っているものを知っていた。
リリアスの護衛に任じられて暫く経ったある日、ちょっとした用事で彼女の私室を訪ねた。戸を叩いても返事もなく、心配になったヴィルマは部屋の中に入った。
「姫様? いらっしゃいますか?」
返事はなかったが、戸口を背に窓に向かっておいてある大きな一人用のソファの肘掛けに、彼女の腕が見えた。
お気に入りのソファできっと、うとうとしてしまったのだろう。ヴィルマはそっとソファを覗きこむ。案の定で、そんなリリアスにヴィルマが膝掛けでもかけようかと周りを見回した時だった。ばさっというような音がした。
ヴィルマは最初、何の音だかわからなかったが、ぐるっと見回してみて了解した。窓辺に置かれた机の上の本のページが捲れる音だ。開かれた窓を閉じようと近づいて、ヴィルマはふいに気がついた。重いページが捲れるほどの風は吹いていない。
その時、またページが動いた。遊ぶようにヒラヒラと。ヴィルマが目を丸くして見ていると、眠っていた姫が急に起きて姿勢を動かした。ヴィルマが彼女に視線を移すと、寝起きで混乱しているのか目をパチパチして机とヴィルマを交互に見て、それからバツの悪そうな顔をした。もう本が捲れる事はなかった。
リリアスがそれについて、言葉にしてヴィルマに伝える事はそれ以降もなかったし、ヴィルマから問う事はもちろんなかったが、聞かずとも自ずとわかった。
ああ、姫様は正しく聖乙女の娘なのだ、と。姫様の周りには精霊がいる、多分、風の精霊が。
さりげなく見守っているとそれは明らかで、人目につかないところで、彼女の周りで落ち葉が楽しげに回ったり、花が散って花弁があり得ないほど美しく舞ったりしていた。そんな時、姫は楽しそうに小さくクスクスと笑う。ヴィルマはその愛らしい笑顔が好きだった。
元々最初に姫の身辺警護を命じられた時、ヴィルマは複雑な思いを抱いた。もちろん王の命令だから聞かないと言う選択肢はないし、何より適任だな、とは思った。ひっそりと城の奥の屋敷に移り住んでいる少女の顔さえ知らなかったが、そんな方だからこそ身近で仕えるなら女の私がふさわしいだろう、と。でも……。
代々、王の騎士として仕え権力を維持してきた一族に生を受け、女の身ながら当たり前に鍛えてきた。陛下が帝国に留学する際には、歳が近かったこともあり護衛も兼ねてともに留学を果たした。これも、王家から打診を受けた両親が考えあぐねていたのを説得したのはヴィルマ自身だ。親元で庇護された環境から出て己を鍛えたいという欲求からだった。
結果、知識や技術とともに未来の王の信頼を得ることができたが、いざ国に戻ってみると、忸怩たる思いをすることになる。
どれだけ鍛えたところで壁があった。その辺の男には負ける気はしない。ただ、同じように鍛え上げた男にはどれだけ工夫したところでなかなか勝てなかった。女の身だからか、才の問題からか……。
また、自分が入ると微妙な雰囲気を呼ぶことがあると自覚した。騎士たちの中でも、上流階級の女たちに混ざった時も。良い場合も悪い場合もあったが、どちらにしろヴィルマ自身は良い気分ではなかった。それは自分が望んでいた姿ではない。
一見なんの不満もないような毎日の中で鬱屈していたそんなヴィルマに与えられたのが、姫の警護だった。適任だな、とは思ったが、これで陛下の元を離れることになる。この国を陛下を守りたいと鍛えてきた意味は何だったのだろう。……一族の誰も、こんな待遇に甘んじている者はいない。
会ってみると、リリアス姫は可愛らしい、無垢で世間知らずな少女だった。良くも悪くも愛らしい普通の少女のようで、ただ我慢強い方だなとは思った。こんな窮屈な生活をそれなりに楽しんでいるように見えた。やがて姫の秘密を知り、彼女自身に興味を持つようになると、ヴィルマは自然にこの方に仕えたいと思うようになった。
姫は当たり前のように自分を必要としてくれたし、マティアス王が誰よりも(かなりわかりにくい態度ではあったが)リリアス姫を大切に思っているのがわかったからだ。そして、だからこそ、自分を姫の護衛につけたのだともわかった。
何よりも、いつしか姫はかけがえのない友人となったのだった。それは唯一の同性の大切な存在であり、自分が女の身として生まれ騎士になったのは、この運命の元、この方に会うためだったのだとさえ思った。
だが、神官が死んだ日から姫は笑わなくなった。何が起こったかは陛下から聞いた。その老神官が姫を狙い、そして死んだ。何で死んだのかわからないまま命を終えたのではないだろうか。
風は鋭利な刃物となり得たのだ。
おそらくリリアス自身がその事をそれまで知らず、また受け入れられなかったのだろう。口数も減り、部屋から出ない日々が続いた。
そんな姫を心配する中、リリアスの結婚が決まった。政略結婚というだけでも大丈夫なのかと思ったが、内容は想像していたより酷いものだった。
それを陛下の執務室で二人の時に聞いたヴィルマは、つい言ってしまった。
「本気で言ってらっしゃいますか?」
「私が本気ではない事を君に言った事があったかい?」
それに関してはあやしいものだが、どちらにしても陛下の決定に異議を申し立てる事などヴィルマにはできない。だが怒りが湧いた。何を考えているのだ、陛下は。
しかし花嫁になる姫を護衛するためにヴィルマも隣国に赴くようにと言われて、さすがに異を唱えた。
「姫は厳しい状況に置かれると思われます。ならば私より適任がいると存じます」
残念ではあるが自分より腕のたつ騎士は他にいる。姫が慣れていて、また自分が女である事は確かに良い点ではあるだろうが、今回ばかりはそんな事は言ってられない。
だが、マティアスはその申し出を却下した。
「どうしてでしょうか」
「私の代理として結婚式にも出てもらわないといけないからね」
だとしても、だ。
再び反対しようとするヴィルマにマティアスは被せるように言った。
「今回の決定はお遊びじゃない。両国にとって利があると判断したからだ。……それにあいつなら……カルなら……上手くやるかもしれないし。むしろ心配すべきはリリアス自身だよ。だから、君に見極めて来て欲しい。この婚姻が意味あるものとなるかどうか」
「私にですか?」
「君にしかできない。あの娘が心を許している人間がいい」
「……何故?」
「両国にとって利ではなく害になるなら対処しなければならない」
それはつまり、対処とはつまり、手に余る事態になったら、姫を……?
ヴィルマは言葉にして聞けなかった。マティアスもそれ以上は言わない。ヴィルマは憤りで震えながらも退室する言葉を言う。目を合わす事は出来なかった。
背を向けて出て行こうとするヴィルマにマティアスが言った。
「君は戻るんだよ。戻って報告してくれ、……どんな式だったかを」
ヴィルマは振り返った。マティアスはいつもの整いすぎて冷めたような表情に、少しだけ笑みを浮かべていて、それが寂しげに見えて、ヴィルマは何も言えずただ唇を噛んで、深く一礼した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヴィルマは気づくと涙が頬を伝っていた。泣くなど何年ぶりだろうと頭の片隅で思ったが、涙を拭わなかった。
脳裏にあの森での惨状が蘇った。一面の死。爛れたような赤い雨の中でカルが何度も姫の名を呼んでいた。雨に打たれて泥の中に倒れる姫。顔は苦しそうではなくむしろ無表情だったが、それ故に命が去ったのかと一瞬思って身震いした。そして彼が彼女を抱き抱えて運ぼうとする。が、ヴィルマは横取りするかのように取って代わった。
体はガタガタだったが、任すわけにはいかなかった。
まだ嫁いでいない。まだラヴェイラ王国の姫君だ。まだ、私の姫様だ。
程なく味方の兵と合流し、姫を城へ連れてくる事ができた。敵兵はほぼ全滅しており、残党が逃げていくばかりだった。
それからリリアスは目を覚さない。ヴィルマはずっと付き添っているが、本当に生きているのかと思うほど、呻き声ひとつ姫はたてない。
涙が頬を伝う。必ず護り抜くと誓ったのに。姫のためにも陛下のためにも。なのに、なんだ、この有様は。何をしている。悲しみも怒りも絶望さえ意味をなさない。せめて姫が今、夢の中で……夢の中にいるかどうかもわからないが……穏やかな気持ちでいて欲しい。それを確かめる術もないが。
ああ、なんと無力なのだろう。なんと、無力で、それなのに何故、私はここに無事でいるのか。何故、涙などしているのか。悔恨さえ届かない場所に姫は行ってしまったというのに……。




