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9-2.

 私は走った。


 こんなに走ったのは子供の時以来だ。すぐに息があがり足が重くなる。側から見たら笑ってしまうくらいの速さだろう。でも、とにかく足を止めずに走る。

 なるべく離れたほうがいいのだという気がした。その方が彼を助ける事になる、そう思った。


 走りながら腰につけた短剣を触る。やっぱりもっときちんとした物を借りればよかった。これはユニハにお願いして借りた物だ。国からは何も持ち出せなかったから。

 女性でも扱える重さと形ではあったが、攻撃には耐えられない。選んだカルにそう言って抗議したら、


「どっちにしたって武器を持った男と対等に戦えるとは思えないな。移動の邪魔になるだけだ。俺に言わせればこんな短剣もいらないんだけどなあ。ま、それで気が済むなら持ってけば?」


 確かに、そうなんだけど。少しは訓練を国で受けてはいるが、たかが知れているのは自分でよくわかっている。

 それにしたって正論は言い過ぎると嫌われるのよ。私におもねらないというかどう思われるか気にしないところ、お兄様を思い出す。似たもの同士の友人だったのかしら。


 でも、雰囲気は違うけれど。兄は冬の朝の光のような人だったけれど、カルは初夏の新緑を思い起こさせる。風が通り抜けてキラキラとした……。


 そこまで考えて足が止まる。息が上がる。どれくらい来たのだろう。まだ広いところには出ない。肩で息をしながらそれでも歩き出す。一度止まってしまったら、また歩き出すのが難しくなりそうな気がした。


 それにしても、兄様はよくもまあ、あんなことを言って送り出したものだと思う。別れ際に彼は言ったのだ。美しい細面の顔に珍しく笑顔を浮かべて。


「せいぜい頑張って生きてね」


 そんなに何かしら厳しい生活が待っているのかと思ったけれど、そのまんまじゃない。絶対わかって言ってるし。腹が立ってくるわね!

 私はいったん立ち止まって膝に手を当てると大きく息を吸った。そして再び走り出した。不安を打ち消すために心の中で兄に恨言を言いながら。


 あの人だって昔は優しかったわ。まだ子供の頃、母と暮らしていた湖畔の城で初めて対面した時はとても優しそうで、その後もしばしば訪れてその度にたくさん遊んでくれた。それに兄様は母さまには最後まで優しかった。王妃である実母とうまくいってらっしゃらなかった反動もあったと思うけど。

 それが変わったのはいつだったか。そう、私が王城に隠れ住むようになってから? でも、移ってからはあまり一緒にいた記憶はない。もう、子供ではなかったし。だとしたらいつ?


 と、足先が小石にあたって躓いた。かろうじて転ばずに済み、その場で立ち止まる。肩で息をしながら後ろを振り返る。誰もいないし、誰も来ない。空を見上げると風が黒い雲を運んできていた。


 父と母の顔が浮かんだ。大丈夫だ、と父が言う。そう言えばいつもそう言っていた。そして母は言うのだ。大好きよ、私の宝物って。

 私はまた歩き出した。胸がいっぱいで目元が熱く感じるのは、きっと、走ったからだけではない。


 そういえば、宝物って兄様が言ったのは本当かしら。だとしたら母さまの真似だったのかな。うん、きっとそうだわ。……あの人が今みたいになったのはいつだっけ? いや、元々皮肉屋ではあったけど。私に対して辛辣になったのは……たぶん、父が死んで王位についてからだ。


 そう気づくと許せる気もしてくる。最初の数年はとても大変だったと聞いている。元々帝国と違って、わたしの母国も、そして嫁ごうとしているこの国も、王権が堅固というわけではないのだ。


 そう、王の葬儀の後、父の死に打ちひしがれ、そして自分に纏わりつく死の影におびえる私に兄は言ったのだった。


「いいかい、この屋敷から出てはだめだ。必要な物は揃えてやるから言えばいい。とにかく大人しくしているんだ、わかったね」


 きつい声だったのを覚えている。怯えから、いつしか無気力になった私に理不尽な事を言ったり怒らせたりするようになったのは、それからじゃないだろうか。


「死んだような目をしているヤツをからかうのは面白い」とか言って。思い出しただけでムカムカしてお腹が痛くなりそう。あ、脇腹痛いのは走ったせいか。

 

 その時、雷が低く響いた。湿った風が吹き抜ける。追われるように、また私は走り出す。


「なんでそんな事言うの?」


 と、一度だけ半泣きで抗議した私にあの人言ったっけ。


「心だって体と同じだからね。動かしてやらないと壊死してくる」


 ……訳がわからない。絶対にただの八つ当たりだったって信じてる。だってそもそも私を完全にあの場所に閉じ込めたのは兄様だ。他の誰でもなく。絶対に出るなって言ったのは。


「出ない事。今はまだダメだ、気配を消して大人しくしているんだよ。そうしたら……」


 遠くで何か聞こえた気がした。立ち止まる。でも気のせいだったのか、何処で鳥が羽ばたく音がしただけだった。

 また走り出す。どうして走っているのかだんだんわからなくなってくる。とにかく、行かなければいけないのだ。とにかく、きっと。


「とにかく我慢するんだ。いいね。そうしたら……」


 そうしたら……。


 木々が切れていきなり視界が開けた。小さな広場みたいな所に出る。私はそのまま突っ切ろうとして慌てて向きを変える。

 違った。この周りを回り込むように行けって言われたのだった。

 足も胸も横腹も全部痛い。何でこんな事しているのだろう。何だっけ。何を考えていたっけ。


「そうしたら……」


 何? 兄様?


「そうしたら、いつか必ずここから、この場所から、出してやるから。君に相応しい場所に、必ず」


 …………ああ、そうだ。約束は守られたのだ。


 風がざわざわと木々を揺らす。すっかり雲に覆われてしまった空の合間から一筋だけ光が落ちて消えた。

 ふいに何かを感じた。本能的に振り向くと、一人の男が私に剣のような物を振り下そうとしていた。


 私は咄嗟に短剣を抜くと男に向ける。だが、壁に向かって刃をたてているような無力感しかない。風の音が耳元で聞こえた。その時、短剣がキラッと光った。男の剣を振り下ろす動きが一瞬止まった気がした。私は反射的に目を瞑った。


 時間が止まる。カルの顔が緑の瞳が、一筋の光のように浮かんできた。唇に残された熱さととともに。そして、言葉が。


「生き延びろよ」


 

 ……ごめん。

 




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