四
さて、千世の家について語ろう。
父は阿曇比古、巳の国の王。母は前王の娘であり、東の集落を束ねている。
だからといってチセの出生が恵まれているわけではない。
父の家は女の数だけあり、それぞれに子を産ませている。その数十二戸八二人。
そのなかでもチセの家では、女ばかりが七人。邸のなかが女くさくて酒がまずいし、話は面白くない。
当然、父の足は向かない。
そもそも前王から押しつけられるようにして賜った母を、愛してなどいなかった。
家は集落の人間たちからも、忌み嫌われていた。家長である母親の気性の荒さが原因のほとんどだ。
母は、それらをすべて娘たちのせいにした。
七人の娘の名は上から、
一葉、二葉、三葉、百世、千世、万葉。
四女に十世という娘がいたが、齢十二で亡くなっている。
娘たちは器用も気だても、てんでばらばらであったが、ひとつだけ共通の理解があった。
母は、敵だ。
年長の一葉と二葉は、唯一母の愛を知っていたが、ある日を境に母と思うことをやめた。子どものように可愛がっていた妹の十世が、母の手によって殺されたからだ。母は、十世は父親を誘惑した悪女だからと、岩礁にしばりつけ海鳥の餌にした。ふたりは岩礁に残された骨を拾い集めると、その骨を材料に槍をつくった。今でも毎日隠れては、母に突き立てる日を夢見て槍を磨いている。
三女の三葉は器用も気だても、母そっくりだ。朝から晩まで母の機嫌をうかがって、その鬱憤を、自分より立場の弱いチセで晴らす。そしてそんな風にしか生きられない自分を、そんな自分を産んだ母を、恨んでいた。
百世は、優しい子だ。だが器用が母に瓜二つ。それだけで里の人間から疎んじられる。だから、母が嫌いだった。
末妹の万葉は器用は良いが、気だてが母のそれだった。だが三葉や百世と違い、とても要領が良かった。母のご機嫌取りはお手のもの。島じゅうで子どもらしい愛嬌をふりまいて、かならず貝や魚をもらって帰ってくる。母も姉たちも、誰も彼女を疎んじない。
だからチセは、てっきり家族が好きなのだと思っていた。だが彼女は母だけでなく家を、島を、海のすべてを疎ましく思っていたのだった。
チセが水汲みから帰った、夕刻。
(里長。いや父、父上? 違うな。なんて呼んだらいいんだ)
派手な衣裳をまとった男が数人の従者をひきつれ門をくぐった。それが父だと理解はしたが、声のかけ方がわからない。
つま先を前後にいったりきたりさせていると、先を越された。
「お父様〜!」
妹の万葉だ。
腰にピッタリとしがみつく一〇歳の幼子に、毛量の多い父の顔がゆるむ。
「万葉ではないか……! ますます美しくなって」
チセは遠目に感心した。
お父さまと呼ぶと、父は喜ぶのか。
チセも呼んでみた。
「お父様」
それはそれは荘厳たる声色であった。
従者から出迎えに現れた母まで、一斉にチセを見た。
チセは首を傾げた。
万葉をならったのに、父は顔を歪めている。
なぜだ。
「なんてことだ。この家には奴婢がいたのか」
それは哀憐の眼差しだった。
巳の国には今も昔も奴婢はいない。
理由は、ひとつ。
そう遠くない昔に、東の豪族が海人族の海の知恵を盗もうと、巳の国の女子どもを拐い、奴婢にした。その子孫は今も東でひどい扱いを受けているという。
ゆえに巳の国では、同じ人間を奴婢として扱うものを許さなかった。
そして母は前王の娘でありながら、その過去の歩みを知らない。
薄っぺらい笑みを浮かべ、胸を張って言った。
「はい。火焚きや水汲みをやらせております」
「水汲み、だと」
チセが両手に抱える、水甕を見て言う。
「こんな夜更けに、かわいそうに。それに顔がぼこぼこだ。これは、殴ってできた傷だ」
「昨日、それが水汲みを忘れたんでね。ちょっとした仕置きですよ」
「仕置きだと……!」
母を責めようと前に出たが、腰に巻きつく万葉が邪魔をした。
「お母さまは悪くないわ。悪いのは、水汲みを忘れた姉様よ」
父はめまいがした。
齢一〇歳の実の娘が、同じ人間を差別の目でみている。
「待て。今、姉様と言ったか」
「ええ。チセ姉様よ。お父さまったら、男子だと思った?」
「いや──、あ、ああ」
「やだぁ、ふふふ」
万葉の戯けた様子に調子が狂う。
ザンバラに肩までのびた髪。つるんと凹凸のないからだ。たしかに男子と思いこんでいたが、それ以前に身内であったとは。改めてチセを見やると、なるほど少々贅沢なほどの着物を身にまとっている。
他人と身内では話しが違う。
父は母に問うた。
「我々の子で違いないか」
母は、万葉を見た。
今宵のような張りつめた空気の場はいつだって、幼い彼女がおさめてきたからだ。万葉から送られてきた目くばせの意味を、しっかりと受け取った。
「は、はい! 七女のチセでございます。我々の子だというのに無能で尾ひれが生えないため、今の今まで隠し育てて参りました」
「尾ひれが? 泳げぬのか」
「はい。そのうえ、見るに堪えない醜女にございます」
「無能なうえに、醜女か……。なら、最初にそう言え」
父は静かに怒りをしずめた。
しつけのための仕置きならば、自分だって厳しくしている。なんなら息子の骨の一本や二本折ったことだってある。それに血を分けた我が子が泳げぬうえに、見ていられぬほどの醜さならば、殴りたくもなるだろう。
「だが差別はよくない。いいね、万葉」
「わかったわ、お父さま。どんな醜女であろうと、姉様は、姉様よね」
「そうだ。チセとやら、おいで」
父は娘たちに王の寛大さをみせるため、チセに手を差し出した。
万葉が悲鳴をあげる。
「お父様! 汚いわ! 姉様に触らないで」
「万葉、なぜそのような悲しいことを言う」
「なぜって、姉様ったら野壺に落ちたからよ」
「野壺に!?」
落ちたのではなく、落とされたのだが。
「安心して? ごはんのときは席を外してもらうから。ねぇ、姉様?」
万葉がほくそ笑む。
言われなくともそうするつもりだ。そもそもチセは囲炉裏のある広間に上がった記憶がひとつもない。とりあえず水甕をかまどへ運んでおこうと歩を進めるが。
「あっ、はっ、はっ! 野壺に落ちてよく無事であったな!」
父はそばに立つ従者へ、チセの手のなかの水甕を奪わせた。
「いやぁ私もちいさいころ、落ちたことがあってね。家族総出で隅々まで洗ってもらったのを覚えている。そばに寄っても臭わないんだ、お前もそうだったのだろ?」
チセは笑ってみた。
釣り糸で引っ張ったような愛想笑いだ。
「ちゃんと家族に愛されているではないか。真新しい着物にも、合点がいった。仕置きがキツすぎたことを後悔して、いいものを選んだな? ん?」
相槌を求められた母はキツツキのように激しく首を縦にふった。
「さあ飯にしよう。今夜の主役はお前だ!」
自身の寛大さに酔いしれながら邸へ上がっていく。その父の背中を追う万葉は、悔しそうに歯噛みしていたが。
チセは知っている。
父が早々に手を引っこめていたことを。
なにをしても手につかず、やりきれない気持ちです。
この場を借りて、ご冥福をお祈りします。