二
遅くなって申し訳ないです。汚い内容があったので、これとこの次は深夜に投稿し直しました。ご了承ください。
南にある集落のなかでも、高台に建つチセの家は巳の国でいちばんおおきく立派なお邸だ。母が婚姻の際にたいそう無理を言って建てさせた。高床式の王の住居の倍の敷地を使い、木板を敷きつめた床をつくらせ、囲炉裏のほかにも裏手にかまどを備えつけた。かまどには供物から下げられたたまごが置かれている。腐る前に土に埋めるのはチセのしごとだった。
家族と鉢合わせにならないよう、かまどへ直進するつもりだったのだが。
藁葺きの門をくぐってすぐ、母が戸口から出てきた。出迎えではない。うでをふりかざし、向かってきたかと思えば次には水甕で頭を殴られ、からだがふっとんでいた。
砂地にハタハタと血がとぶ。
「この醜女っ、水汲みはどうした!」
チセは目をまわしながら淡々と思った。
(そうだった。こんなかんじだった)
巫女生活で、すっかり忘れていた。
からだを起こそうと地に両手をついて、思い出す。頭をあげたら、また殴られる。
「────っ!」
ぶちぶちぶち。
いやな音が頭のなかに響く。
そうだ、また忘れていた。頭を下げたままだと髪を引きちぎられ、無理矢理顔を上げさせられるのだった。
母はチセの顔を、細い目をさらに糸のようにして、マジマジと見つめた。
「目が腫れていない……、アザもたんこぶも、消えている。やはり、あの沼の噂はほんとうだったんだね?」
チセは必死で過去を思い返した。
王である父の第二婦人が日焼けもそばかすもなく、色白で美しい。その理由を聞けば、沼の水で顔を洗っているだけだと言う。それなら水を汲んでこいとおつかいに出されたのが、死に戻った日であった。
(そうだ……! しまった、占いに使ったあの水甕はわたしのもちものだった。あれに沼の水を汲んで帰らねばならなかったのだ)
だがしかし水甕は無惨にばらけ、今も草地に散らばっている。
母は、糸にしていた目をかっぴらいて言った。
「醜女ぇ、母さまのぶんはどうしたよ。まさか自分だけ、治して帰ってきたってわけかい……、ぇえ!? 母さまの顔はっ、肌を白くしたところで、もとがわるいからっ、意味がないって!」
そんなことない。母さまは美人だ。
ひと言もつむげぬままチセは顔を殴られ続け、昏睡した。それでも母の気は治まらない。ぼろ切れのようになったチセを、ずるずると稲畑まで引きずった。
稲畑には野壺がある。
人ふたりぶんはある、素焼きの壺だ。男はみなそこで排泄し、それを肥料に米をつくる。
「この役立たず。女になる前に死に腐れ」
いわゆる肥溜めだ。
チセは気を失ったまま、顔から沈められたのだった。
顔の痛みで目を覚ますと、家の西側にある鶏小屋の藁のなかで、大の字になって眠っていた。
「いつつっ、あれ?」
頬とくちびるが腫れあがり、じくじくと痛む。
だが、それだけだ。
からだじゅう糞まみれにして這い出なければと思っていたのだが。
「くん、くん。臭くくない……、むしろ、いいにおい……」
「汝、念入りに洗ってもらったからな」
白蛇が藁から顔をだす。
「あらう、だれが?」
巳の神は二股に裂けた舌をチロチロと遊ばせながら、話した。
「助けようとしたところで、この依代では髪の毛一本すらつかめん。どうしたものかと見守っていると、とつぜん男が現れ、救ってくれた」
「男とは」
「言えぬ。男との約束ゆえ」
巳の神は男とひと言で済ますが、今チセの羽織っている着物は真新しい。目立った柄や刺繍はないが、真っ白で継ぎはぎがひとつもない。その肌ざわりと着心地は、価値ある人間へ丁寧に織られたものだ。それほどの着物にはじめて袖を通したのは、巫女になってから。
タオの顔が浮かび、思いきり頭を振った。
「いつつ……、この顔の傷だ。その男も、わたしが誰かわかって助けたわけではないだろう。奇特な方だ。礼を言いたい」
「その必要はない。男は朝のお火焚きを終えると、すぐに帰った」
「お火焚き!」
そんなしきたりがあったと、思い出した。
毎朝、集落ごとに火をおこすその役目はチセが六つの頃から担っており、寝坊したり忘れると殴られた。
「そこまでやってくれるとは……、お会いしたかった。残念だ」
ひと息つくと、ひどく腹が減っていることに気づいた。
「なにか食べたい」
「そりゃあそうだろう、汝の腑は空っぽも同然。たまごなら、たくさんあるぞ」
嬉しそうに言うが、チセは眉をひそめた。
海神の信仰の深い巳の国では、鶏はもっとも親しみ深い生き物だ。鶏が寿命や事故で死ねばその亡骸の供養に肉を食すが、たまごはちがう。供物にしたあとは親鶏へ返し、そのなかでも魂が入らず孵らないたまごは、土に還す。
むかし、たまごを煮て食べていた男がその因果応報に、湯を溶かした大釜に落ちてしまったといわれている。チセだって、ゆでダコになるのはいやだ。
「たまごを食べたらバチが当たるってやつを気にしているのか? あれは、でまかせだ」
「でまかせ?」
「たまごには滋養があるし、なにより捨てるところがない。食べられない殻にも、傷をはやく治す効果があるんだぞ。それに安心しろ、孵らないたまごを、すでに煮たものがここにある」
「はあ」
籠いっぱいに積まれたたまごを見て、チセは考えることをやめた。巳の神の御言であるし、なんでもいいから今すぐに腹を満たしたい。
「里のたまご、なかなかうまいぞ?」
巳の神はひとつに牙を立て引き寄せると、おおきな口をあけて丸のみした。
「殻ごと?」
「汝、むくべし」
人間が食べるときはむくのか。
「丁寧にむくんだぞ。薄皮がとれたら、そのまま顔に貼るんだ」
「顔に?」
「腫れがひく」
言われたとおりに慎重に殻をむいていく。熱をおびたところに薄皮をはると、ひんやりとして存外、気持ちがいい。
肝心のたまごの味は。
「……うんまい! 蛇はいつも、こんなに美味いものを食べているのか!」
チセは口の端を裂いて、感嘆と言葉にした。
黄身はもさもさとして口のなかにまとわりつくが、腹にたまりそうだ。白身はつるん、として歯触りがよい。なにより、絶妙な塩味がたまらない。
「この味つけも、助けてくれた男が?」
「ああ。たまごを煮たあと、塩水につけていたぞ」
「そうか」 歯にこびりついた黄身の後味を楽しみながら、もうひとつむく。
「うんまいな……」
食すたびに塩味がからだにしみわたるようだ。酒で流しこめたらもっと美味いだろうに。
「うんまい……」
しみじみと、名も顔も知らぬ恩人へ想いを馳せた。