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 チセは神の器である自身の御魂に、巳の神をおろしたまま絶命した。その死は神の罪になるのか、神をも根の国に送られるのか、知らない。

 灯火がまもなく消えようとするなかで、チセはただ申し訳なく膝を揃え、頭を下げた。天地の境目がわからなくなり、いよいよかと思うところ。


 目覚めは忙しなかった。

 胸苦しさに焦りを感じ、まぶたを開けば下草にからだをうつ伏せ、水を吐き出していた。吐ききったあとに喉の奥から酒の残り香がして、今際の際を思い出す。


(たしかに死んだはずだ。ではここは根の国……? いや、しっかりと生を感じる)


 砂利に手のひらが痛み、草の葉が肌をくすぐる。空気はじんめりと生温い。


 髪から滴る水を吸う。塩水ではない、淡水だ。それからよく知る味。神殿で飲んでいた湧き水とわかる。海は近くないようだ。

 顔をあげ、あたりを見渡す。目の前には泳げるほどのおおきな沼がひろがり、そのまわりには隙間なく木々が生い茂っている。途方もなく広く、気味が悪いほど穏やかだ。ちいさいころに、ひとりで訪れたことがあるような気がするが。

 チセは手入れされていない雑草をかき分けると、沼の水面を鏡にして覗きこんだ。


「は?」


 若い。

 初潮も迎えていない、おぼこい娘がそこにいる。だが自分には違いなかった。こんなギョロ目、ほかにいない。おおきな口に、くっきりとした二皮のまぶた。どこにいても目につき、いいかげん目障りだと、母によく言われていた。


(それに額に火傷のあとがない。からだが、若返ったのか……? 巳の神、巳の神よ。どこだ)


 説明を乞おうと問いかけるが、からだのなかに気配を感じられない。そうか、神は死から逃げ馳せたかと、チセはすこしホッとしたのだが。


「我、ここなり」


 首筋にゾワゾワとミミズの這う感触が走り、身を縮めると、左耳から声がした。

 ミミズではなく、蛇だ。

 チセの肩幅もない、真っ白でヒョロっこい蛇。


「巳の神か。ずいぶんと小ぶりになったな。その姿は、死の影響か」

「そうだ。汝もな」

「わたしも? やはり、わたしは若返っているのか」

「若返りではない。死したからだを捨て、魂を過去へ戻したのだ」

「ふむ、過去か」


 肌に貼りつく着物は忘れもしない、七つのころからつぎはぎ着古したものだ。


「死から逃れるためには、汝が巫女修行をはじめる以前に戻らねばならなかった。我と汝、からだを分かつためにはさらに、巡り合うまえに」

「出会う前。ならば、わたしは十二、三だな」


 女子のころ。芥の子として幽閉された塔のなかで、細く流れる湧き水を土器に溜めこみ、ちょうど今のように水面に姿を映すと、巳の神と目が合った。見えないふりをしたのに、ねちっこく言い寄られたのを憶えている。

 巫女として塔を出されたのは、それからすぐのことだ。縄ハシゴを流麗に伝い降りてきたタオを思い出し、同時に吐き気をもよおした。


「うえぇっ、がはっ、ごふ」


 巳の神が慰めるように背中を這う。


「同じからだとはいえ、魂が馴染むまで時間がかかる。横になっていろ」

「わかった」


 その場で足を投げだし、仰向けに寝そべる。

 空には変わらず、高天が原が浮いていた。

 黄色味がかったその雲が、涙で滲んでいく。


 思わぬ形で巳の神に助けられたが、心はぐちゃぐちゃだった。


 なにもできなかった。

 あやしむこともしなかった。

 祝われることに喜び、愛を囁かれることに浮かれて、海が血濡れるまで微塵も気づかず。

 稀代と謳われた巫女ともあろうものが、

 

 海の芥に島を滅ぼされるとは。


「ふっ、……ぅう、ん、く……、ぁああ……!」


 チセは、感情を洗い流すように慟哭した。

 わき上がる涙が、ひどく熱い。


 まぶた裏に浮かぶはタオの恨めしい顔。


 どうせなら記憶を消してくれたらよかったのにと、巳の神を責める自身に悔い入り、また泣いた。





 泣きつかれ、火が消えたように眠りこんだチセが、ふたたびまぶたを開けたのは翌の昼下がりのことだ。

 

「ふふ、ひどい顔だ。オコゼというよりフグだな」


 水面に映るあどけない顔がむくんで腫れている。だが心は穏やかになっていた。


「みんな、生きている。やり直せるんだ」


 チセは頬を火照らせ、総身を震わせた。武者震いだ。


 巫女の記憶をそのままに、人生を七年やり直せる。ならば海の芥に滅ぼされるより先に滅ぼすまで。駆除ではない。根絶やしにしてやる。


 芥の子などという、存在し得ない忌み子の名は忘れ去られてしまうほどに。


「そうだ、その調子だ。もう二度と阿曇の血を絶やしてなるものか」

「巳の神」


 膝に頭を預け決意を述べる、その動きは存外に可愛らしい。


「我と汝に次はない。ここは慎重に旅立ちを占いたい」

「そうだな。ならば唄を詠おう」


 呪いには詞がいる。

 海に住まう海神の子孫が陸で呪うためには、巫女に詞を詠ませなければならない。

 だがチセには、詞を憶えるための頭が足りなかった。

 発する詞の羅列、一言一句の意味ひとつもわからない。巳の神は根気よく文字にしたが、読み書きにひと月。詞を憶えるまでに一年かかった。詞は憶えたが、意味が理解できない。願う意味がわからなければ、恵みなど到底授けられない。

 そこで巳の神は詞を唄にした。

 物語にして、情をもたせた。海の叡智を知り、唄を覚えきるまでに三年は費やしただろうか。


 長かったものだと、今はなき過去へ思いを馳せ、巳の神はうなずいた。


「頼もう」

「では、いくぞ」


 チセは足もとに置かれていた水甕に沼の水を汲むと、水面が落ち着くのを待って、唄を詠った。

 清流のような水々しいうた声で、精霊に語りかけるように。

 チセの唄が吹きこまれた水面は起こり得ない波紋をひろげた。枝わかれした樹木のような波紋だ。波紋は巳の国を描き、やがて一本の枝を残して消えた。


「この枝の示す方角は──、南の集落だな。住まいへ帰ればよいのか。わっ」


 チセが水面に触れた瞬間、花弁をひろげるように水甕に亀裂が入り、ハラハラと壊れた。濡れた着物の裾をしぼる。


「なんだ? ほかの進路を選べば死ぬとでもいうのか」

「そのようだな」


 ただの瓦れきになった水甕をみつめる巳の神のからだが紅い。


「待て。その傷はなんだ」


 白い鱗を囲うように紅い血の模様が、尾の端っこに浮きあがっている。


「さっきまではなかったぞ」

「ああ、それは力を使うとあらわれる死に痣だ」

「死に痣だと?」

「汝の未来を少し占っただけで、この有り様。どうやらこの依代は、呪いに耐えきれぬようだな」

「そうか。そのからだは依代であったか」


 死に痣は全身に行き渡れば絶命する。


「この浮きかただと、もってあと六回だぞ」

「ああ。それでもこの辺りでいちばん霊力の強い生物に憑依したのだがな。長くはもたない。新たな依代を探さねば」

「……そうか。なにゆえわたしにおりないのかと思っていたのだが。入れないのだな」


 チセは、グンと気落ちした。

 神を死に巻きこんだのだ、とうぜんの代償といえるだろう。


「わたしはもう、巳の神の器になれないのか……」

「まあそんなに落ちこむな。こうしてそばには居てやれるのだから。……いや、居ろよ? 新たな依代は、汝にみつけてもらわねば。これは命令だ」


 物言いは厳しいが、尻尾が焦燥と揺れた。追い目から巳の神と離れようとするチセを、先読みしたのだ。


「ふふ、わかったよ」


 そんな巳の神の思いを汲みとって、チセは笑った。


「……かわいい。いや、そんなことよりすぐに山を降りるぞ」

「すぐに? そもそもここはどこだ」

「北山にある蛇沼だ」


 湧き水のわく蛇沼は北山の頂上、神殿と集落のある南から差し向かいに位置する。女子の足では四半日かかる距離だ。


「早くしろ。腹が減った」

「なるほど。腹か」


 巳の神の好物はたまごだ。

 巳の国には海神を祀る何百年も前から鶏小屋がある。山をくだれば容易に手に入るだろう。

 

 チセは空を見上げた。

 明るいが、高天が原に日が隠れている。あとすこしすれば夕暮れだ。

 

「たしかにこのからだでは、夜になるな。急ごう」

「我、腹ぺこだ」

「安心しろ。たまごならば家に捨てるほどある」


 されど沼から手ぶらで帰ったチセに、実家の敷居は高かった。

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