三
「着いたぞ。今日は一段と明るく見えるな」
黒い海に浮かぶかがり火が国の形を表し、夜の浜辺を色鮮やかに照らしている。平和を象徴するようなその明るみのなかへ戻ってきたチセたちは、砂浜へ足をつけることができなかった。
「な、んだ……? なにがあった」
血をふくんだ波が、砂浜へ赤潮のような模様をつけていた。
浜辺は半身を啖われ、息絶える女たちで散らかり、足の踏み場がない。
ほかの島民たちは腑を抜かれ、凪いた水面のうえで波紋を描いていた。潮が満ちる前の宴の御座で、百名の衛兵が島民を護るように弧をつくっていたのだ。そのなかで花道を作っていた侍女百名の遺体が。さらに内側には女子どもを庇う男衆の輪。幼子たちは弧の中心点で、母の腕のなかで天を仰ぎこと切れていた。
海へも戻れず着地にとまどう虹蛇から、チセひとり砂浜へと飛び降りたが。
「タガメが、いない──」
欲に満たされたのだ。島民をひとり残らず啖い去ったことを意味していた。頭に浮かんだのは、タオの顔。
「タオ! タオは……!」
「あなた様のタオは、ここです」
振り返れば神殿を背にして、タオがいた。美しい立ち居振る舞いで、花婿衣裳に泥ひとつつけずに。
「タオ……! みなはどうした! わたしの留守の間、なにがあった!」
「留守?」
タオは弱々しく笑い声をあげた。
「島民たちは芥に啖われました。巳の国は、滅んだのです」
それからチセを見据える目に怒りを激らせ、憎悪で歪めた。
「まさか、巳の神が芥を生む厄神だったとは。そして巳の神をおろす災厄、豊巫女。いや芥の子よ──」
チセを扇で差す。
なんの余興だと笑い飛ばしたかったが、息をするたびに腑の臭いが鼻をつき、背を預ける海には遺体が浮いていた。
「芥の子? わたしがタガメを引き寄せ、島民を殺したとでも」
「ええ。この目でしっかりと見ておりました。あなた様が海へ入ってすぐに、タガメが現れた。そしてタガメはあなた様──芥の子にはひと触れもせずに、島の人々を次々と啖っていったのです。なかには、乳飲み子まで……!」
チセは言葉を返さず、腕のなかの瓶子を強く握った。
タオに留守を任せたのは自分だ。
呑気に酒を取りに行って帰ってくるあいだに島を滅ぼされては、なにも言えない。
「今まで芥を思いのままにあやつり、名声を得ていたのだ。ひどい裏切りだ。かがり火は祓い火などではなかった……、芥を引き寄せる鬼火だったのだ!」
自分のおこす火はどんな呪物も焼けば清められる、正真正銘の祓い火だ。芥を引き寄せる火など、聞いたことがない。
そもそも芥の子は存在しない。阿曇氏族に忌み子などいない。海人族が創り出したおとぎ話だと、巳の神からは教わっている。
チセはおろしたままの巳の神へ訊ねた。
(巳の神よ。おのれは厄神で、わたしは芥の子なのか)
(おい、失礼にもほどがあるぞ。今まで厄災から島を護っていたのはどこの神と、だれだ。我と汝ではないのか)
上からものを言うが、蛇の目は悲しみに潤んでいる。神域が穢され、子孫が滅んだのだ。護るべき子孫を。尾は悔いで震えていた。
蛇の涙をひと粒こぼし、言う。
(厄災を放って置いてきたのもまた、我々だ)
罰を受けなければ。
チセはなにを思ったか瓶子の栓を開けると、直に口をつけ、見せびらかすように酒を煽った。
むせかえるような遺体と潮の臭いで、味などわからない。
ただ後悔を舌に刻みこむように、飲み干した。
タオは乾いた笑い声を上げた。
「なんの真似だ」
「肥の国へ行っていた証拠だ。肥の国の王からいただいた祝い酒だよ」
「今宵は宴。肥の国の瓶子など、島じゅうごろごろと転がっている! それともなにか? 島が滅んだ祝いの酒だとでも言うのか!」
タオは腰の刀剣に手をかけた。天つ神から受け継いだ神剣だ。
チセは目を伏せた。途方もなく、胸が苦しくて。
「わたしの言葉を……信じないのだな……」
タオ。お前はいったい何を見ていた。
ほんとうのわたしを。
作面のなかの素顔すら知らないくせに。
「信じておりました。この目で国の滅亡を見るまでは」
タオは弱々しくも刀剣を抜くと、その先尖をチセへ向けた。
丸腰のチセは殺意を握り歩み寄るタオを受け入れるしかなかった。
ただ何もせず突っ立っていたわけではない。
タオに聞こえぬ声で呪いを詠った。
死なば諸共。
道連れの唄だ。
審神者のタオが自身の手を汚し、わたしをほんとうに、殺すのならば──。
「ぁあああああ…………っ! 愛していたのに!」
鈍い痛みが下腹部にひろがり、砂浜へ静かに横たえる。
すると、死角になっていたタオの背後に白い花嫁衣裳がみえた。万葉だ。
左手にはこの世にひとつしかないはずの、蛇の紋様の入った布作面が握られていた。