二〇
鶏鳴の刻。
気を失ったように眠った巳の神を懐へおさめ、チセはお火焚き場のある浜辺へやってきた。その日その刻、潮がひいた海の中道はその名のとおり、道のように真っ直ぐに細い砂浜が現れている。空はくすんだもやのような薄雲に覆われ、海との境目がわからないほど辺りは暗闇に包まれていた。
「おはよう、チセ。灯りひとつもたずに、よく来れるな」
火を灯した土器をもって、三葉が眠そうにチセと向かい合う。そのとなりにイサがあくびをしながら足並みを揃えた。
「なんだイサ。お前も呼ばれていたのか」
「チセが、俺に大役を仰せつかわせるって言うもんでさ。クジラに起こされるまで寝てたけどな」
両手を天にあげ、からだをのばしながら足もとに広がる網を蹴った。
「やはり朝までかかったか。クジラには悪いことをしたな」
「そうか? 最高の求婚にするって、息巻いていたぞ。あの様子じゃ島民全員を起こしかねない」
「それは好都合だ」
海の中道をまっすぐに行くと、綺麗に広げられた網をまたいでチセは本土側の海へと迷いなく入った。夏はすぐそこだというのに水はまだ冷たい。お火焚き場から少し離れたかがり火の下で歩みをとめると、その火をもっていた大皿の土器に薪ごとごっそり移した。
「それ、どうする気だ」
「これは三葉姉様がもっていてくれ」
「わかった」
水が入らないよう丁寧に土器を受け渡すと、あご先まで身を沈めた。
「チセ、そんなに浸かったら尾ひれが! ……あれ? 光らない」
「腰を黒い古衣で覆っているんだ。水面に鱗がでなければ、光は広がらない」
なるべく目立たず日々を過ごしたいチセにとって、虹色に光る鱗は正直、困りものだ。布を巻く処世術はすぐに思いついた。その下にはたまごをたんまりと入れた籠が結ばれている。
「へぇ、うまいこと考えたな」
感心するふたりの手をひき同じように身を沈めさせると、白く明るくなり始めた雲を仰いだ。
「そろそろお火焚き娘が来る。ふたりの役割を今から話すぞ」
灯りの消えた焚き火台の下。三人の小声は潮の音に溶けていった。
耳に障る金切り声はお火焚き場からあがった。
「はぁ!? ぜんっぜんつかないじゃない! こんなの、ぜったいに女のしごとじゃないわよっ」
ビクゥ! チセの懐がはねる。
声の主は万葉だ。彼女の激しい剣幕に怖がって、ちいさなお火焚き娘たちはそれぞれの集落へと散っていってしまった。
「ちょっとあんたたちっ! なによ、火をつけてから帰りなさいよ!」
ひとりにされ、尚も悪態を吐く。懐のなかの巳の神は悪い夢にでもうなされているのかと思った。
「朝か。あのものは火をつけたか」
「これからだ」
しかたなく万葉はお火焚き場に顔を埋めている。だが待てど暮らせど一向に火のつく気配がない。ついには火おこしの棒を放り落として立ち上がった。
「やめたやめた! お父さまのところから火をもらってこよーっと」
「ほう。やはり難しいですか」
万葉へ語りかけたのは、小綺麗な身なりの男だ。
海のなかから覗き見ていたチセは、タオに似た衣裳とその佇まいにドキリとした。
だが男は別人だ。暗闇のなかでもすぐにわかった。
タオに似ているようでまったく似ていない。どこかで会ったことがあるような、ないような、そんな顔立ちをしている。
「いつもそうして、ほかの集落から火を? あまり褒められたものではありませんね」
「ち、ちがうわよ。いつもは……、ちゃんとやってる。今日は、調子が悪いだけよ!」
「でしたら、よいのですが」
「気が散る。あっちいって」
万葉は男が背を向け歩き出すのを確認すると、渋々火おこしの棒を拾いあげ、ふたたびまわしはじめた。
「まったく! どうしてわたしが、こんなことっ」
力まかせにまわすだけでは煙もでないし、やわらかな手のひらにタコをつくってしまう。チセは見ていられず腰をあげようとしたが、
「いだっ」
巳の神が鎖骨を噛んで引き止めた。
三葉もまたチセの肩をおさえながら、信じられないといった様子で言う。
「わかっていると思うが、行くなよ」
「でもお火焚き場には弓があるんだ。弓があれば、もっと簡単に火をつけられる。日が昇る前に教えるだけでも」
「弓だって? お火焚きは経験を積んで憶えるものだし、チセは万葉のおこした火が見たいんだろ? 手伝ってどうする」
イサも呆れて溜め息をついた。
「それに、チセがのこのこと出ていって教えたところで、万葉が素直に聞き入れると思わないけどな」
「ぐぅ」
弓をもって話しかける自身を思い浮かべる。挨拶すら叶わず、取っ組み合いになるかもしれない。
「ほら。うちらが話してる間に、ついたみたいだぞ」
「ほんとだ……!」
細くたなびく煙を前に、飛び上がって喜ぶ女子の影がみえる。それから万葉は夢中で藁や小枝を継ぎ足し火を大きくすると、満足げに家へと戻っていった。
「よし。では予定どおり、私は万葉の火をこの火と入れ替えてもってくればいいんだな?」
「うん。三葉姉様、お願い」
火が消えぬよう、土器を頭で支えて慎重に海からあがる。
チセはいたたまれない気持ちで三葉を待った。お火焚き場では、万葉が焚いた東以外の三箇所に、チセの焚いたかがり火の火が移されていく。そして万葉の火を灰ひとつ残さずに土器へ入れると、三葉は東のお火焚き場にも、チセの火を入れた。
三葉が万葉の火をもって、またゆっくりとこちらへ戻ってくる。
土器からは墨を逆さにこぼしたような黒い煙がモクモクと立ち昇った。
「あれが、……万葉の、火」
万葉がひとりのちからで、手のひらを痛めながら、おこした火。
懐の巳の神は力なくぼそりと、つぶやいた。
「汝の考えが、正しかったことが証明されたな」
土器の大皿がチセの手に渡る。
たまらず涙がこぼれた。
かわいそうに。
三葉が戸惑い訊ねる。
「チセ、どうした」
「……海の芥だ」
「あくた? もしかして、お父様の言っていた芥の子って……万葉が?」
「芥の子など存在しない。海の芥は人の強い怨に集る。巳の神もずっとそう信じてた。でもこの火は明らかに、なにもないところから芥を生んでいる。そして」
チセは皿のなかに溜まった炭を指ですくうと、海へ落とした。つまんで散らしただけの炭が、黒いウジ虫となって水面に暴れ出す。
「火が、万葉のおこした火そのものが、海の芥を呼び寄せるんだ」
なぜ死に戻るまで気づかなかったのか。
黒いうじ虫はやがて海に沈むと、今度は波にのまれた人々の手足となって波を掻いた。
「ヒィ……!」
「姉様にも見えるんだな」
「ああ。万葉は一体、……なんなんだ?」
「わからない」
巳の神もチセの懐で蛇の首を振った。
「見た目ではまったくわからない。だが火をおこせば、まるで鬼火。人の遺した罪、未練そのもの。そしてその灯りは芥の目印となる。芥の子と呼ぶのならば、まさにあの子がそうだ」
「そうか……」
三葉は腫れたまぶたの奥で笑むチセを憐憫とみつめた。
聡い彼女は自身に湧く醜い心、チセを疎ましく思う気持ちが芥の影響だったことに気づいたのだ。
心のなかで深く謝罪する三葉のその一方で、チセは万葉を憐れんだ。
家に燻っていた囲炉裏の火。消し炭に灰。
そのすべては、万葉がはじめて火をおこしたときに残ったもの。
幼い女子が、ただ純粋に焚いただけの火。
その火に悪意はひと欠片もない。
ただ芥を生まれもってしまっただけなのだ。
そして万葉が海に入らない譯に、どこか救いを見出そうとしていた。
巳の神はチセの肩を尻尾で叩いた。
「はやく消せ」
「いいや。消さない」
「は?」
ない耳を疑う。そんな暇さえ与えずに、チセは土器の火を頭上の焚き火台に移し、残った消し炭や灰を辺り一帯にぶちまけた。