十九
みなが広間へ集まる夕ごはんの前に、クジラと話しをしたい。すぐに取り次いでもらいたくて、イサの住居へ直進した。
西陽の陰で、イサと妹であろう女子の声がする。
「今日は魚が多いと思ったが、いつもこれがふつうなんだな」
「そう。今日は一匹もやらないって、突っぱねてやったんだ。そしたら万葉が、王に間男のことを言いつけやるって、怖い顔して行っちゃって……、お母、大丈夫かな」
「万葉のやつ、そんなことを?」
そうか、イサは王と第二夫人の長男で、つまり万葉にゆすられていた女子はイサの妹なのだ。ようやく合点がいったチセは、茂みからひょっこり顔を出した。
「わっ! チセ! なんだよ……、今までどこにいたんだ? 巫女になるなら絶対にお前だろうから、天孫様に紹介しようと思ってたのに」
「頼むから、それだけは勘弁してくれ」
大声をあげるイサの口をふさぎ、妹へ目線をやる。
「いいか。君の母様のしていることは、褒められたことじゃない。それでも今の生活を護りたいのなら、わたしの言ったとおりにしろ」
妹はチセの登場に驚きつつも、藁にもすがる思いでうなずいた。
「それじゃあ今から、巫女になりたいという万葉の要望を、君から天孫へ伝えるんだ」
「あのいじわるな万葉を巫女様に……? どうして!」
「あの子の機嫌を取りもつためだ」
せめて明朝。万葉の焚いた火を実際にこの目で見るまでは。
「それに巫女修行が認められれば、その瞬間から男との交わりを禁じられ、王と言葉を交わす暇などなくなる」
「……そうなの?」
過去の自身の経験から、深くうなずく。
俗世を捨てるために男どころか家族、島民みんなから分け隔てられる。
「ついでに天孫を今夜の夕ごはんに誘え。もれなく王もついてくるだろう。そうすれば今夜だけでも万葉から引き離せられる。魚は余っているんだろ?」
「そうかぁっ、お父様に、家に泊まってもらえばいいのね……!」
足を迷わせる理由はない。妹は夕暮れて紅い道を蹴散らし、駆けていった。次はイサだ。ずっとふさいでいた口から手を離した。
「ぷはぁ、なにすんだよ……!」
「イサは今すぐクジラに取り次いでくれ」
「……は? クジラ……?」
真っ赤に染まっていた顔を額から青くする。
「お前、まさか。鍛えた男が好みだったのか……」
「なにを言っている、わたしは島を護りたいだけだ。ついでに姉様の縁結びをな」
「縁結び?」
「王と行き合うと面倒だ、すぐ行くぞ。イサも手伝え」
その夜。西の集落だけが異様に明るく賑やかになった。内輪だけに振る舞われる酒、笑みに東の人間が近づけぬほどに。
もちろん、その輪にチセはいない。
鶏小屋に戻ったチセはちいさな焚き火台をつくり、寝起きの巳の神に夕暮れどきのことをゆっくりと話した。
「巳の神が眠ったあと、一葉姉様と二葉姉様がやってきたんだ。籠の編み方を教わったんだけど、そのときにクジラの話しを聞いてな」
三人の仲を取りもちながら、祓い火の威力を試す方法を思いついたと言う。
「そんな暇はない。明朝は、汝の妹が焚いた火を見届けてすぐに、島を出るのだぞ」
「もちろん、全部する。万葉の火をこの目でみて、確かめて、旅にでる!」
さすがに詰めこみすぎではないだろうかと、訝しむ。
「汝の姉にだって、火の始末を命じなければならない」
「わかってるって」
三葉は自分よりずっと機転が利く。その脅威を直に触れさせるだけで、柔軟に対応してくれるだろうとチセは思う。
「それよりさぁ、クジラに姉様たちのことを語ったら、にやにやと顔をゆるませちゃって」
チセは、クジラに会って開口一番、明朝に一葉と二葉を浜辺に呼び出し、求婚してはどうかと提案した。
ズンと気落ちしていたクジラを励ますために、「クジラは網を編ませたら百人力だと、姉様たちはうっとりと話していた」「浜辺を包みこめるほどの大きな網を編んでみろ。狩りが好きな姉様たちは泣いて喜ぶぞ」などと、おおげさに盛って。
おかげでクジラは今このときも、飯を食うのを忘れて必死に網を編んでいる。
「島民にクジラの求婚を手伝ってほしいって、イサが言いふらしたらさ。面白半分なのか、どんどん人が集まってきて。お祭り騒ぎだ」
「その恋、決して叶わぬというのに、酷なことを」
「叶わない……?」
ふと振り返る。死に戻る前、一葉と二葉はどうしていただろうか。たしか、変わらず今の家で暮らしていた。クジラの家には嫁がず、婿もとらずに。
「巳の神」
「なんだ」
「姉様たちは、十世姉様の報復に母様を殺すのか」
「ああ、そうだ。内乱の際、母を討ち取ったのはあのふたりだ」
「たしか同族を殺めたら、婚姻できないのだったな」
「そうだ。あのふたりが望んだのさ、母のいない未来を。そして今世でも望んでいる」
チセは胸が痛むのを感じた。
それは母を殺される悲しみからなのか、姉たちへのやるせない想いなのか、わからない。
人生をやり直しても、わからないことだらけだ。
頭が働かないのは腹が減っているからかもしれない。チセはいつものように焚き火台に火を入れると、腰巾着から貝の皿とあさりを取り出した。
「ならば今世ではわたしが、決してふたりの手を汚させない」
それからクジラにもらった干し飯を、あさり出汁に浸す。
巳の神はゴクリとない唾を飲んだ。
「未来を変えるということは、予期せぬ未来を生むことにもなるぞ」
「婆婆様の死期をはやめたように、か」
手もとでは、ほどよく煮崩れたあさり粥にたまごが混ぜられていく。
巳の神は、重苦しい話しをしながらも美味そうなものを作るなよ、と思った。
「たとえふたりが心を入れ替えたとしても、汝の母はいつか誰かの手により、黄泉へ呼ばれる。すでにそれだけの業を抱えていることを忘れるな」
「……うん」
チセはうなずきながらも、夕食どきの広間を思い浮かべた。みんな揃って、笑い顔で囲炉裏を囲う。その願いは叶え難いものなのか。
家族を想いながら寝たはずのチセはひとり、夢のなかで空っぽの家のなかにいた。明るい日の射す戸口に、タオが立っている。
まるで「ここは君の居場所ではない。なにも護れなかったんだ」と、嘲笑うかのように。
チセはタオの腰帯にしがみつき、泣き叫んだ。
「タオ……、っわたしはやはり、あの日ひとりで死ぬべきだったのか」
現実でもほんとうに涙をこぼして、拳を強く握って。
その拳に銀色の髪が垂れる。
「いいや、君はやり直すべきだ。どんな災いがふりかかろうとも何度でも立ち上がり、芥を滅ぼすためにその身を賭せ」
男は厳しいことを言いながらも、自身の髪と交差させるようにチセの黒髪をひとすくいすると、唇を落とした。
「決して振り返るな。私が盾となるから」