十七
宴の中心にいたチセだったが、大人たちが酒に溺れはじめた夜更けには、イサと三葉を連れて海の中道を歩いた。
中道ならば前後左右に視界がひらけている。人影に気をつけていれば、誰かに盗み聞きされることもない。
ふたりを連れ出したのは、チセの提案だ。
巳の神の許しも得ている。
「婆婆様の穢れは祓ったが、からだは治せない。恐らくは、そうもたない」
「うん……」
イサは沈んだ返事を返した。
婆婆様から目を離した自身を責めているのだ。チセはイサへ慰めの言葉をかけなかった。未来を知るチセに過去を悔やむ時間はない。
「婆婆様が亡くなられたら、きっと島のかがり火が消えてしまう。いや、確実に消えるだろう」
チセは死に戻ってから幾度となく、海の芥が現れたあの日を思い返してきた。波間で交わされた会話ひとつひとつを、思い出しては砂に描いた。
島じゅうのかがり火が一斉に消えたことは周知のこと。くわえて波間で島民のひとりが話していた会話が気がかりだった。
かがり火が消えたのは、婆婆様が身罷られたからじゃねぇか、と。
あの日、婆婆様が亡くなった。
だからかがり火が消えたのだ。
「かがり火が消えれば、海の芥が島を襲う」
「芥……昨日お父様が話していた穢れのことか」
「そうだ。姉様だって、タガメが見えただろ?
海の芥はあの三倍はある」
「三倍!? んでも、ここ八〇年は現れていないって」
「婆婆様の火のおかげだ。わかるか。婆婆様が身罷られるその前に、かがり火を入れ替えなければ」
「芥が、島を襲う……?」
ふたりはとても信じられない様子で辺りを見まわした。海の中道は今日も穏やかに凪いている。
チセは着崩した襟もとをなおし、背筋をのばして言った。
「かがり火に私の火を入れたい。だがひとりでは到底間に合わない。お願いだ。ふたりに協力して欲しい」
その覇気に気押されたふたりは膝を落としそうになった。
次王となる矜恃からイサが足をふんばって言う。
「火を入れ替えるなら王の許可がいる」
「王へ伝えれば、おのずと島民に知れ渡る。それだけは避けたい」
「里の人間に、芥を呼ぶ者がいるってことか」
「わからない。でも、居ないとは限らない」
「そんな……、島の人間を疑うようなこと」
「残念だが、わたしが今信じられるのはイサと三葉姉様の、ふたりだけだ」
心を迷わせたイサはとなりの三葉と目を合わせた。
三葉はすでに、決意を固めた表情でイサをみつめていた。
「やろう、イサ。王の許可がなかったからって、かがり火が消えるのを指をくわえて見ているわけにはいかない」
「あ、ああ……、もう! わかった! そうだな。婆婆様の栄誉のためにも」
三人が交互にうなずき合う。
翌朝からチセの一日は極めて多忙となった。
朝とは言うが、空に光源のない鶏鳴の刻から一日がはじまる。
まずは里のお火焚き場すべてに火を入れ、その火をもとにかがり火を移し替えていく。ひと気のない北岸からはじめたが、長年埋まった種火を完全に取り除くには溜まった消し炭や灰をかき出さなくてはならず、思わぬところで手間を要した。それも巳の神が「灰は決して海に捨てるな」と言うのだから大変だ。海に樽を浮かべて灰をかき出す役目はもっぱら、イサが務めた。
「ふふっ、巳の国いちの男前が煤だらけになって」
「お!? からかう暇があったら、お前も海に入って手伝えや! 泳がんからって、浜辺のばっかりずるいぞ!」
「いいんだよ、チセは」
新しい薪を入れながら三葉が言う。
だが巳の国を囲うかがり火の半分は潮流の影響のない、少し離れた岩礁に立っている。ふたりに任せっきりでは効率が悪い。
チセは懐に訊ねた。
「巳の神、海に入ってもいいか」
「次代の王は信用に足る。よいが、日の出あとのこの刻だけにしておけよ」
「わーい! いいって!」
イサは、ためらいもなく岩から飛びこむチセに唖然とした。
「へ? ……え?」
海中に虹が映りこんだように七色の光がほとばしる。
三葉はイサに笑いかけた。
「きれいだろ」
「あ、ああ……」
「あー、でもだめだ。チセのやつ、また足だけバタつかせて」
「最近なのか」
「そっ。ほら、……あはは! チセ、火を庇おうとして尻だけ浮いてるぞ」
「えぇ!?」
チセが顔をあげると、つかんでいたたいまつの火が消えている。火をもらおうと二人に近づくと。
「どうした。イサ、顔が真っ赤だぞ」
「ほんとうだ。さてはチセに見惚れていたな?」
楽しそうに笑う三葉の目が半弧を描いている。
「いや、あの……」
「違うな。こいつ、三葉姉様に惚れてんだ」
「はぁ!?」
三葉はいつもそうするように眉間にシワを寄せた。母にそっくりな下品な顔立ちは、とても美しいとは言えない。
「冗談はよせ。怒るぞ」
「わたしもさ、殴られると思って今まで言えなかったけど。なあ?」
「うん……」
イサはうなずいた。三葉は笑顔美人だ。あまりの美しさに刻を忘れてしまうほど。残念ながら鏡のない巳の国で、本人が知る術はない。
イサは三葉をまっすぐに見据えて言った。
「いつも笑っているといい。三葉は笑うと、すごく綺麗だ」
くすぐったい空気が流れたのは束の間。次には、
「三葉も《・》俺の子を産め」
などと口走ったため、イサの頬に紅い紅葉が浮き、その日の朝は終わった。
北岸から遠い距離を徒歩で家に帰ったら、休む間もなく飯炊きだ。
父が毎日寝泊まりをするようになってからは、朝ごはんもしっかりと食べられるようになった。そのぶん、片づけや掃除を任される。それが終われば婆婆様の見舞いに、泳ぎの練習。あっという間に日が暮れて夕ごはんのあとは、こと切れたように眠る。
そんな忙しない日々が十日続いた朝。
海の中道に浮かぶかがり火が消えた。