十六
翌朝、唇の腫れが少しひいたチセは、三葉を誘って浜辺をでた。巳の神には「やめておけ、あの姉から受けた仕打ちを忘れたのか」と、とめられたが改めて礼をしたかったのだ。
たしかに過去ではひどい火傷を負わされたし、前髪を失った。だが穢れを祓った今では殴られもしないし、頭をなでてくれる。
愛され育っていないチセにとって頭をなでられることは、神も想像できないほどの幸福感をもたらしていた。
チセは高台をおりきったところで、三葉へ深々と頭を下げた。
「きのうは、庇ってくれてありがとう」
三葉は依然として、むっつりと言う。
「ちっとも言い返せないチセに腹が立っただけだ」
「でも、わたしほんとうに、お火焚きの刻にいなかったのに」
「海には、いただろ?」
三葉は海の中道よりずっと右手を差した。
「今朝、どこで泳いでいるのか気になって西岸まで探しに行ったんだ。そしたら、沖に見えた」
「わたしを、探しに……?」
「そのときに集落から悲鳴が聞こえた。急いで向かったら、婆婆様が倒れていたんだ。だから、お前じゃない。お前じゃないってわかっているのに犯人にされて、黙って見ていられなかっただけ。だから気にするなと言っている」
はっきりと言いきり、手を差したほうへと歩み進める。それから振り返ってニタリと笑った。
「しかし、まさかチセが虹色人魚だったとはな」
「え!?」
「安心しろ、黙っておいてやるから。その代わりつきあえ」
「つきあえって?」
「海だよ」
懐でイソラが「ほれみたことか」とうねり暴れる。脅され、一生鱗をむしり取られるのだと。
だが三葉のにたついた笑い顔は、やがて骨がとけたようにやわらかくなった。
「あーんな不細工な泳ぎかたじゃあ、様にならない。せっかくの虹色人魚が台無しだ。尾ひれの使いかたを、イチから叩きこんでやるよ!」
いつもへの字にしている口の端を猫のように愛くるしくあげて、細い目をくしゃくしゃにして笑う。
その顔立ちはまるで墨で描かれる天女のようだと、チセは思わず見惚れた。
見間違いだったのかもしれない。
海のなかの三葉は鬼のように恐ろしく厳しかった。
潜れば生まれたてのおたまじゃくしのようだと罵られ、進めばサンショウウオか、と言いたい放題。もはやたとえが魚ですらない。
だがいざ三葉の泳ぎを目の当たりにすると、いかに自分が付け焼き刃であったか思い知らされた。
日が傾きはじめてようやく明るくなる西岸に、人の声が増える。ふたりは入り組んだ岩礁の奥で泳いでいたが、みつからないうちにあがることにした。
颯爽と先を行く三葉はもってきていた網袋を貝でいっぱいにしている。
「姉様……、いつの間に採ってたんだ!」
「ふん。泡だらけで私の手もとが見えていなかっただけだろ」
「泡?」
「あんなに泡をたてて泳いだら、すぐに疲れるし前が見えないだろうが」
「でも、足を動かさないと前に進まないだろ」
「足じゃない。尾ひれだ。尾ひれだけ必死にばたつかせるから疲れるんだよ。泳ぐときは全身をつかうんだ」
などと話しながらふたりが向かう先は、婆婆様のお邸だ。食べきれないほど貝が採れたので、それを土産にして見舞いへ行くことになった。
婆婆様は、イサの家に寝かされていた。
家のなかで肩を落としたイサとすれ違ったが、三葉も居たからか「あとでな」と、短く声をかけられただけだった。
採ってきた貝を家人へ贈り、お目通しを願う。
「ぎゃっ」
部屋へ通されたチセは声をあげて驚いた。
婆婆様の頭のてっぺんからつま先まで、真っ黒なうじ虫に覆われて見えるのだ。
「こらチセ、婆婆様に失礼だろうが」
「だって」
「どなたかいらっしゃったのかい……? ぎゃっ」
婆婆様も悲鳴をあげた。
単純に、おうとつの多いチセの顔面に驚いた。
「昨日の今日で、一体どうしたらそんな顔になるんだ」
「婆婆様もな」
「ワシか? ……そうか。チセにはこれがみえるのか」
自分の頬からうじ虫を一匹抜いて見せる。
三葉には宙をつかんでいるようにしか見えない。
「婆婆様はなにを見せているんだ」
「海の芥だ」
「よく知っているねぇ。内に流しこまれ、溢れたぶんだけうじ虫になって出てきている。こうなっては、もう……」
力なく手をおろす。
チセは手から離れたうじ虫を足で踏みつぶすと、婆婆様のからだをはたき始めた。
「ちょっ、チセ!?」
「婆婆様、このままにしてたら、ほんとうに死んでしまう」
だがはらっても祓っても、毛穴を開いてわいてでてくる。婆婆様は「無駄じゃよ」と笑った。
「チセも笑うてくれ。巳の神様にご忠告されとったのに、のう」
「のう、じゃないだろ!」
住居に火は絶やさずとも、ハシゴをおりるときにはかならず離れる。そのわずかな一瞬を狙われたのだ。
三葉が言う。
「島民たちは罪人に、芥の子を探し始めてる。昨日だってうちに来たよ。腹の黒い子どもはいないかって」
「あら探しはせんように、言うとるんだがなぁ。血の気の多い男たちには、困ったもんだ」
チセは咄嗟にちいさな手で口まわりを覆った。
婆婆様の溜め息に腑の腐った匂いを感じたのだ。そんなチセに気づき、婆婆様は悲しそうな目をした。
「臭ったか。すまんな」
「謝るな。こんなのって、ないよ……」
すると、巳の神が懐でぼそりとつぶやいた。
「詠ってやれ」
「芥祓いの唄を? でも、また痣がひろがる」
「傷は治せんが、穢れは祓える。せめて綺麗なからだで逝かせてやりたい」
憐憫をふくんだ巳の神の声に、チセは考えさせられた。
巳の国では死人が出ると遺体を弔ったあと、海に還す。海鳥に食べられぬよう、籠舟に蓋をして流すのだ。だからこそ、綺麗なからだでという巳の神の言葉に、人間以上の人間臭さを感じ入った。
巳の神と婆婆様はむかし、今とはまったく異なる形で巡り合っているのかもしれない。双方にしかわからぬ物語がきっと。
チセは詠った。
巳の神の想いが婆婆様へ届くように。
婆婆様が巳の神の想いに応えてくれるように。
美しいうた声はやがて部屋を流れでて、外へ突き抜けていった。
外で貝を洗っていた孫娘が顔をあげる。
水汲みに行っていた子どもが。
漁から帰ってきた男が。
庇の下でうなだれていたイサが。
みんな空を仰いで、耳をすませた。
「……チセ?」
「なんて、きれいな声……」
「心が洗われるようだ」
その源へ吸い寄せられるようにして邸へ集まってきた島民たちは、部屋をのぞき見て愕然とした。
婆婆様のからだから、なにかよくないものが流れでている。
実際は、からだを這うばかりであったうじ虫が逃げるように肌から離れ、四方八方へ散っていた。婆婆様の肌からは、また新しいうじ虫が生まれ、離れては生まれてを繰り返す。
そのうち、ついには生まれなくなった。
逃げたうじ虫は、なぜか外へは出られない。ただ壁を伝いどこへ消えたかと言えば──。
「ウソだろ、おい……」
天を仰いだ三葉の瞳に、おおきな黒いかたまりが映った。逃げ場を失い団子になったのだ。かたまりは裾から一本、また一本と足をだした。赤子ほどのおおきさのタガメだ。その姿なりは三葉に、みんなの目にもしっかりと映った。
「ヒェエエ!」
元気な悲鳴をあげたのは婆婆様だ。
タガメは婆婆様の腹の上に、仰向けのまま落ちた。
「まずい。結界を破られる」
婆婆様が穢れが外に出ぬよう、はっていたであろう結界がタガメの鎌で破られ、外へ出る。
様子を伺っていたイサと男たちが一斉につかみかかるが。
「タガメだ! タガメが、逃げたぞ……!」
またうじ虫に戻りわずかな隙間をぬい、外へ出た。
チセが巳の神に問う。
「タガメに化けるほどの穢れ、唄では祓えんぞ」
襟を広げ見てみれば、蛇の死に痣が胸までのぼってきている。二度唄えばよくて相討ちだ。
「火は。汝の祓い火だ」
「昨日のままだが、ないよりはマシか」
チセは家の隅にあった松明を手にとると、囲炉裏の火を焚べた。
「……うん。間違いない。この家の火は、わたしがおこしたものだ」
だが、霊気が弱い。
婆婆様からあふれ出る穢れに当てられたのだろう。だからといって弓を持たない今、すぐに火をおこすことは難しい。なにか手立てはないか思い入る。
「神使のたまごが死に痣を消したように、火の力を強めるなにか──。神使の再生に似た力。ちから?」
閃いたチセは胸をふくらませつつも、不安げに巳の神を見下ろした。許しを得る時間はない。
「……一か八かだな」
チセは詠った。
火に語りかけるように、ふりかけるように。
巳の神は痣が広がる覚悟をして目を瞑ったが、すぐに開けた。
「痣がでない。ひふみ唄か……!」
ひふみ唄は、チセに文字の読み書きを覚えさせる際に、巳の神が聞かせた唄だ。いろはにほへとをばらばらに羅列させただけの唄で、過去には豊巫女から浸透し、海人族の子守唄にまでなった唄だ。はじまりの唄同様、巳の神の力を利用した呪いではないため、蛇のからだに影響はない。
ただ──。
「……その火は、なんだ」
巳の神はチセの懐で総身を震わせた。
となりに座る三葉もまた、膝を崩し上半身を仰け反らせた。
「火が。火が、虹色に光っている……!」
「うん、うまくいったみたいだ」
当の本人は、腰を手にあて威張ってみせた。
「ひと文字ずつに、わたしの霊気をこめてやったんだ。芥よ散れ。この世から消えてしまえ! ってな」
巳の神は力を抜いて笑った。
「なんだ、それ……、ははっ、は」
こどものままごとみたいだ。
だが、ひふみ唄は四十七音ひと文字ずつをならべた唄。そのすべてにチセの霊気をこめれば、とてつもない力となる。また一、二、三……と数霊としての規則性をもたせれば、一千倍、一万倍と加速的な広がりをみせるのだ。
チセは考え足らずだが、いざ熟考すればその発想は神をも上まわることがあった。
「チセ……! あぶない!」
高くはりあげたイサの声に驚き足を引っこめると、今ほどつま先があった床にタガメの爪が刺さった。
「やはり戻ってきたか。婆婆様のからだはタガメの宿りに変わりない。だがそんなちいさな足、ちっとも怖くもないね!」
と言いつつも、松明をイサに向けて投げた。
「なん!? なんだこれ!」
「それでタガメを焼き殺せ」
「はあ!?」
「次代の王となるのだろ。その決意、今こそ示せ」
拙いながらもその覇気ある命令に、イサは背筋がのびた。それに虹色の火を目の当たりにすると、勝機は手にあると阿曇の血が騒ぐ。イサは甲に青筋が立つほど松明の柄を強く握ると、タガメに照準を合わせた。
赤子のタガメは宿り以外興味がないようで、婆婆様目がけ、うじ虫へと分離をはじめた。
「させるかよ……!」
イサは松明の先端でタガメの背をぶち抜いた。
「バカイサ! それでは住居まで燃えてしまうではないか!」
「そんなこといったって……。でもほら、いいかんじだぞ!」
「ほんとうだ。火は穢れだけを、燃やしているのか」
捕食するように。虹色の火はタガメを飲みこみ、うじ虫一匹残らず焼き尽くした。
一瞬のことだ。
カラン、と音をたて虚しく松明の柄が転がる。
イサが手のひらであたりを拭うが、床には灰どころか焼けあとひとつついていない。
「き、消えた。一体、なんだったんだ。……そうだ、婆婆様は! あれ?」
イサが振り返ると、寝たきりだった婆婆様は腰をあげてチセの手を握り、涙を流して喜んだ。
「ありがとう。ありがとう……っ!」
「婆婆様、からだは治していないぞ。寝ていろ」
「冷たい子だね。唄はうまいけど」
からから笑う婆婆様につられて、集まってきた島のみんなも笑い合う。
その夜、巳の国の里では婆婆様を囲って、盛大な宴が催されたのだった。