一
桜始開の宵の口。
地層のように積まれた石垣の頂上、一千段の階段をのぼった島いちばんの高台に建つ神殿のなかを、着物の裾で弧を描きながら、チセは言った。
「なに? 海の中道で宴を行うというのか」
壮麗な出立ちで、豪奢な翡翠の首飾りを豊かな胸もとで揺らしながら。
七年前。芥の子としてすべての恨みを背負い北の塔に幽閉されたチセは、その後すぐに国の立てなおしにやってきた日向国の天孫に救い出された。チセに尾ひれが生えないのは海人族の忌み子、芥の子であるから──ではなく、その代償に海神の器、依代であることがわかったのだ。
チセは神をおろし、呪いを詠う。
呪いは厄災を退け、また厄災を起こすことができる。
そして呪いでチセの右に出るものはいない。
チセがおろす神は神でも海神の子孫を総べる、巳の神。精霊や土地神をおろす巫女は数知れず、巳の神ほどの大神をおろせる人間は、島が生まれてはじめてのことだった。
呼び名は豊巫女。
彼女がその名を与えられてからというもの、島へは一度も海の芥を寄せつけていない。豊巫女の焚く火は穢れを清める祓い火。島ひとつにとどまらず、祓い火をひろめるため龍頭本土を駆け巡った。それだけでなく陸へあがった芥の駆除に専念し、各地の巫女へ芥祓いの詞を文字にして伝えた。その名声は本土にとどまらず、龍の島の尾の先にまで知らしめるほど。豊巫女が即位し六年経った今、人々は芥の脅威を忘れつつあった。
だがチセは忘れたことがない。
七年前、海の中道を襲ったタガメの脅威を。奪われたたくさんの命を。
「遮るものがなにもない、恰好の的ではないか」
チセが話しかけたのは、審神者の中臣大和だ。
天つ神の血をひくタオはこの世のものではない美顔にしわひとつ浮かべず、淡々と語った。
「なにを仰いますか。今宵のために集められた、あなた様の盾となる侍女は百、衛兵もまた百。祝宴の準備はすでに整っております。主役の私たちがおりずに、はじめられません」
祝宴とはふたりの契りを祝う宴を差す。
今日、晴れてチセとタオは夫婦となった。
巫女と審神者がなにゆえかと疑えば、すべては神の思し召し。忘れもしない半月前の新月のことだ。チセは巳の神に告げられた、ありのままを口走っていた。
──汝、年の瀬に後継者を産め。父親は審神者、中臣大和に限る。
そのすべてを審神者のタオに聞き取られていた。
タオは、なぜかすぐに島民たちへ知らせた。徒歩で半日でまわりきれる島だ、昼には島じゅうがその話題でもちきりとなった。
待ちに待った今日には、朝から島じゅうでどんちゃん騒ぎ。どうしても主役を祝いたいと言うので夜にしてくれと頼んだら、神殿ではなく本土と巳の国をつなぐ浅瀬、海の中道で開くという。盾となる人間まで集めたと言われてはもう、ひくに引けない。
年がら年じゅう神殿にこもりきりのチセにとって、千段の階段をくだることはいささかどころか、バキバキに骨が折れるというのに。
「疲れるだろうなぁ、からだじゅう砂でザラザラになるし……、泥が衣についたら落ちないし」
チセが幼子のようにぶつぶつとひとりごちていると娘がひとり、当たり前のようにタオと肩を並べた。
「では代わりにわたくしがおりましょうか?」
妹の万葉だ。
「この度の御婚儀、つつしんでお祝い申し上げまする」
そう言いながらも背筋をまっすぐのばし、タオだけに笑みを送った。
タオの美顔は冷えきり、こわばっている。
「万葉どの。祝いの言葉は嬉しいですが、豊巫女様の妹君とはいえ、侍女の身分で殿内へ勝手に入られては困ります」
万葉はチセの衣食に携わる数多き侍女のひとりだ。
姉様は人見知りだからと身のまわりの世話を買って出たものの、手を汚す務めには一切関わらない。着物に趣味の悪い色を合わせたり、自分のほうが似合うからと集めた装飾品を持ち出したりと、邪魔ばかりをする。
今日に限っては浅葱色の侍女服を身にまとっていない。まるで自身が花嫁であるかのごとく、白妙を羽織り派手な化粧をほどこしていた。
美しきタオと覇気の強いチセを前にすると、まるでおままごとのように滑稽だ。だが本人は、まるで自分がこの世でいちばん美しいといった恍惚とした表情で、前に進み出た。
「失礼、姉様にお祝いの品をお届けにあがりましたの」
魚を一匹、チセの着物の裾へ目がけて落とす。
ちいさなオニオコゼだ。
「姉さまの醜いお顔に、そっくりでしょう?」
今日という日に洒落にならない。
タオは万葉をその場から追い出そうと肩をつかもうとしたが、チセはその手を扇で払ってとめさせた。
「ああ、そっくりだな」
心からそう思う。チセは布作面のなかで、皮肉な笑みを浮かべた。
生まれてからずっと醜女と言われ続け、また額に目を背けたくなるような火傷のあとをもつチセは、麻で編まれた作面で耳のうしろまで覆っていた。
作面には頬に重なる位置で海神と蛇の御神印が焼印されている。
巳の神に醜い顔を晒すべきではないと、成人前に母から送られたもので、この世にひとつしかない。
親兄弟以外は夫になるタオをふくめ、百人いる侍女誰ひとり、彼女の素顔を知らないのだった。
膝をつき、オコゼを拾いあげるタオの背中を平手で打ちながら、万葉はせせらと笑った。
「いやだわ、タオ様! ほんの戯れです。ほんとうは肥の国から言伝を預かって参りましたの」
「なに。肥の国だと」
肥の国は龍頭本土の南をおおきく支配する国だ。王の愛鳥が運んだであろう親指ほどしかない石板を、万葉の手から受け取った。
「このタガメの紋様……、芥の印だ」
同時に巳の神をおろした。
(肥の国に海の芥がでたようだ。今すぐ行くぞ)
(我と、汝がか)
心のなかの巳の神はチセの目線にあわせ、とぐろを巻く白い大蛇。
巳の神とチセは、出会ったころから対等だ。
チセという依代のなかで、いつもふたりは睨み合っている。
(山神を祀る国など放っておけ。汝、花嫁であろうに)
(それでも海はある。すぐにつかわしめを喚べ)
(ふん。蛇使いの荒いことで。花婿をみてみよ、えらく不満そうだ)
タオを見やると、鷹のような鋭い眼差しでチセを睨めつけていた。
「肥の国に芥がでたそうだ。タオ、すまないが留守を任せる」
「つかわしめはお喚びになったのでしょうね」
「ああ、もちろんだ」
「まったく……、芥のことになると腰が軽くなるんですから」
つかわしめとは、巳の神に従う海神の神使、虹蛇のことだ。チセはタオと万葉の間を縫って神殿の外へでた。実に三日ぶりの外気を腹にとりこみ、黄昏の空を見上げる。紅く燃ゆる空のかなた、高天が原が黒く陰れば、夜のはじまりだ。海は静かに空を映し、たゆたわせている。
その波間から蛇が現れ、虹色のうろこを震わせながら階段を昇ってきた。総身は五百段の長さを誇る海の大蛇だ。海神の神使が陸にあがることなど一千年に一度もないのだが、見慣れた島民は「花嫁が空に逃げるぞ」と落胆するだけだった。
空だ。大空を駆ける。
胸にすり寄る虹蛇の首に、チセは恥ずかしげもなく着物の裾をあげ、またがった。足もとを見下ろせば、万葉がタオの腕に手を巻きつかせている。
「なんだ、それじゃあふたりが夫婦みたいだな」
意地悪なことを吐きながらも手をふり、作面の下で笑みを浮かべた。
「なるべくはやく戻るから」
あいまいな口約束のあと。
「きっとですよ。……豊巫女様、愛しています」
タオに思いがけず愛を囁かれ、チセは頭から湯気をだして空を駆けていった。