十四
そうこうしている間に、洞窟のなかが薄明るくなり、肌の色が白ばむ。カアはチセの腕から抜けでて、頭を垂れた。
「さあ、次はこちらの番。女王をお救いくださるのですよね?」
「もちろんだ。このあたりでいちばんひと気の多い海岸はどこだ」
「少し東へ行ったところに島民が禊をする入り江があります。ですが見とおしがよく、身を隠せる岩がひとつもございません」
「そこがいい。案内してくれ」
「待て……! 占いの唄を詠ってからだ」
先を急ぐチセを巳の神がとめるが。
「何度でも言うぞ。力は危ないときのためにとっておいてほしい」
「しかしだな」
「それに頭の足らない島民がいたら、呪いの唄を詠わなくてはならないだろう」
「ううむ、……なるほど」
「呪い? ですか」
「神に叛いたことを一生後悔する呪いさ。こんなに幼い子の足を切り落とそうとするなんて」
わたしはね、これでも怒っているんだよ。
たんこぶから覗くチセの仰々しい目つきにゾッとしたヨノとカアは、彼女の案に大人しく従った。
チセが海面に姿を現したのは日の出わずか前の、薄明の刻だ。空は明るいが、墨のように暗い海のなかで輝く虹色の尾ひれはまるで天の川のようだった。人を集めるために入り江を二、三往復すると、息継ぎに洞窟へと戻る。それからヨノを背におぶり、ゆっくりと入り江へ戻った。
砂浜を染める男たちの人影に、ヨノは肩をこわばらせ腕を震わせる。
「もっと堂々としていろ」
「でも」
「ほら、みな弓をおろしてこちらを見ている」
ヨノが顔をあげると、弓矢をもった男たちが砂浜にびっしりと並んでいた。だがその矢じりは下を向いている。
「わたしはどうやら、海神の神使らしい」
「そうなのですか?」
「おとぎ話さ。だがいざ目の当たりにすれば、ヨノは夜じゅう海神に護られていたのだと、みな思うことだろう」
水しぶきをあげ、派手に尾ひれを引き立たせるその背後で、日の光が水平線を描く。
「ついでに神をおろせば、完璧だ。禊はしたし、腹はたまごでいっぱいだろ?」
ヨノは花が咲いたように笑い、チセの背からおりた。
「……うん!」
男たちはまるで夢を見ているようだった。
七色の光の粒がたゆたう海。その正体は虹色人魚。おとぎ話しとは言わせない、砂浜にいる人間全員が目にしている。
やがて海から上がってきたのは、女王のヨノ。
日は線上へ、少しずつ昇りはじめた。
『──余の巫女は無傷じゃ。よって、うぬらの負け。この娘を余そのものと心得、せいぜい崇め奉りたまえよ』
幼子とは思えぬ所作で髪をかきあげ、ひとりの男の前に立つ。
チセは尾ひれだけでなく無垢な目の色を輝かせた。
「へぇ! ヨノの神さまは、高天が原の神さまだったか」
ヨノがおろした神は高天が原に座す天つ神、天常立命。高天が原を創生する神であり、地に降りたつことはない。
彼は人間に関心を持たないが、ヨノだけは違った。ヨノのためならば天の力を使う。
『さもなくば──その命、黄泉へ送りとばしてやろうぞ』
ひとりの男が弓を落とし、膝をついた。
昨夜にヨノを狙った男だ。
「慎んで、お詫び申し上げまする……!」
ヨノのちいさな足もとに頭をめりこませる。
やがて波紋をひろげるように、まわりも次々と平伏していった。
それでも武器を捨てぬ輩はいる。
堤防に人柱を立たせるべきだと、騒ぎ立てた男たちだ。
「あのガキが生きてりゃ、俺らが人柱にならなきゃなんねぇ」
「どうせ死ぬなら、いっそこの手で……っ」
ヨノへ槍や石斧の先をむける。
「神おろしの最中だぞ、やめておけ!」
「うるさい!」
武器をおさえこもうとするもの、それをやめさせるもので、もめはじめた。
急速に、男の手がヨノへのびる。
「やめろ……!」
木陰で見守っていたカアが飛び向かおうとするが。
海から唄が聞こえた。
胸がしめつけられるような、切ない声だ。
チセは波間に虹色の光線を描きながら、水面に顔を浮かせ、詠っていた。
ヨノの目が煌々と輝く。
『ほう、はじまりの唄か。いいうた声だ』
チセが詠った唄は巳の神の力を使う呪いではない。一日の最初を祝う、はじまりの唄だ。はじまりの唄は、天つ神の光の恵みをもたらし、残っていた夜の穢れを祓い清める。
高天が原の光で昨日を赦し、今日を照らすのだ。
ヨノはチセを指差し、吠えた。
『その尾ひれ、しばしかりるぞ……!』
次には水平線からあがった日の光がチセの尾ひれに集まり、反射した。方角は砂浜だ。反射した光は天地の隔たりがなくなるほどの閃光を放った。平伏しているもの以外のすべての人間が両手から武器を落とし、膝を崩した。
「うわぁああぁ……!」
「痛い! 痛い!」
「目が! 目がつぶれる!」
『ふん、余の巫女を見下ろすからだ。阿呆が』
ヨノは砂まみれになって転がる男を、これでもかというほど蔑んだ目で見た。
『堤防に人柱はいらぬ。余の巫女は過去にそう告げたはずだ。くだらぬ理想を押しつけたいのなら、勝手に死ね。それは人柱ではなく、無駄死にだがな』
ヨノは空を仰いだ。右腕をあげれば、真っ黒な烏がとまる。カアだ。
背景に広がるは、七色の海。
まるでヨノそのものが神で、たった今降臨したような、そんな神々しさがあった。
ふ、と瞼をふせ、海へ振り返る。
はじまりの唄は終わり、日は昇りきった。
ヨノはチセへ、幼子の笑い顔であどけなく見送った。
「さよならだ、チセどの」
「ああ、ヨノ。また会う日まで」
それから、おおきく手を振る。
チセをはやく行かせるためだ。虹色人魚に関心が集まれば、男たちが船で追いかねない。
現に、浜辺には未だ顔に青筋を浮かせる男がいる。光をしのいだ盾のなかで、夜の穢れをくすぶらせていた。
「……巫女を殺れぬのなら、せめてあの人魚を!」
男は愚かにも膝をたて、弓を構えた。
「人魚の正体を暴いてやる……っ、ただで終わらせてなるものか!」
矢じりの先は、七色の光源。
チセだ。
彼女の肩のうえで、巳の神は深くため息をついた。さっそく力を使わねばならないからだ。
「呪いの唄を」
「やむを得んな」
チセは善悪のわからない子どものように笑うと、波に手を添え、海を諭すように詠った。
その間にも男は力いっぱい弦をしならせるが。
静かに押し寄せた波が、男の足首まで浸った。
「は?」
ガクン。
階段を踏み外したかのように、男の上背が一段下がった。
「あ、あっ、……あし、あしが!」
両足首の、先がない。
波にさらわれたのだ。
「ぅわあああ────────ッ!」
海神の祟りだ、虹色人魚はやはり海神の神使であったと、まわりが騒ぎ立てる。その喧騒をすり抜け、矢が一本、波間に向かっていた。
誰も気づいていなかった。
男の矢は放たれ、確実にチセの進路に向かっていたのだ。
──トプン。
矢はチセに届かなかった。
チセの手前で直角に落ちた。矢に矢が当たったのだ。
矢を落とした矢は、花びらのような矢ばねをつけていた。
「桜のはなびら……、日向国の、象徴」
やがて花は矢ごと沈み、波間に消えた。
矢を矢で防ぐなど、よほどの名手だ。誰が射ったのか、砂浜を見ようとするが。
「さて、急いで帰るぞ」
「だが今、わたしを救ってくれた人が──」
「危険だ。振り返らずまっすぐ泳げ」
巳の神に急かされ、伊都国へ背を向ける。
足首を失った男のわめき声はとなりの巳の国へ届くほど、あたりを轟かせたのだった。