十三
「ふふ、ようやくこのからだとおさらばよ」
「陸へあがる前からどうなることかと思ったが、うまくいきそうでよかったな」
カアを待つあいだ、注目はヨノに集まった。
吸い寄せられるように髪に触れるとふわふわで、思わず抱きしめてしまった。島の子とは思えぬ真白い肌。まるまるとした目は愛嬌いっぱいだ。
「かわいいなぁ〜、いくつかな?」
「六つです」
「かわいい!」
すでに知っている歳の数を聞くほどかわいい。
巳の神も少し戯けた様子でヨノに訊ねた。
「ヨノどの。今、神をおろせますか」
「神さまとのお話し? ヨノ、朝しかできない」
「そうなのか」
巳の神は呆れた。チセへ、だ。
自身がどれほど稀有な巫女か未だに理解していない。
神をおろすにはそれ相応の霊力、または供儀がいる。米や酒などの供物で終わればいいが、それが祝詞や神楽であったりすると、時間もかかる。「おーい」と喚ぶだけで神をおろせる巫女は、チセだけだ。それも四六時中神をおろして、平然としていられる。
喚べばおりてくる神も、大概であるが。
「彼女が神をおろせるのは、日が水平線から昇り姿を現しきるまでの短いあいだだけだ。その前に海水で禊ぎをして、腹を満たさねばならない」
「へぇ。腹が減ってはおろせないのは同じだな」
「それは食い意地のはった汝の都合であろ」
「いやいや、食わねば戦はできぬってね。ほら」
チセは腰紐にぶらさげてきた布袋をひろげると、煮たまごをひとつ丁寧にむき、ヨノへ差し出した。もちろん、ヨノはあからさまに嫌な顔をしたが、たまごは食べるべきだと巳の神にさとされ、恐る恐る口に入れた。
「……おいしい!」
「そうだろ? そうだろ? 残ったアサリ出汁に漬けたんだ。どれ。……う〜ん! うんまい!」
淡白な白身にしっかりと出汁の旨味が染みこんでいる。
「それに黄身がしっとりとしているな。なぜだ? とまらないではないか」
「チセ様、もうひとつください」
「おっ、いいぞヨノ、もっと食え」
そうしている間に、カアが戻ってきた。
カアは羽毛の水を弾きひと息つくと、チセをまじまじと見つめ、やがて諦めたように首を落とした。
「巳の神様、この御方は……」
「なんだ?」
「いえ。申し訳ございません、巳の神様の依代となる生き物はこの伊都国におりませんでした」
「そうか」
巳の神は気を沈めるだけだったが、チセは焦燥とした。
「待て。伊都国には巫女見習いがたくさんいるだろう。ほんとうによく探したのか」
「探しました。島の人間だけでなく、森の奥から海の底まで隅々と」
「そんな……、ひとりもいないのか? ヨノ、ヨノは。仮にヨノを依代とすればどうだ」
「気を狂わせ、死にます」
「は?」
「人間なら、とうぜんの反応です」
カアは、お前がおかしいのだとでもいうような視線をむけてくる。
「では、蛇は? 同じような蛇を依代にできないのか」
「すぐに死にますね」
「えぇ……」
巳の神が言う。
「この依代も適当に選んだわけではない。沼の水を飲んで育った蛇のなかでも、からだに馴染んだ蛇はこれ一匹であった」
「そうだったのか」
「まあ、ないものは仕方ない」
「待て。その依代が死んだら、巳の神はどうなる」
「どうもこうも」
ははっ。渇いた笑いをこぼす。
「我、汝のそばに居てやれない。それだけだ」
そんな。
チセは茫然とした。
だがヨノもカアも、表情を変えない。
神は人間のそばに居ないものだ。そういうものだから。
だがチセは胸が引き裂かれるように痛んだ。もはや一心同体であった巳の神が心を離れ、目の前からも消えてしまうなんて。手足がもがれてしまうようだ。
「……いやだ。いやだ、いやだ! どうにかして、生き延びろ!」
「そんな無茶苦茶な」
「新しい依代はなくとも、薬のようなものはないのか! 死に痣が治るような塗り薬が……!」
「はは。では、ダメもとでたまごの薄皮でも貼ってみるか」
「ふざけるなよ……っ」
チセが涙声で岩肌に拳を叩きつけるそのとなりで、カアがハッ、とした。
「たまご?」
クチバシでたまごの殻をつまむ。
「たまご……、いけるかもしれませんね」
カアはまた一羽で海へ潜ったが、すぐに戻ってきた。洞窟のなかで翼をはためかせ塩水を降らせる。その足はたまごをつかんでいた。
たまご。
あざやかな青緑色の下地にまだら模様の入った、奇妙なたまごだ。
カアは泣く泣く、巳の神の顔もとに差し出した。
「ワシの子です」
「え……」
巳の神は蛇の顔を、チセにもわかるほど複雑にした。
「妻がちょうど産卵期であったのは、運命だったのでしょう。まだ温める前の、四番目の子です。さあ遠慮せず、どうぞ」
「いや、その……、たまごならなんでもいいというわけでは」
「鶏卵以外は食べないとでもおっしゃるのですか」
「う」
うなずきたいところ、巳の神は観念したように歯でたまごを引き寄せた。
「よいのだな」
「はい」
我が子を生贄に差し出し涙ぐむカアに、
あからさまにためらいながらたまごを飲みこむ巳の神。
チセにはさっぱりわからない。
互いに望んでいないのに、なぜ突き進む必要があるのか。
だがたまごはすでに巳の神の腹のなか。なにも言わずに見守っていると、巳の神はいつもそうするように、たまごの殻を吐いた。中身は綺麗にない。
「ああ……っ、四郎!」
「すでに名付けた子を生け贄にするなよ! それで巳の神、四郎の味は。 いや待て、これは!」
巳の神の死に痣がみるみるうちに消えていく。カアは涙をぽろぽろとこぼしながら話した。
「魂が宿る前の神使のたまごには、再生の力がございます。もしやと思いましたが、正解だったようで──、ぅう、四郎の器が無駄にならなくてよかった!」
ヨノの胸のなかで咽び泣く。
チセもまた巳の神を両手ですくい、抱きしめるようにして胸へ押しあてた。
「よかった。ほんとうに、よかった」
「汝、泣いているのか」
「とうぜんだ。イソラを失うなんて……っ、わたしにはたえられない」
「そうか」
巳の神は嬉しそうに蛇の目を弧にして笑った。
それからチセはヨノとカアも引き寄せ、ワンワンと泣いた。
「ヨノに会えてよかった!」
「はい」
「カア、ほんとうにありがとう!」
「くるしい」
「ありがとう……!」