十二
伊都国と巳の国のあいだには岩礁が点在しており休み場所にはなるが、岩肌を避けて泳がなくてはならない。引き潮で浅瀬となった道中では歩くはめとなり、思っていたより時間がかかった。
伊都国の砂浜を照らす、真上の月を見て思う。
「帰りも同じくらいかかるだろうか。朝のお火焚きには戻れるかな」
「手前で占っておくか」
「いや、そういう意味ではない。頼まれても詠わないぞ」
肩にのる白蛇の死に痣は、月がのぼるあいだにもひろがり続け、首に届こうとしている。
「力は危なくなったときに取っておいてくれ」
「しかし、どうも嫌な気配がする」
「そうかな。かがり火だってほら、ちゃんと──」
島に上陸する手前で、イソラはチセをとめた。かがり火のまわりに男が弓を構え、砂浜には突き刺さった矢が影をつくっている。
「内乱か? 引き返そう」
「ここまで来て?」
「戻って、明日の朝にでも伊都国になにがあったか調べるんだ」
「なにがって、なにが…………、あぶない!」
チセは、そばの岩礁にしがみつくちいさな女童をみつけた。その子を男の矢が狙っている。悩んでいる暇はない。チセは思いきり海底へもぐると尾ひれで地を蹴り、その反動で水面へとびあがった。
キン────────。
純度の高い鉱石がぶつかり合ったような音。
同時に、矢が尾ひれにかすれ、ウロコがまるで宝珠のような輝きを放ちながらはじけとんだ。男は照準から目をそらし、空を仰ぐ。
「なんだ……? 今の」
光を辿られてはまずい。
チセはちいさく唄を口ずさむと、女童の脇をつかんだままふたたび水中へ潜りこんだ。
巳の神が先導に前へ出る。
「崖のむこうだ。急げ」
巳の神の尻尾をひたすら追いかけ、命じられるままに水からあがった。
「はあっ、……はぁっ、おい、無事か」
「ごほっ、ごほっ、はあ」
脇にかかえていた女童をおろすと、すぐに息をふき返し、水を大量に吐き出した。
「無理やり水中に引きこんでしまったからな。無事でよかった……、ここは?」
「波で削られてできた洞窟だ。そう易々と追っては来まい」
自身の尾ひれを光源に天井を見上げればなるほど、コウモリの目が星のように瞬いている。
自分たちがあがってきたであろう出入り口は海水でふさがれている。一度潜らなければ入れない洞窟だ、隠れ場所として最適だが。
「巳の神、その」
「気にするな」
チセは隠れ場所を占うため、唄を詠ってしまった。その代償に死に痣が頭部を侵食し、横たえるからだがかすかに痙攣を起こしている。おそらく次はない。
「力は危ないときに使うのだろ? おかげで女王を救えた」
「女王?」
岩肌に横たえる女童を今一度マジマジと見る。目の下に見覚えのある入れ墨をみつけ、ほうと息を吐いた。
「桔梗に龍の紋様、たしかにヨノ殿だ。……こんなに、幼かったのか」
「汝の即位式で会うたとき、上背が高く大人びていたが齢十四。八年前の今、六つだからそんなものだ」
「そうか。六つか」
見てわかるほど肩をガタガタと震わせている。
「よほど恐ろしい目にあったのだな」
「と言うよりは、そちのでこぼこ顔に怖がっているのですよ」
「ん?」
いつからそこにいたのか、巳の神のとなりで真っ黒な烏がスンと佇んでいた。
「まさか、……カアか! あははっ、久しぶりだな」
「カァ!? なぜその呼び名を知っている。それに、ワシはそちと初めて会うたぞ!」
「カアが、ワシだって! あははは!」
烏──カアがワシと言うと、チセの笑いがとまらなくなる。それを知る巳の神はチセが腹を抱えている間に、ここへ来た理由を洗いざらい話した。
カアはヨノに従う、とある神の神使だ。
カアという呼び名はヨノがつけた。
「魂を過去に戻すとは。巳の神様もとんでもないことをなさる」
「我に非があったのだ。そうするよりほかなかった。それで? 汝、なにゆえその身を狙われておる」
巳の神に訊ねられたヨノは、ちょこん、とその場にお山座りをして話しはじめた。
「ヨノ、鬼ごっこしてた」
「鬼ごっこだと?」
カアを見やる。
「伊都国の礎であり、もっとも愚かなしきたりだ」
伊都国では荒波で集落が流されたり、不漁により食料が行き届かなくなると、巫女である女王が人柱に立つ。ヨノの先代は冬に人柱となり海に消えた。
女王が常に人柱に立つわけではない。身代わりに白羽の矢をたてることができる。
「その代わりに女王は、自身の存在価値を示すため、日暮れから夜明けまでその身を隠し、生き延びねばならない」
「つまり鬼ごっこというわけか」
「新しく建てる堤防に人柱はいらないとこの子が告げると、男たちが反発してな。そのあと、そんなになりたいならお前たちがなればいいと、喧嘩を売るようなことを言ってしまった」
「それはヨノが悪いぞ」
笑いやんだチセがはっきりと言うと、ヨノは肩を落とし頭を下げた。
「ごめんなさい」
「よし、よし。わかったのなら、よし。わからない連中をどうにかせねばな」
ヨノの頭を撫でながら、考える。
このまま夜明けを待つにしても、男たちがすんなりと納得するとは思えない。
「待てよ。我々が居ない過去で、ヨノはこの鬼ごっこを逃げ馳せているのだよな」
ヨノはこれからの八年間、自力で女王の座に君臨し続けている。
「しまった。助けなくても、生き延びたのか」
余計なことをしたのかもしれないと、猛省する。巳の神はそんなチセの手を尻尾でペチンと叩いた。
「すぐ悔いるでない」
おのれを見ているようで適わない。
「八年後の彼女を思い返してみろ。両足首がなく、いつも従者に背負われていた」
「そうだ。たしか、右目も失っていた。島民の矢があやまって刺さってしまったのだと」
カアが言う。
「右目は、先ほど失っていました。あなた様に、助けていただかなければ」
それから、翼を閉じ足をしまった。
烏の礼儀だ。
「心から感謝いたします」
だがチセの表情は暗い。
「カアよ。問題はこれからだ。ヨノは両足首をなぜ失うと思う」
「おそらくは夜明けのあと、二度と逃げ馳せぬようにと、男たちの手によって切られたのでしょう」
「そうだろうな」
しきたりは重んじるが、幼子の言葉は信じがたい。大人というのは儀式を絶対としながら、幼子や弱者を心から敬えない。どこも同じだ。
「ならばひと触れもできぬよう、ヨノを神格化させよう」
「神格化とは?」
「なに、容易なこと。それより対価を要求するぞ。こちらとてただ働きするつもりはないからな」
「巳の神様の依代でございますね?」
「いかにも」
カアが迷いなく海へ潜っていくと、巳の神は喜ぶように舌をチロチロと動かした。




