九
「三葉姉様! すごい! 本当に泳げたよ!」
「泳げた……? はっ、尾ひれのないチセが?」
かまどに立つ人影に語りかければ、振り返ったのは母だ。
「あれ? 母様が、なにゆえここに」
家長のしごとではないからと、かまどには決して足を踏み入れない女なのだが。
「お父様がお越しだ」
「お父様が?」 予定より少しはやい。
「チセのつくる料理が食べてみたいのだと。今日はなにか採ってこれたのかい」
「今日はあまり海に出なかったから。あおさと、あとハマグリを少し……」
「人数ぶんないなら、お父様用にだけ特別に準備しろ。いいね」
うっとおしそうに顎で指図すると、部屋のなかへと戻っていった。
「たいへんだ、巳の神よ。過去にないことが、またはじまるようだ」
「うむ。気を引き締めて取りかかれよ」
「わかった」
チセは巳の神を肩にのせ、飯炊きから入った。おかずはほとんどが囲炉裏で調理されるため、飯炊き係の自分がつくった料理を人に振る舞うことは、はじめてのことだ。
「お父様のために、か……」
火吹き棒を握る手に、自然と力が入った。
日暮れのあと。
チセは飯炊きとおかずの仕込みを終えると、藁を敷き直したり皿を並べたりと、広間でも積極的に手伝いをした。万葉が運んできた魚や貝を盗み食いするためだ。万葉はおめかしで忙しいようで、髪かざりや着物を替えては、母へ「かわいい」をねだっている。
(しめしめ、焼く前の魚が枝に刺さったまま置かれているぞ)
お行儀が悪いがしかたない。
さりげなく皿の横で立て膝をつくと、魚の腹に指をいれて身をほじくった。
美味い。
調子にのってとなりの皿のエビを啜る。
「美味い……!」
「あ?」 囲炉裏で鍋をかきまぜる、三葉に睨まれる。
「え、えーと、お鍋、美味しそうだなあって!」
覗きこめば、今日の具はしじみだ。万葉が浜辺で島民からもらっていたものだ。魚やエビが美味いのだから、浜辺で採れたしじみももれなく美味いだろう。
「囲炉裏の火は、いつもだれが?」
「火おこしなんて面倒なことはしないよ。囲炉裏の火はもうずっとそのままさ」
「そのままって、火を入れ替えてないってこと?」
「灰をかぶせておけば火は燃え広がらない。朝に炭を足せばいいだけだから、楽なんだ」
「そりゃあ、そうだけと……」
チセは判然としない。食糧の穢れを焼き祓い、弔う火は毎朝、お火焚き娘が焚く。海人族のしきたりなのに。
「味見してみるか」
「いいの!?」
すっかり気をよくして、よだれを啜りながら匙でひとすくい。
(うへぇ! まずい!)
しじみの旨味でできているはずの鍋から落ち葉で煮出したような味がする。
「な、なぜだ」
「チセ、衣に炭がついてるよ。火が燃え移ったらどうするつもりだい」
「わっ、すまない」
袂についた黒い汚れを払う。
「炭……」
「浜辺に居なかったようだけど、今日は泳がなかったのかい」
「泳ぎ? ……そうだ! 三葉姉様、ご教示ありがとうございました」
「はぁ!?」
チセは囲炉裏の前で、頭を床にこすりつけて礼を述べた。
「逆立ちしたら、潜れたんだ! ほんとうに、ありがとう……!」
そのときの感動を思い出して胸がいっぱいになって、思わず手を握る。まずい、殴られると思ったが、
「ありがとう、か。……感謝されるのは、何年ぶりだろ」
三葉はチセの手を握りかえすと、もう片方の手で頭を撫でた。その手は温かく、まるで優しさに包まれているようだった。
家族みんなが父を出迎えるなか、ひとり出入り口で待つ。
話し声が近づくと、チセは頭を深く垂れた。
「お待ちしておりました、お父様」
「おお、チセではないか。居ないと思ったらここに」
「ほんとう、礼儀ってものを知らないの?」
万葉が嘲けるが。
「いやぁ、さすがはチセ。それでこそだ」
「お父様!?」
「万葉、男というのは家のなかに入ってはじめて、出迎えて欲しいものなのだよ。疲れて帰ってきた日は特に」
「そ、そうなの……?」
驚いて、口をぱくぱくさせている。
チセは顔をあげて言った。
「王の住まいを考えればわかることだ」
巳の国の王は代々、高床式の住居に梯子を立てて住んでいる。父にとって、梯子をのぼり着いたところからが家なのだ。ところで妻が下で出迎えていたらどうだろう。
共に梯子をのぼり、息を切らしてはぁ疲れたね、などと同調を求められでもしたら。
「こう言えばわかるか? お父様は同じ土ほこりをかぶっていっしょに家に入るより、酒や飯の匂いをさせた女にあたたかーく出迎えて欲しいんだよ」
少しトゲのある言い方が気になるが、合っている。父は今日こそチセへ手をのばした。
「ああ、腹が減った! チセは、今日も私のとなりで食べるんだろ?」
「恐れ入りますが、料理の支度がございますゆえ」
チセは父の手をとらなかった。
「おや、まだ作り途中か?」
「出来たてを食べていただきたいのです」
「そうかそうか、それは楽しみだ」
しじみ汁がまずかったのだ。自身の料理は振る舞う直前に味見をしておきたい。かまどへおりたチセはごはんのついだお椀を配り終えると、そのまま食事の中盤まで待った。しじみ汁がみんなの腹にひとしきりおさまるのを待ったのだ。みんなには申し訳ないが、自分の作った料理がどの程度の穢れを祓えるか、試しておきたかった。
いいかげんにしな、と母に頭を殴られ、ようやく皿を配る。
「どうぞ。あおさのお焼きです」
「お焼き?」
刻んだあおさとごはんをよく混ぜ、平べったく焼いたものだ。これならお腹がいっぱいでもひとくちくらい食べてくれるのではと思いついた。手づかみで食べやすいように、ちいさく切ってある。
「なんだ、ツマミみたいだな」
ひとつつまんだ父は、ふた噛みほどで目を瞠いた。
「美味い……!」
とうぜんだ。
そう思いながらも、チセは顔を緩ませた。
あおさとごはんの量に対して塩加減がわからず、少し不安だったのだが、父の口に合ったようだ。
ちなみに生地のつなぎにたまごをつかっていることは、極秘である。
「ほんと、美味しいっ」
「驚いたなぁ、こりゃあ」
喉を通り過ぎたお焼きは腹に溜まった穢れを祓い、冷えたからだを表情ごと温める。
(よし、よし。無事清められたようだ)
心地よい静寂のなか、チセは忙しなく往復した。
「お父様とお母様にはこれを」
すかさずハマグリを出した。貝の口が開いたばかりの酒蒸しだ。
「ハマグリは夫婦愛の象徴。ちょうど雌雄で採れましたので、おふたりで召し上がってください」
チセが貝殻の乾杯をすすめると、夫婦ふたりの目があった。見つめ合うのは何年ぶりだろうか。
「ほら。乾杯」
「は、はい……」
貝同士を突きあい、同時に口をつける。
父は目を潤ませた。
「……こんなに美味い出汁、はじめて飲む」
そりゃあいい酒使ったからな。
チセはうなずいた。
先ほど父がさげさせた、瓶子の底に残っていた酒を使っている。
「それに、この大きな身!」
母の驚く声にチセは明後日を向いた。
北の海で育ち過ぎたからなんて言えない。
それからまたふたり同時に、感嘆と溜息をついた。
「美味かった……、ハマグリなんて、食い飽きてると思っていたのに」
「ええ、ほんとに」
母がやわらかく笑む。
嘲笑以外の笑い顔を浮かべたのは何年ぶりだろうか。広間にいた家族全員が目を丸くしてみていた。
父が深く何度も、何度もうなずく。
「やはり、婆婆様のおっしゃるとおりだった」
「婆婆様の?」
婆婆様は巳の国の最長老だ。
巫女と呼ばれることを嫌うが、占いや祈祷を得意としている。婆婆様がおこしたと言われる島のかがり火は、雨嵐に晒されようと、八十年消えたことがない。
「先日、チセと共寝をしたときに白い蛇を見ただろう? 以来、驚くほどの豊漁でな。そのことを婆婆様に話したところ、白い蛇は阿曇の祖神だという」
チセはほう、と感心した。
婆婆様の占いは、どうやらほんもののようだ。
万葉が、信じられない様子で言う。
「この姉様に? 一体、どうして……!」
「恋い慕っているらしい」
チセは目を座らせた。
前言を撤回しよう。婆婆様の占いはまだまだ信憑性に欠ける。
「醜女の姉様を……!? なんて悪趣味な神さまなの!」
「顔立ちは関係ない。チセの魂は浄らかで、霊力も非常に強いらしい。チセの作った料理を食べれば自ずとおのれも浄められ、海神の力を与えられるそうだ」
「そんな、……ウソよ。デタラメだわ。たまたま蛇がでたからって」
「実際に食し、確信した。婆婆様のおっしゃったことは真実だ。そうだね、チセ」
うなずく代わりに口をへの字に曲げた。
まさかとは思うが。
「明日から毎夜、私のために作っておくれ。楽しみにしているよ」
うへぇ。
心のなかで反吐を吐く。
母は今にも飛び跳ねそうに嬉々としているが、
「なによ……、なによ! チセ姉様ばっかり!」
万葉はまるで害虫を探すかのように、広間の端から端まで目を泳がせていた。