六
巳の国の里は、本土につながる海の中道に近い南岸に、王の邸を中心にして五つの集落に分かたれている。各集落ではかがり火の炭足しとはまた別に、毎朝お火焚きが行われ、その火を使って飯炊きをした。獲物の魂を神聖な火で弔い、食すためだ。
お火焚きは古くからの神事であり、初潮を迎えていない女童のしごとであった。
(たまご……食べたいなぁ。火を通したら、うまいだろうか)
夜も明けぬうちからお火焚きを終わらせたチセはぼんやりとたまごへ思い耽りながら、今度は寝ぼけ眼で飯炊きをしていた。
巳の神が、ニョロリと顔をだす。
「頭を下げろ」
神の御命令だ。反射的にひれ伏す。
すると、ものすごい速さで振られた脛が頬にめりこんだ。
先ほどの御言は、蹴りを避けさせたわけではなかったようだ。
古傷もまだ癒えていないのに。常に傷を負うためとはいえ、ちょっと腹立たしい。
腫れた顔をさらにむくれさせチセが振り返ると、三女の三葉が大股を開き、腕を組んで立っていた。
いつしかタガメに啖われ、首と腕だけを残し海に浮いていた娘だ。
「おい、チセ。昨夜お父様と寝たらしいじゃないか、ぇえ?」
過去を生きる今世では、血色の良い顔で鼻を鳴らした。
その背後で万葉がコロコロと笑う。
死に戻る前も脚色が過ぎる彼女の告げ口に、チセはほとほと困っていた。
万葉が薄ら笑う。
「チセ姉様のそばで白蛇がうぞうぞと蠢いていたらしいわ。お父様ゾッとしたって。しばらくいらっしゃらないんじゃない?」
脚色はなかった。
足首に巻きつく巳の神を見やると「我は汝、護りいたした」と蛇の胸を張っている。
三葉が言う。
「半月後にお父様が来なかったら、もう一度野壺に沈めてやるからね」
「あはは、野壺、ねぇ」
チセは口のなかに溜まった血を吐き出すと、三葉を睨みあげた。
「なんだい、その眼は」
「人を足蹴にする者は、足が臭くなるそうだ。どうやらほんとうらしい」
頬についた泥を拭い、クンクンと嗅ぎとる。
「野壺より臭うぞ」
激昂した三葉に思いきり頭を蹴られたチセは、家の外まで吹き飛ばされた。
ぼろ切れのようになったチセのそばで巳の神がニョロリ、首をかしげる。
「なぜわざわざ焚きつけるようなことを言った」
「ごほ、がは、……だって、殴られろって」
「顔はじゅうぶん、ぼこぼこだ。十日は治らない」
「では、なぜ三葉姉様に顔を蹴らせた」
「顔を蹴らせたかったわけではない。あのまま頭を高くしていたら背中を蹴られ、かまどに頭をつっこんでいた。火傷のあとは一生のこる。汝も知っておろう?」
以前のチセは、額におおきなアザがあった。
自分でも目を背けたくなるほどの、むごたらしい火傷のあとだ。
「そうか。そういえば、そうだったな」
三葉に蹴られ、かまどに頭をつっこんだチセは前頭の髪も失った。決して水で冷やすなと言われ、海へ突っ走ったのを憶えている。海水が傷口に沁みて泣き叫ぶ顔が、オコゼよりひどい深海の魚のようだと、母は腹を抱えて笑っていた。
「巳の神よ。助けてくれてありがとう」
「あ、ああ」
結果的に顔がまた腫れあがってしまったが。
巳の神はもどかしそうに尾を揺らした。
「すぐに鶏小屋へ行って、たまごの薄皮で冷やそう。汝、戻らなければ焦った姉たちが代わりに飯炊きをするだろう」
「たまごか」
チセは腫れ上がったまぶたの奥で目玉を右上に寄せ少し考えると、浜辺に寄り道をしつつ鶏小屋へと向かった。巳の神が我が物顔で鳥の合間を縫っていく。
「さては、おのれの腹ごしらえのためだな?」
「生きたからだには必要なことだろう。ほれ、孵らぬたまごだ」
「はい、はい」
「はい、は一回」
巳の神が舌でつついたたまごを、チセが拾う。そうしてたまごを一か所に集めると、チセは背中からおもむろに弓を抜いた。
「な、なにをする気だ」
「なにって、火をおこすのさ」
腰に巻いていた木綿糸をほぐし、矢のようにしてもっていた火おこし棒を立てる。次には棒に弓の弦をぐるりと巻きつけ、前後に揺らす。
巳の神が蛇の首を傾げる間もなく、木綿糸が煙をあげた。
「このために弓をもち出したのか!」
死に戻るまで気づきもしなかった。
「へへん、すごいだろう? 死ぬ前だって、このやり方を知っている者はいなかった」
稲藁で火を大きくしながら手際よく石を積み上げる。瞬く間に出来上がった焚き火台の上に、浜辺でみつけたおおきな貝を皿にしてのせた。
「さすが、あの家で生き抜いてきただけのことはあるな」
「だろう? 昔はお火焚き場でカニを焼いて食べたものさ。米は残らないと食えなかったからな。それ」
皿に入れたのは、たまごではなくアサリだ。
巳の神は、たいして長くもないからだをたまごで数珠のようにして、不満げに言った。
「たまごを食すのではないのか」
「もちろん、たまごも食べる」
そう言いながらも、貝の口が開いたものから順に身をせせっては、身と汁を皿に戻していく。
「なにか思いついたのか」
「まあな。今日の朝ごはんは、家の飯より贅沢になるぞ」
チセはよだれを啜りながら言った。
アサリの身をすべて出し終えると、ようやくたまごの出番だ。アサリの貝殻にコンコンと叩きつけ、慎重に殻を割る。それからソッと、ぐつぐつと煮えるアサリの身のうえに落とした。
「しめしめ、うまくいったぞ?」
幾度となく食いっぱぐれてきたチセは、着物のなかに匙をしのばせている。匙を卵液にくぐらせ、乱暴にかくはんすると、皿のなかが淡い黄色に変わった。
ためらいなく、ひと口ふくむ。
「……これは」
あさりから自然ととれた出汁と塩味がたまごのコクと混じり合い、口のなかで旨味が大暴れしている。
「うんまぃ……! 想像以上だ!」
チセは匙を天に掲げ、飛び上がった。
ゆでたまごよりは腹持ちは悪いが、ちょっと涙が出てしまうくらい美味しい。たまごを食べずに捨てていた自身を恨みたい気分である。
巳の神は焚き火を見据え、目を座らせた。
「アサリは、美味いんだな?」
「美味い! 浜辺で採れたアサリは、穢れていなかった!」
「そうとも限らん」
「なぜだ」
信じられない、と言った表情で喉を鳴らした。出汁も美味い。
「この火だ」
「火?」
「汝のおこした火は、祓い火だ。つまりはそのアサリ、もとは穢れていたとしても祓い火に清められてしまっている」
「そうか!」
幼子のように素直に手を打つ。
チセという娘は相変わらず、すぐに考えを着地させようとする。巳の神は呆れつつも話しを続けた。
「我がおりずとも、巫女の素質は変わらず絶世であることが証明された。その力はすべからく利用すべきだ」
「どうやって」
そしてすぐ答えを欲しがる。
「……たとえば、汝のおこした火を飯炊きに使えば、すべての食材が清められるはずだ」
「へぇ、でもおかしいな。里のお火焚きはずっと前からわたしの火を使っていたはずだぞ」
「すべての集落がか」
「わたしがいちばんはやく火をおこせるから、みんなそれをもらっていくんだ」
「なんだと」
つまり、里の食材はチセの火でずっと前から清められていた。
では昨夜は。
夕飯にのぼった食材はすべて穢れていた。
あの日のお火焚きは誰がおこした。ほかの家や集落ではどうだった。
海域が穢れているのか、チセの家の食材だけが穢れていたのかも、今となってはわからない。
思い巡らす巳の神をよそに、チセは目の前の朝飯に集中した。
「わたしの火、すごいな。あのもさもさしたたまごが、こんなにふわふわになるなんて」
巳の神は呆れ果て、閉口した。
「どんな火でもたまごは煎られれば──、もういい」
「なんだ、拗ねなくとも巳の神のぶんもあるぞ?」
チセはもう一枚貝の皿を出して、半量を取り分けた。
「ほら」
「我に?」
「安心しろ。もう一杯作れるよう、アサリの出汁を少しよけてあるんだ」
「気持ちはありがたいのだが──」
巳の神は火を入れた食べ物を食べられない。遠慮がちにそのことを伝えると、チセは恥ずかしそうに頭を下げた。
「なにも知らず、焼き魚や蒸した芋を供物に出していた。巳の国の巫女とあろうものが、申し訳ない」
「いや、気にするな。我は汝の、そういうところが好きなんだ」
「好き?」
「それよりはやく、たまごの薄皮を顔に貼れ。傷あとが残るぞ」
「はい、はい」
「はい、は一回だと言っている」
腫れた肌に薄皮をペタペタと貼っていく。岩のように浮く薄皮は、化け物と呼ばれる類の見た目である。
だが巳の神の蛇の目にははかり知れぬほど愛おしく、映っていたのだった。