序
速川の瀬に瀬織津姫という神がおられます。瀬織津姫は、人々が川で祓った穢れを大海原に持ち出てくださいます。
荒い潮流がいくつも寄り合う海では、速開都姫という神がおられます。
速開都姫が穢れを飲みこむと、次の息吹を吹くところに、気吹戸主という神がおられます。
気吹戸主は根の国、底の国に穢れを吹き放たれます。
根の国、底の国には速佐須良姫という神様がおられます。
速佐須良姫は穢れを持ってあてなくさまよい、ついには失くしてしまわれるのでした。
『──大祓詞より』
祓戸の四神が詞になる前の、ずっと昔の大昔。
穢れはどこへ流されたのでしょうか。急流にも、渦潮にすらかき消されることのなかった穢れが、
もしも波に寄って、陸に流れ着いてしまったのなら。
【海の芥】
空に高天が原が浮かぶ神代。
龍の形をした島国の、頭のぶぶん。さらにその顎に、ちょろりと生えたヒゲのような、ちいさな島があった。
巳の国という。
その国の男は水かきと鱗をもち、女は塩水を浴びると下半身に尾ひれが生えた。
彼らが海人族と呼ばれた由縁であり、阿曇氏の名を馳せる海神の子孫だ。巳の国と龍頭本土をつなぐ浅瀬、海の中道はいつも、彼らでにぎわいをみせていた。
「あれ? 火が、ない」
凛然たる春の明けがた。
海の中道に立つ、かがり火に炭を足しにきたお火焚き娘たちは、消えた火を不思議そうに見上げていた。
海の芥を退けるため、島を囲うようにして立てられた清らかなかがり火は、海風や雨にも消せない。
そう聞かされ、育ってきたのに。
「おかしいなぁ」
「母様に言うたほうがええかな」
「なぁ?」
とぷん。
石を落としたような音がする。
籠んなかの炭を落としたのかと思い振り返ると、ひとり居なくなっている。
「あれ? ねぇ、あの子は──」
とぷん。
向きなおったそのとき、もうひとりが沈むところを、はっきりと見たその女子は。
あぶない。
という言葉ごと喉をかっ切られ、波にのまれた。
海に流れおちた罪、穢れのなかに生の記憶をもつものがある。
たとえば、怨。
末代まで祟ってやるなどという強い人の怨は、渦潮に巻かれてもかき消されることはない。むしろ生に執着し陸へあがろうとする。
それらを海神は、海の芥と言った。
海の芥は虫に化生し、人を啖う。
虫とは、タガメのことだ。
熊ほどの体躯のあるタガメは、腹についた口で人の腑を啜る。そうすると軽くなり、浮かんで啖いやすくなるからだ。
それから男の四肢と、女の尾ひれにかぶりつく。
特に女の尾ひれは、格別だ。
尾ひれを啖うまで満ちることのないタガメは、陸を目指す。
「あの子ったら、どこほっつき歩いてんだか」
お火焚きから戻らぬ我が子を気にかける母のうしろで、タガメの群れがうぞうぞと蠢いた。
その日、龍が顎ひげを引っこ抜いたみたいに、玄界灘が血濡れた。
海の中道には四肢をちぎられ、腑を抜かれた人の亡骸が浮いていた。さざなみが砂浜に紅い模様をつけていく。
日向国の巫女が消えたかがり火に火を灯し、タガメは失せたが。それまでに島民のおよそ四半分が、波間に浮かんだ。
「あれ? お前、お火焚き娘ちがかったか。よう助かったな」
亡骸を集めに海の中道へでた島民たちは、男子が何気なく放ったその言葉に、いっせいに振り返った。
「お火焚き娘が、……生きてる?」
額におおきな火傷のあとがあるその娘は、か細い女の腕を抱え、波間に立っていた。
抱える腕は、娘の姉のものだ。
娘の身にまとう古衣は姉の返り血で染まっていたというのに。
「そんな、ばかな」
「うちの子は啖われたのに」
「まさかあんたが」
──芥の子。
大人たちの無数の指が、容赦なく小柄な娘を差す。そばにいた娘の母は、その様子を見て狂い笑った。
「この子、もう十三になるのに尾ひれが生えないんですわ」
「尾ひれが、生えない……?」
「この火傷のあとをつけた、姉様憎さに芥を呼んだのかもしれませんねぇ? おかげで父様までこのザマだ」
首だけとなった父を海から揚げる。
「王じゃねぇか」
「王が、死んだのか」
「娘が殺した」
「芥の子が、王を殺したんだ」
芥の子。
阿曇氏族の忌み子だ。巳の国では百年に一度、海の芥を魂に宿して生まれてくると言われている。
娘は姉の腕を静かに海に還すと、おとなしく陸へあがった。
──この化け物が。人殺し。
──王を返せ。
──あの娘を返してよ。
島民すべての怨を、ちいさな背中ひとつにかかえて。
娘の名は、チセ。
今の世に知る術はない。
虹色人魚が死に戻る前の、哀しい記憶のひと欠片だ。