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35 曇らされていた眼

「ふざけないで頂戴!! 何が高い能力を持つ聖姫よ! 呪い一つまともに解除できない出来損ないの癖に!」


おれは鏡を見た彼女が、ぎっと睨み付けて来て、次の瞬間頬に衝撃を受けていた。

彼女が横っ面をひっぱたいたのだ。

彼女は顔を真っ赤にして怒り狂っている。だが彼女の見た目がそうであるのはおれのせいではない。

おれは、彼女が望んだから、きちんと解除しただけだ。


「そうですか、私の能力をお疑いなら、腕利きの者たちに、私が何をしたのか、見立ててもらえばよろしいでしょう」


おれは頬を抑える事もなく、ぐいと流れた血をぬぐった。どうやら唇の脇が切れてしまったらしく、そこから血が流れているのだ。

血を流す経験は、男だった頃にそこそこ経験しているから、その感覚はよく分かった。


「私はあなたの望み通りの事をいたしました。あなたが選んだ事です」


ただおれは、決然とした、いかにも聖姫らしい堂々とした顔で、振る舞いで、彼女と向き合った。

ここで怯えたりすくんだりしてはならない。だっておれは偽りであろうとも、国を守ると決めた聖姫なのだから。

姉上だったらきっとここで、彼女を憐れんだだろうけれど、おれはそうはしない。

あんたが望んだ、おれの忠告を無視して、おれの見立てを無視して。

その責任がおれにあるなど、一体どうして言えるのか。


「私はあなたの減退の呪いを解除しただけ。呪ったとされた聖女が授けたものを解除したまでです。あなたがいかような幻想を抱いていたのかは存じませんが、私のせいだとおっしゃるのはお間違いです!」


おれはこんな強い声が出たのか。腹の底から出した声は、思ったよりも強い響きで、いかにも聖姫らしかった。

王女殿下は憐れだ。確かに呪いで禿になり豚の鼻になっていた、と思っていたのは事実だろう。

でも、おれはきちんと説明したのに、信じないで解除しろと言ったのだ。

それを俺のせいだとなじるのは間違いである。


「この売国奴のくせに!」


彼女が手近にあった物を振り上げる。それは卓に置かれていた置時計だ。

おれはそれが自分に迫るのを見ていた。そして次に、おれは容赦なく手をふるった。

振るった手刀は躊躇なく、彼女の手首を打ち据えた。彼女はその勢いで置時計を手放し、細工物の美しい置時計は無残なまでに音を立てて、装飾のガラスなどを砕け散らせて落ちた。


「売国奴など不愉快な! あなたの望みをかなえた者に対して、この国の皇族はそのような対応をなさるのですか! あなたが皇女であるならば冷静になりなさい!」


彼女は打ち据えられた手首に手を当て、おれを信じられないという風に見つめている。瞳はこぼれ落ちそうだけれども、その瞳は減退の呪いをかけられていた時と違い、三白眼気味のやや爬虫類じみた瞳になっている。

いったいどれだけの聖女たちが、彼女に善き加護を授け、彼女の体はその結果、変質してしまったのだろう。

生まれた時からかけられていた物だからか、彼女本来の姿はもしかしたらもう、二度と取り戻せないのかもしれない……

おれは掴みかかられて激昂されても、減退の加護を解かなければよかったのだろうか。

それはそれで恨まれたような気もするが。

おれは静かに彼女を見つめる。彼女はおれの視線が思った以上に冷たいからか、びくりと身をすくめて、ぱっと兄の陰に隠れた。


「お兄様! この無礼な女を罰してください! 私はようやく呪いが解けると喜んだのに、こんなのって、こんなのってあんまりでございます!」


「……」


兄の陰に隠れて、皇女が言いたい放題いう。


「そこの女は、加護ではなく呪いをかけたのですわ! そうでなければわたくしの姿がこんなにも醜くなるわけがありません! お兄様の妹なのですよ!!」


確かに、美形の兄の妹なのだから、呪いが解けたらそれはもう美しくなる、と彼女が思い込んでいてもおかしくはない。

だが彼女は今、それとは大きく異なる見た目になっているわけだ……


「聖姫殿を罰する前に、お前を医療魔術師たちに見てもらった方がいいだろう」


「私がおかしいとおっしゃるのですか! お兄様!?」


「いいえ違いますわよ、姫様。そこの聖姫殿が、何をしたのか、あなたにどんな害があったのか、調べなければならないのです、あなたを優先するためですのよ」


「お義姉様まで! なんなんですの! 今までだったら私のお願いを聞いてくださったのに!」


「聖姫殿よりおまえが心配なのだ、分かってくれ、妹よ」


皇女殿下は、自分の意見が聞き届けられないと知り、愕然としていた。皇帝はその隙に、人を呼び、変わり果てた妹を、医療魔術師たちの元へ連れて行くように指示を出した。


「どうして、どうして、どうして! 悪いのはそこの女! 罰せられるのはそこの豚女!!」


彼女が叫んだものの、厳しい顔の皇帝は、妹の手を一度握った後、扉を閉めた。


「……聖姫殿、あなたはまだ我々に言っていない事がおありだろう」


「何をでしょう、誰にも言いたくない事の一つや二つは」


「誤魔化さないでいただきたい。……まさか妹に、魅了の加護があったとは想定外だった」


「私たちは耐性があったので、我に返りましたが……」


なんだ、彼等は気付いていたのか。おれはそれならば、と口を開いた。


「はい、妹姫様は、魅了の加護も授けられておりました」


「それは解除していないのだな?」


「それは解除しておりません」


皇帝が理解できない、という顔をした。それは婚約者様も同じだった。


「では何故、私たちは我に返ったのでしょう。魅了の加護を授けられたものに抗うには、強い心が必要だとされておりますのに」


「香水と同じですよ」


おれのたとえを聞き、彼等は怪訝な顔をした。だからおれは持論を披露する事にした。


「香水は、ほのかに香ってこそ良い香りとなるでしょう? それをつけすぎれば悪臭です。魅了の魔力もそれに近く、強ければいいというわけではありません。魅了の魔力はふわりとまとうのが一番、効果的だと神国で研究結果が出ております」


そして。


「妹姫様の魅了の加護は、悪質なまでに強いのです、あれでは脳が違和感を覚えすぎて不快になる。減退の加護は、それも軽減していたようですが……あれほど強く魅了の加護があったとは想定外でしたよ、私も」


「では今まで、妹を好ましく思っていた者たちは……」


「少し頭が冷めると思います、しかしそれも、妹姫様の今後の立ち振る舞いで変わると、判断できます」


「妹が、今後立派な振る舞いを続ければ、また好ましく思うと?」


「はい。いったん我に返っても、彼女が立派な態度であれば、やはり彼女はすばらしい、と思い直すでしょう。魅了の力から解放されても、人の心は移り行くもの、思い直す事は誰しもある事なのです」


「……では何故、神国の馬鹿王子は妹を豚の鼻などとののしれたのだ……?」


「神国の王子たちは、幼い頃に魅了の力への抵抗性を鍛えられると聞き及んでおります。昔起きた忌まわしい事件の結果だと、国の民の半分は知っているでしょう」


「なるほど、馬鹿王子たちは真実が見えていたが、短慮だったというわけか……」


「王子たちの短慮さを、否定できないのが申し訳なく思います」


おれは息を一つ吐き出した。そして、考え込んでいる婚約者様の方を見やると、彼女はやや青い顔をしていた。


「聖姫様、もしも、もしもですよ……? 姫様の態度が立派ではなかったら? 魅了に支配されていた者たちは、どう考えるのでしょう……?」


「悪い夢から覚めた気分になります。そして……よくある事として、騙されたと、悪い魔法をかけられていた、と考えます。魅了に強く支配されていたものほど、その傾向が強くなるそうです。これもままある話ですが、賠償金問題に発展すると厄介です」


「魅了の力に支配されていた苦痛や、貢いだものの返還もありうるのか……聖女たちは何故そんな物を妹に……」


皇帝が深くため息をつく。おれは聖女たちが何を考えたのか、少しだけわかるような気がした。


「聖女たちはみな、最良のものを与えたと思っているのですよ」


「なに?」


「加護が強すぎる弊害の研究は、神国の宮殿の一角でのみ研究されてきていた事です。魅了の力が最も強く働くのはどの濃度なのか、という研究もそこで行われていたものでした。おそらく聖女の皆様は、よい力を、最大限授ける事で、最良の贈り物としたかったのだと思われます。そして……それの弊害に気付いたのが、減退の加護を授けた聖女の身だったという考え方が、自然ではないかと」


「加護を与える側が、弊害に気付けないなどあるのか?」


「十二人、という大人数である事が問題なのですよ。それだけ寄ってたかって与えた後、おかしくなっても、どれが間違いなのか、与える側はわからないものです。解除の側は、分析し解析しますから、分かるのですが」


おれの言葉に、皇帝が重いため息をついた。そりゃそうだろう。呪いが守る力で、いい物だったはずの加護が与えられすぎた結果わるいものになっていて……おまけに自分は魅了の力で妹を全肯定するようになっていたのだから。


「聖姫殿、もしも妹の加護を全て解除したらどうなる? それで妹が救えるのか?」


「そうです、姫様があのようなお顔になった原因が、多すぎる加護なら……」


「見た目はよくなるでしょう、でも心までは良い方向に転がるかはわかりません」


「見た目はよくなるのか?」


「はい。数日、数週間は熱を出し、苦しみ、もしかしたら生死の境をさまようかもしれませんが、それは重すぎる加護から解放されて、体が元に戻ろうとする過程で起きる事です。それが無事に済めば、多重加護で歪んだものは戻ります」


さっき見ていて、解析して、おれはそう言う結論にたどり着いたのだ。

でも、その事が、あのお姫様を救うとは限らない。

彼女が持っている加護が全部、悪い方向に転がるものではなさそうだったから。


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