1 始まりは血の匂い
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「レイヴン、助けて、怖いの!」
涙にぬれたその瞳はエメラルド、振るえてわななく唇は珊瑚。こぼれ落ちる涙は真珠、真珠の滑る肌は貝の裏側のように白い。
なめらかに波打つ髪の毛は、さながら色の濃い琥珀のような艶と深み。
怯えて震える姉上は、誰もが認めてしまうほど、美しい女性だった。
そんな彼女が助けて、と泣いている。助けてレイヴン、助けて!!
その顔を見た時から、おれの覚悟は決まり切っていた。
「姫君、今逃げ出す準備をしております、この隠し通路を使えば町の外に出られます、必ずや姫君をお逃がしいたします!」
泣き叫ぶ姉上に答えたのは、長年彼女にお仕えしている、腹心の侍女たちだ。
彼女たちが裏切る事は、一生ないだろう、と思うほどの忠誠心を持つ女性たちである。
「帝国に連れていかれてしまったら、きっとひどい目にあうのだわ!」
帝国は、姉上をよこせと、この国に言って来た。
とある一件の結果、帝国側からのこの国の印象は最悪だろうから、その中で姉上がいじめられる未来は、そこそこ予測できる物だった。
「姫君、私たちが何としてでも、あなたさまだけはお助けいたします!」
姉上が、おれの服にしがみついて、怖い怖いと訴えて来る。
そんな彼女を見て、侍女たちが口々に、あなたをお助けします、という。
とある覚悟を決めたおれは何も言えないけれど、侍女たちが口々に、姉上を助ける、という。
「この国が落とされる日が来るなんて……!!」
姉上の眼から涙がこぼれ落ちて、おれの衣服にしみ込んでいく。
それはそうだ、平和に暮らしていたこの十数年間の間に、王都が焼け落とされるなんて事も、侵略を受けるなんて事もなかったのだから。
平和そのものだった国に暮らす、姉上にとっては恐ろしいに違いない。
この国の聖なる姫君として、大事に大事に育てられていた、聖姫である姉上が、こうして恐れおののくのも仕方がないのだ。
客観的に言っている物の、おれも当然、恐ろしい。実は怖くてたまらない。
「まったく、どうしてこんな事に……」
逃げる準備をしている侍女たちに、おれは静かに突っ込んだ。
「第一王子殿下が、帝国の王女を、豚の鼻と言ったからでしょうが」
「まったく! 第一王子殿下の軽はずみな物言いには困らされておりましたが、ここまでの事を引き起こすとは、全く持って想定外でしたよ!」
逃げるため、換金できる貴金属を集めていた、離宮付きの兵士が苦い声で言う。
うん、それはおれもそう思う。
ちなみに、今の王城はものすごく騒がしいはずだ。城に暮らしている人たちが、王族も貴族も含めて皆、さっさと逃げ出そうとしているからだ。
きっと立て続けに、どこまで帝国の兵士たちが来ているか、知らせが王族へ入っているに違いない。
敵国の兵士たちは、今どこまで迫ってきているのだろう……
遠く怒鳴り声も響いてきているし、近くだったら、足音もかなりうるさいだろう。
それがどこか遠く聞こえているのは、聖姫の暮らす離宮が、王城からやや遠い場所にあるからである。
それにしても、姉上を守るための護衛が、どうして来てくれないのだろう。
まさか姉上は見捨てられたのか?
いいやそんなはずはない、だって姉上はこの国で最も尊い、聖姫、という称号を神から与えられた王女なのだから……
「それにしても今に至るまで、聖姫を守るための兵士が、城から送られてこないのはどういう事でしょう」
おれと同じ事を、侍女の一人が呟く。
それに同意して頷く他の侍女たち。
「聖姫は国の柱の一人、護衛が来ないわけがないのに……」