帰還
──バーミリオン王国。
それは世界有数の列強であり、純粋な魔法と魔石という魔力が含有された鉱石を併用した《魔導技術》の最先端を行く王国でもある。
そして国王アルフレッド四世が座する王都は、四方を高さ六十メートル、一辺の横幅五キロほどの白亜の市壁に囲繞された巨大都市である。市壁はかつて国内で対立していたとある異民族が王都への侵攻を図った際に充分役目を果たしたこともあり、現在では定期的に点検が行われる。国王曰く、壁上から拝む日の出は実に美しいらしい。
王都北部にある絢爛豪華な造りの居城は、城下町からでも昼夜目視でき、国民に活気を与えてくれる。様々な種族が交易のためにこの王都を訪れ、総人口は世界一位の二千万人であった。
「……まさに、かのアルフレッド王が座するに相応しい都だな」
ところどころを汚している作業服を着たペンキ屋のフランクは、両手を肩の上にうんと伸ばしながら、一人の同僚に語り掛けた。現在の時刻は午後四時、定時まであと三十分ある。
「んなこと言ってねーでよ、手前の持ち場は終わったのか、フランク!」
呼応したのは同僚のロイド。只今の彼は命綱をつけて外側の塗り直しをしているのだが、定時まであと三十分しかない現状で世間話をしているフランクに怒鳴り、仕事へ戻らせようとした。今日中に塗装を終えなければ、給料が差し引かれてしまうからだ。
『白亜の市壁』は伝承によると天に住まう神々から賜った王都の守護壁ということになっているが、これはれっきとした人工物であり、白亜の色も落ちる。それ故、神聖味を持たせるために五年に一度、塗り直す作業が恒例となっているのだ。表面積の割に日数は八日しか与えられない。
「……おい、ありゃあなんだよ」
だのに、フランクは仕事に戻らない。彼の担当場を手伝うために残業しなければならないのはもうこりごりだと嘆くロイドは、フランクの体が百八十度回っていることに気づく由もない。
一方、フランクは信じられないものを見ていた。
沈むゆく夕日に交じって、何かが飛んでくるのである。彼の脳裏を『魔獣』という災厄が過った。かつて多くの種族を襲い、喰らい、絶滅まで追い込んだという大災害。それは【魔獣の大津波】と呼ばれ、現代にも伝わっている。
「ろ、ロイド! 警鐘を鳴らせ! 魔獣だ! 魔獣が来たぞ!」
「はあ。……おい、寝ぼけてじゃねえぞ」
いつもの冗談だろうとロイドは意に介さず、ひたすら壁に白を塗り込んでいる。
「ほ、本当だって! 見てみろ!」
それでもなおしつこいフランクはその方向を指差し、迫真の表情で危機を訴える。その声にようやくロイドはフランクの体が回っていることに気づいて壁をのぼり、それから彼の指先が差す方向に目を凝らした。
「……なんもいねーじゃん」
ロイドは唖然としているフランクの後頭部を叩き、作業に戻ろうと思った次の瞬間──謎の突風が吹いた。あまりの風に身を翻していたロイドは背中にそれを受けてしまい、抵抗虚しく絶叫しながら落ちていった。幸い、命綱が機能したが、死を覚悟してしまったことで体に力が入らなくなっている。仕方なくロイドはフランクに呼びかけて引き上げてもらおうとしたが、仕返しのつもりか、彼は呼応してくれなかった。
フランクは茫然と立っている。眼前で見えなくなった何かを探すように、三白眼で虚空を睨んでいた。
フランクが正気を取り戻したのは十分後のこと。
と同時に、彼は急いでロイドの引き上げに向かった。
王都にて居城の次に存在感を持つ五千坪の大豪邸から、轟音が響き渡った。
近隣の住民はどうせまた彼が何か実験したのだろう、と慣れた様子で気にも留めない。
「──これは、修理しないとだな」
嘆息するのは、そんな邸宅の所有者であるエドワード・ウィズ・ルキウス。きめ細かいブロンドの短髪と海のように澄んだ青い双眸を持つ彼の齢はまだ二十であるが、それでも王国内で希代の魔導士と謳われる実力を持つ。魔導士というとローブを着て杖を持っているイメージであるが、身長百八十センチ、体重七十キロの若干細身の彼が着用しているのは、加圧シャツと吸汗性能の高いスウェット、そして無印の青スニーカー……とても、魔術師という風采ではない。
そんなルキウスがいるのは邸地下にある作業場である。そこに運び込んだ諸々を整理しつつ、組み立てた鎧を吊り上げ、損傷具合を触れたりなどして直接確認していた。
「まさかエネルギー切れを起こすとは計算外だったな。魔法は乱発していないはずだが……。いや、迂回して飛んだのが原因だな。予定していた航路とかなりずれてるじゃないか」
こりゃアドレナリンのせいだと口に出しながら、ルキウスは『アテナ』を起動した。
『アテナ』とは、ルキウスが魔法によって生み出し、鎧に付与したアビリティの一つである。主な役割は周辺地理の把握などだが、このアビリティには『成長』があり、学びながらより優れたものへと進化していく。それ故か、現段階ではあまり優秀とは言えない。
だが、魔導士と言えども、アビリティの作成はできたら一流とまで言われている。難度は極めて高いが、その分種類は無限大で独創性あるアビリティを生み出しやすいため、その才能があると見込まれた者は魔学研究会という場所から研究費用を援助してもらえる。
【──起動しました。何か御用でしょうか】
「特に用はない。作業の間は暇だから話相手になってくれ」
吊り下げた鎧の前に車輪のついた三段の作業箱を引いてきたルキウスは、その一番上に乗っている瓶の蓋を開けて中にあるファッジを摘まんで口に放った。味蕾を刺激する甘味の正体はフレンの実と呼ばれる果物とマシュマロをベースにしているため、甘すぎるくらい甘い。ルキウスは研究に没頭しすぎるきらいにあり、時には一日一食になってしまう時もあるため、せめて糖分くらいは接種してほしいと彼を気遣った人物が度々作っては届けに来ていた。その好意を無碍にするわけにもいかず、作業中は頻繁に口の中に入れるようにしていた。
「アテナ、武器を行使する際の魔力量の差を出してくれ」
ルキウスの言に従い、アテナは『刀』などの六つの装備が一秒間に消費する魔力の差を見やすいように円グラフにまとめ、鎧の表面に映し出していた。
先の山賊との戦いで見せた武器の浮遊は、純粋な魔法ではなかった。あれは『純正の魔力』をルキウスが発明した物の動力源となるよう『魔力エネルギー』へと変換し、それを用いたトリックである。タネは簡単で、鎧周囲に魔力を含有した武器を引き寄せる磁場を展開し、落下しないように固定していた。更に磁場を拡大することで、その範囲内でのみ武器を自由に扱うことができる。
元が魔力であるものを使用しているため、魔法と言えば魔法に違いないが、やはり子供が読む絵本に登場するような如何にもな魔法使いが披露するような派手なものではない。
そも魔法、と言えば火の玉や水の玉を想像されることは多いが、それらが活躍する時代はとうに終わったのである。現代で魔法とは、あくまで生活を楽にしてくれる手段に過ぎず、戦闘では刀槍が主流となっている。何分、現代の魔導士の魔導回路を循環している魔力量は微々たるもので、魔石から直接魔力を得なければ、火の玉一つ放つことはできないのだ。そして魔石は安価でないため、非常に効率が悪い。
それ故、現代では魔導技術と呼ばれる、魔法を基盤にした新たな技術が進歩している。ルキウスは魔石から抽出した魔力に手を加えることで人工的なエネルギーを生み出し、それを基にしてあらゆる発明をしてきた。
「飛行距離を伸ばしたいがこの回路じゃ限界がある。速度よりも距離に重きを置けば……」
【もし六時間以上の飛行をお望みであれば、ご搭乗なされるのがよいかと】
「まあ、一理あるな。さっきは思念が届かずに動きを止めてしまったこともあるし、遠隔操作は問題が山積みだ」
思わず笑みが零れ、ルキウスはそこにファッジを放り込む。
現在彼が手入れをしているのは鎧である。鎧とは、着る防具である。遠隔で操縦し、安全圏から敵を攻撃するものではない。
「……それじゃあアテナ、僕の推定レベルを出してくれ」
推定レベルとは、一般的に個人の総能力値から算出される強さの度合いである。この王都には冒険者、と呼ばれる傭兵がおり、彼らは国王直轄のギルドと呼ばれる組合に所属している。主な任務は商人の護衛や獰猛な魔獣狩りであり、それぞれの技量を示すこの推定レベルというものが重要になってくる。初見の依頼者でも、己の依頼にあった冒険者を供にするのがよいからだ。推定レベルが高くなるほど、必然依頼料も比例していく。
先月発表されたギルドに所属する冒険者の平均レベルは、三十二であった。
【ルキウス様の推定レベルは、三十でございます】
それを聞きつつ、ルキウスは口腔内の甘ったるさを流すように砂糖なしのブラックコーヒーを含んだ。自身が生み出したアテナの計測に狂いはほぼない。そう自負しているからこそ、このコーヒーを余計に苦く感じてしまった。
「そういうわけだ。動きは頭で考えられても、体がついてこない。なら、いっそ頭の中で戦った方が合理的で、しかも強いだろう? それに、僕は痛いのが嫌でね。この手で人を殴るのも勘弁だ」
ルキウスはお道化るように肩を竦め、作業を終えた。
「さて、夕食はピザを注文しといてくれ。味は何でもいい。高いやつを一つ」
【……ルキウス様。僭越ながら、一つご提案がございます】
不意に、アテナは珍しいことを言った。
自我がないはずのアビリティが主人の意見を流してまで何かを提案してくるのは、成長しすぎている気がしなくもなかった。まるで子供が大人になっていく過程を見守るようだが、生憎アテナに感情はない。
「……行ってみろ、可愛い我が子」
【古今、自力で空を飛んだ者は神話や伝説を除いて一人も存在しません】
「そうだな。現代の魔法使いは空を飛べない」
【その現代にはルキウス様が開発なされた飛行制御装置を実現した完全自動航空機がありますが、あれは風の影響を受けやすく、貿易以外での用途はありません】
「まるで馬鹿にされてる気分だが、まあその通りだな。あの揺れに堪えられる奴はそういない」
いずれにせよ、元々人間を大量に輸送する意味などない。何せ、他国と定めている国境を許可なしに一歩でも出てしまえば不法入国、戦争になる。二百年ほど前までは船を用いた奴隷貿易が行われていたが、廃止論が唱えられてから奴隷の需要は減っていき、やがてなくなった。
折角の航空機もあくまで貿易品の輸送という目的以外、現状使い道はない。
【では、ルキウス様が初めてになるのはいかがでしょうか】
「いい響きだ。ちょっと発情した風に言ってみてくれる?」
【ご要望とあらば。……うふん】
「もういい、結構だ。その声を二度と僕にきかせるな」
軽い気持ちでリクエストしてからコーヒーを啜ったが、想像の斜め上をつく声音に危うく吹き出しかけた。ルキウスは咳払いをした後、修理の完了した鎧へと目を向ける。
この装甲の下には、ルキウスが発明した『疑似魔導回路』が搭載されている。人間は血管の裏側にある魔導回路を流れている魔力に働きかけることで魔法を発動できる。この鎧に組み込まれた回路も全く同じ手順で魔法を発動するが、従来の魔力に比べ、ルキウスが生み出したエネルギーは質量が小さい。また、鎧に血管はないため、その分長い回路を搭載することができる。それ故に、人間よりも遥かに多い魔力量を中に循環させられ、あらゆる魔法を行使することができるのだ。また、思念を送ることで遠隔操作も可能になっており、わざわざ搭乗して本人が戦場に赴く必要は皆無だった。
(……父さんの二の舞になるのはこりごりだ)
──ルキウスの父は一貴族に過ぎなかった。しかし、十年前に勃発した帝国との戦いでは貴族会議において代表に選出され、彼の父は家族を残して戦場に出向いた。苛烈を極めた戦争は両者の和平によって終わりを告げたが、彼の父は右腕しか帰ってこなかった。彼が乗っていた馬の口取りを務めていた男は、貴方の父は真に勇敢な最期を遂げたとルキウスに報告した。
だが、真実を問い質してみると、本当は誰もその死に際を見ていないと真実を告白された。人知れず死んだというだけで、父の戦死そのものの意義が失われた気がしたのだ。
(人を殺すのは寿命だけでいい。まして、戦争なんてどちらも悪だ。悪人が悪人を殺す戦さに、一体何の価値がある?)
どれだけ考えても答えはでなかった。だからこそ、ルキウスはこの鎧を是が非でも手に入れ、己の手で改造を施したのだ。この行動が、いつかは世界を平和に寄与するのだと信じて。
「……悪いが、提案は却下だ。僕は、あくまで操縦者であり続ける」
ルキウスはそれだけ言い、空を飛ぶことを固辞した。
アテネもそれ以上は何も口にせず、「了解しました」とだけ短く告げた。
【ルキウス様。玄関にて来客がお待ちです】
「……? もう五時過ぎだぞ、一体どこの誰だ?」
【シノン様でございます】
その名前に、ルキウスは眩暈を覚えた。ここ数日は鎧の調整で碌に眠れず、本日の仮眠も一時間程度で、しかもアテナの喧しい音量の歌声に起こされていた。完全に不眠症であり、今まで溜まっていた疲労がその人物の名前によって一気に襲来したと言って過言でない。
「……追い返せ」
【突破されました。現在地下に向けて進行中でございます】
玄関に設置された不法侵入者用の迎撃装置は全てルキウスが自身で設計したものだが、それを軽々と乗り越えてくるとは恐るべき身体能力の持ち主である。否、王都屈指の冒険者であってもこう易々と侵入はできまい。
「やはりそこらへんのことはアテナに一任しよう。……兄妹じゃあ、思考が読まれるからな」