完全変態
『カブトムシの蛹は、中身がどろどろになっているんだよ』
そう教えてくれたのは、僕の叔父さんだった。
完全変態、というらしい。
幼虫の時と、成虫になった後で食べるものを変え、餌の取り合いにならないように。
肺炎と診断されて、毎日が退屈だった。
見舞いだと言って友だちが持って来てくれた漫画雑誌も、すぐに飽きてしまった。
お母さんが「暇つぶしにこれしなさい」と色鉛筆とぬりえを置いていったけど、正直やりたくなくて困ってる──。
昨日まではまだましだった。
隣のベッドに同じ小学四年生の男子がいて、学校は違ったけれどゲームの話が出来て楽しかった。
けれど、夜中のうちにICUとかいう特別な部屋へ移ってしまった。
あんなに元気だったのに、急に病気が悪くなったのかもしれない。
四人部屋に今は僕一人だ。
朝と昼過ぎ二回襲ってくる点滴の時間。お熱計りますよ。ご飯ですよ。お薬ですよ。
退院するまでこれが続くのか。
「あーあ」
「ん? どうしたの。何か困ってる?」
廊下を通り過ぎようとした看護師さんが、おっとっと……と足を止めた。
「ヒマ」
「うーん、そうだよねえ。みんな言うんだよねえ。あっそうだ、お昼はデザートにプリンつくよ。いいねー」
プリンでどうやって暇つぶししろと?
「さっき、朝ご飯食べたばっかじゃん。お腹空いてないよ」
「食べられるだけでいいから食べてごらん。その方が早く良くなるからね。──カーテン開けてくね」
看護師さんは、僕の病室に入ってきてサッとカーテンを開けた。
眩しい。
「ほら、いい天気だよ。夏も近いねえ」
だから何?
友達とサッカー出来るわけじゃないし、公園で虫取り出来るわけじゃないし。
──虫──。
そういえば、同じ病室にいた四年生が前に言ってた。
「この病院でね、カブトムシの幼虫見つけたんだ! でもね、お母さんが虫は飼っちゃダメって。おれ、いつかこっそり取ってやるんだ! あそこだよ!」
そう言って、この病室の真下にある木を得意そうに指差した。
看護師さんが出て行ってから、僕は窓辺に立ってみた。
ぽかぽかした日差し。
陽だまりの匂い。
カブトムシ。
「欲しいなあ」
実は、一度も飼ったことがなかった。
夏休みの自由研究はカブトムシの観察とかさ。
そういうのいいじゃん。
幼虫飼うくらいいいじゃんか。
僕は真剣にプランを練った。
1、パジャマの中にジャージを装備。
2、使い捨てのスプーンとか使えそうなアイテムを入れたリュックを持って、売店に買い物行く振りをしながら看護師さんたちの前をスルー(余計な戦闘は×)。
3、一階のトイレで脱いだパジャマをリュックに入れて、正面出入り口から堂々と外へ出る。
4、木のところへ行ってカブトムシの幼虫GETでミッションクリア!
全部が思っていた以上に上手くいった。
クエスト系のゲームみたいなもんだ。
看護師さんたちに少しも怪しまれることなくベッドに戻ってきた僕は、早速、取ってきたばかりのカブトムシの幼虫を飼い始めた。
工作したいと言って、お母さんに持って来て貰った一・五リットルのペットボトルの下半分をカッターで切り、幼虫と一緒に持ってきた土を入れて。
そして、ベッドとロッカーの隙間に置いた。
クリーム色をした太った生き物。
定規を当てると、八センチ近くはあった。
穴を掘ったり、地上に出てきて壁伝いに立ち上がったり、結構動く。
「オスかなあ、メスかなあ」
「うれしそうだね。いいことあった?」
看護師さんに言われて、ドキリとした。
「ううん、別に。何でもないよ」
この人にバレたら一〇〇パー取り上げられる。
そんなの絶対に嫌だ。
このことは秘密だ。
絶対に。
『幼虫は、ああ見えて刻一刻と成長しているのさ。
丸々と太った体の中ではもう、蛹になる準備が始まっているんだ。
頭から一枚皮を脱いで、あいつらは幼虫の形から蛹の形になるんだよ』
幼虫はバクバク土を食べてくれる
僕とは違って、いつでもお腹が空いているみたいだ。
朝起きて、ペットボトルを見るとたいてい幼虫の方が先に起きている。
「おはよ」
容器が透けているおかげで、土の中にもぐっていても幼虫の様子がよく見えた。
「……ん?」
幼虫の頭の辺りに何かが透けていた。
ぐにゃぐにゃしていて、脳みそかと思った。
でも違う。
皮の内側に、筋みたく模様がある。
もうすぐ蛹になるのかもしれない。
僕はうれしくなった。
体長もこの数日で十二センチを超えていた。
僕もびっくりした。
かなりのレアサイズだ。
叔父さんが言っていたよりも大きくなるのが早い。
「なーんか、人の顔みたいだなあ」
模様は複雑で色んなものに見えた。
僕が見ているこの皮を脱いだら、図鑑とかでよく見るようなカブトムシの形とほぼ同じ茶色い蛹になるんだろう。
叔父さんも言っていた。
こうやって体の中で、蛹になる準備をしているんだ。
次の日には、模様がもっと濃くなっていた。
近づくと土の臭いがつんとした。
幼虫が動くたび、半透明の皮越しに二つの白い斑点がぎょろりぎょろりと一緒に動いた。
そしてそれはたまに中で閉じたり開いたりした。
「こんなんだったっけ……」
次の次の朝には、別なものが透けて見えていた。
中身はボコボコした塊になり、それが幼虫の形をした薄皮を被って移動しているように見えた。
白い斑点の他には、二つの小さな穴のような点々。
その下の大きな空洞からは、長くてピンク色をした器官がズルズルと出てきては、何もせずに引っ込んでいく。
僕はだんだん心配になってきた。
本当にこれ、カブトムシの幼虫……?
そしてあちこちに穴を掘っていたくせに、夜になると幼虫はだんだん動かなくなった。
蛹室とよばれる部屋を作って、そこで蛹になるつもりなんだ。
消灯の時間が過ぎても、僕はドキドキして眠れなかった。
ペットボトルに顔を近づけ、細かいところまでよく観察した。
朝見た幼虫の姿とは、色も形も随分と違っていた。
脚はほとんど動かず、赤茶色い顎だけでもくもくと土を削っていた。
全身には内部の様子が透けて見えていた。
ぎゅっと縮まった四本のひょろ長いもの。
滑らかなカーブに続く桃を逆さにした形。
枝分かれした細かな赤い筋。
……こんなやつ、どこかで見たことがある。
僕は考えた。
そうだ、あれは──。
「あっ!」
思わず、僕は容器を落としそうになった。
違う。
絶対に違う。
僕は恐る恐るペットボトルをベッドの脇に戻した。
ちょっと待ってよ。
どうしよう。
……カブトムシの幼虫じゃない。
涙が出てきた。
勝手に体がぶるぶる震えだす。
何だアレ。
僕、何を連れてきた……?
ベッドに潜り、頭から布団を被った。
けれどそのすぐ脇には、≪アレ≫がいる。
どうしよう。
どうしよう!
頭から一枚皮を脱いで、あいつらは幼虫の形から蛹の形になるんだ──。
叔父さんの言葉が、頭の中をぐるぐる回った。
餌の取り合いにならないように、完全変態するんだよ──。
羽化したカブトムシはもう土を食べない。
何、食べる気だ──?
ピシッ
静まり返った病室で、何かに亀裂が入るような気配がした。
ズ、ズ、ズ……
皮を脱いでいるのだろうか。
何度も休みながら、そんな音が聞こえてくるようだった。
必死に僕は耳を塞いだ。
そして、考えた。
蛹のうちに木のところへ戻そう!
≪アレ≫の住処はこの病院の木の下なんだからな!
その方が絶対いいって!!
朝になって、ビクビクしながら僕はそっと耳から手を離した。
音はもう聞こえなくなっていた。
少しホッとした。
蛹になればひと月くらい経たないと羽化しない、と叔父さんも言っていた。
僕はベッドとロッカーの隙間を覗き込んだ。
薄暗い病室の中で、手の平サイズの奇妙な≪アレ≫が、蛹になってペットボトルの土の中にいた。
脱いだ皮の上で、幼虫とは別物の姿に変わっていた。
灰色っぽくてしわくちゃで、大きな頭。瞼があり、胴体らしいところに手足がくっついているのを見てぞっとした。
「うえぇ……触りたくね」
でも、仕方ない。
取ってきたのと同じ作戦で、僕は≪アレ≫を木のところへ戻しに行った。
悪いとは思ったけれど、穴を掘ってペットボトルごと埋めるしかなかった。
「終わった……」
ほっとしたら足の力が抜けた。
僕はその場に座り込み、そのまま土の上に横になった。
寝てないせいか、急に眠くもなってきた。
ふいに気配を感じた。
「……っ」
足元を見ると、灰色の頭が足首に吸いついていた。
血管が浮いて突き出た白目。
味見するようにそこら中を嘗め回す長い舌。
≪アレ≫だ……!!
僕は負けた。
ミッションは失敗だったんだ。
「叔父さんの、ウソつき──」
≪アレ≫と目が合った。
僕に向かって、ニヒヤーッと笑った。
頭の後ろがふわっとしてきて、僕の目の前が真っ暗になった。
了
最後まで読んでいただきありがとうございました。