参:かつてあった日
空がある。青い空だ。離れたところから鳴いている蝉の声が響いてくる。午後の日差しが打ち水に反射して光っている。その光に目を眇めながら、わたくしは庭に面した廊下を歩いていた。
ちりん、軽い鈴の音がしてわたくしは足を止める。目を伏せて隅へ。
伏せた視界に、白い足袋と藍染めの裾が見える。絹糸で紡がれた刺繍のその細やかさにも、特にわたくしは何の感慨も抱かなかった。数人の気配が廊下を曲がったところで、わたくしは顔を上げた。
ひそひそと囁くような声が聞こえる。
いつものことだ。とわたくしは思った。そしてまた歩き出す頃にはそれらも意識から捨て去った。
「失礼します」
一声かけてから、すらりと障子を開ける。顔を上げる気配に合わせて手にしていた包みを畳の上に置いた。
「お師さまから預かって参りました」
顔を上げずに視線は少しだけ前に。大丈夫だろうか。見える自分の指先は震えていない。声もちゃんと発することが出来た。きゅ、と軽く口唇を締めて、わたくしは伏せたまま相手の反応を待った。
「よぉ来たな、まぁゆるりとしていきんさい」
柔らかく落とされる声に思わず顔を上げそうになって、すんでのところで堪える。『上げて良い』とは言われていない。
「志野は息災かえ?」
問われる声に姿勢を崩さないまま「是」と答えた。大丈夫だ。声は震えていない。呼吸だって乱れていない。
ふぅ、と軽く息を吐いた音がした。なにがしかの感情を込めたような吐息だった。
「……お前さんも苦労するなぁ、」
同情と憐憫の色。なんと応えたら正解なのかを考えて、その答えが見つからない自分が酷く情けなく思えた気がした。
「ほんまに嫌なんやったら断ったってええんに」
言えんのやろ、と問いかけの形の確認をされる。
わたくしは伏せたまま頭を振った。
「お師さまにも、他の方にも、大変良くしていただいております」
嘘ではない。決して、嘘ではない。
腫物に触れるように繊細に、いっそよそよそしくわざとらしいほどに気遣ってもらっている実感はある。離れた途端に発せられるひそひそ話も、陰口も、全て表立って言えないことなのだろう。それぞれに立場というものがある。
「……まぁ、あんまり無理したらあかんえ」
ぽん、と頭に手を乗せられる。それがとても優しい仕草で撫でていくのを、わたくしは奇妙な程に冷静に受け止めていた。
感情など疾うに捨てていたし、痛むものも傷むものももうないと思っていた。
「ありがとうございます」
最適だと思われる反応を返して、最適だと思われる答えを出す。そうでなければならないと言われていたし、そうしなければならないと教わったからだ。
「ところでな、」
嘆息と同時に声が落ちてくる。
「ちょっとお前さんに頼みたいことがあってな。
……まぁそろそろ顔を上げや。儂かてお前さんの顔が見たいんや」
はい、と応えて顔を上げる。直接目を見ることはしない。眼と眼の間、眉間から鼻にかけてのあたりを見て、わたくしは次の反応を待った。
「……清世を憶えておるかえ?」
「はい、……継さまのお義兄さまです」
「そうか、憶えてるんやったらええんや。その清世がな、来月戻ってくるんや」
「予定よりも随分お早い帰国ですね。確か、予定では来年の末だと記憶致しております」
「そうなんや。修学も臨床も全て予定より早く終わったらしくての……戻ってくるんはええんやが時期が時期や。
……まぁ、何が言いたいか言うとやな、お前さんとこでちょっと預かってくれへんか、いう事やな」
目の前にいる老人の、と言うと失礼に当たるだろうが―まぁそれは良いとして私は困惑した。ように表情をゆがめて見せた。恐らくと言わずこの老人は私の立場や置かれている環境やら処遇やらそういったものを全て把握しているはずで、その上で無理難題に近いことを頼んできている。いいや、だからこそなのだろうか。
「……申し訳ございませんが、わたくしの一存で今すぐにお答えすることが出来ません、何よりお師さまの許可も頂かないといけませんし」
「……まぁ、それもそうやな。志野には儂から話しておくさかいお前さんも考えておいてくれや」
「かしこまりました」
「継には言うたらあかんえ」
「承知致しております」
「志野にはこれを渡しておいてくれるか」
懐から出された白い封筒に入れられた手紙を両手で受け取り、私は軽く一礼した。畳の縁に整えられた市松模様が何ともなしに目に入る。
「そや、せっかく来たんやから茶でも一服どうや」
本題が終わって気が抜けたのだろうか。口調は変わらず穏やかだが含められた感情が違うもののように聞こえる。
否、とわたくしはやんわりと断りを入れる。
「有難いお誘いですが、お稽古が残っておりますしお師さまに先程のことを相談しなければなりませんので」
「そうか、」
「また機会がありましたら、宜しくお願い致します」
丁寧に三つ指をついて頭を下げる。揃えた自分の指先に目線を落とすと、赤く荒れた皮膚が見えた。あとで軟膏を塗っておこう。痛みは感じないけれど。
「宜しくはこちらのほうや。……あやつのこと、頼むで」
話題の終了を感じ取って、わたくしは更に深く頭を下げた。
「それでは、失礼いたします」