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魔女と呼ばれた彼女  作者: 紫乃緒
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弐:ある月夜

 音が遠い。しぃんと静まり返った空間だけがそこにはある。最近漸く見慣れた寝室。沈黙と静寂が占めるその世界で、ふぅ、彼女は少しだけ息を吐いた。閉じていた瞼を持ち上げて、微かな光を頼りに枕元をまさぐる。

 お目当てのスマートフォンを見つけて現在時刻を確認。午前1時24分。ふぅ。思わず先程よりも重く息を吐き出して、彼女は諦めたように身体を起こした。ばさりと布団を投げると、冷たい夜気がじわりと身に沁みる。サイドテーブルに放り出していたカーディガンを羽織り、素足のままカーテンを開ける。今宵は上弦の月だ。淡い白金の光が世界を優しく満たしている。眠れないのはこんな美しい夜だから、という訳ではない。

 いつものことだ。

 眠ろうとする時が一番おそろしいのだ。

 ならばいっそ眠らなくても良い、そう思ってしまう。

 音が響かないようにと努めて静かにドアを開け、誰もいない廊下を歩く。厚手のカーテンが閉め切られているけれど、常夜灯があって足元はそれほど暗くない。

 目当てのドアの前に立ち、心を落ち着けるために深呼吸。吸って、吐く。

 よし、と変な気合を入れて。ノックしようと手を挙げたタイミングでドアが開いた。


「っ、」

「どうぞ、」


 驚く鼓動の跳ねるままに「驚かせないで」と責めたてる類の言葉を放とうとして、飲み込む。やわらかく優しい声と、その声に見合うような穏やかな微笑。恐らく目の前にいる彼は、自分が眠れないということを予測していたに違いない。そしてきっと自分の許を訪れるだろうという確信をもって、けれどこんな夜中に訪れる非礼や無礼や無遠慮やそういったものを自分が感じなくても良いようにと《自ら迎え入れて》くれたのだ。

 更に言うならこういう突飛にも近い行動をとることで自分が感じてしまいがちな遠慮や卑下といった卑屈な感情を感じなくても良いようにという配慮。いや、流石にそれは穿ちすぎだろうか。

 目の前で泰然と笑む彼からは純然な好意しか見えない。

 ならばこういうべきだと思った。



「ありがとうございます」










 通された彼の部屋は、自分用にあてがわれた部屋と同じように見慣れたものだった。自分の部屋と決定的に違うのはベッドがないことだ。その代わりのようにものすごく座り心地の良いソファがある。広い部屋に見合ったカウチソファと、二人掛けと一人掛けがそれぞれ一脚ずつ。中央にあるテーブルも深みのある黒檀だ。綺麗な細工彫りを何ともなしに眺めていると、ことりとマグカップが置かれた。ほわほわと湯気を上げるそれは、甘味のある香りのお茶。


「ほうじ茶で良かったですか?」


 問いかけの形を取った確認だったので、少し笑みながら頷いておく。ここで「嫌」とか「ダメ」とか言ったらどうするんだろうとふと思ったが、ほうじ茶は嫌いじゃない……というより、好きだ。緑茶よりもまろみがあるというか、渋みが少ないような気がするからだ。

 両手でマグカップを包み込んでふぅふぅ、息を吹きかけて冷ます。

 ずず、と啜り飲んで喉から鼻に向かって広がっていく独特の香ばしい香りに息を吐く。一人掛けのソファに座った彼も同じように啜り飲んでいるのを見て、ふと。

 なんでこのひとはこんなにも自分に良くしてくれるのだろうか、という今更すぎるほど今更な疑問が浮かび上がった。

 所謂負い目や引け目、或いは義務感のような遠慮に近いものを彼からは感じない。呼吸をするように当然に、それも極々自然に。甘やかし、尊重し、肯定してくれる。《そうするだけの理由があるんだろうか》、そんなことを考えたけれど、例えば素直に問うてみたところで彼からその答えを引き出すことは出来ないだろうという確信があった。

 いいや、正確には違う。問うたら答えてはくれるだろう。

 その「答え」を「理解出来るか否か」はまた別の問題だ。

 心中でそんなことを考えて、やはり彼女は沈黙を保った。沈黙が苦ではない。むしろ心地よい。特別なことを言わなくても相手に伝わるだろうという変な確信があった。それは付き合いの長さもそうだし、無意識に表れる仕草や呼吸のテンポでなんとなく解るものもあるからだろうか。

 ふ、と目が合った。何ともなしに微笑すると当然のように微笑み返される。思わず恍惚するような微笑だ、と思った。


「そういえば、」


 薄い口唇から放たれるのは耳慣れた低い声。


「何でしょう」

「多少は慣れられましたか」

 

 何を、とは彼は言わなかった。すぐに答えを出すには迷いがあったので、彼女は少しだけ思考した。視線を落とすと、マグカップに注がれた琥珀色のほうじ茶が見えた。

……恐らくは今自分が置かれている環境や生活全般、更に言うなら自分の身体のことも含まれているのだろうと判断して、彼女はゆっくりと顔を上げる。そこには目線を落とす前と全く変わらない微笑があった。


「おかげさまで、少しずつ慣れてきています」

「そうですか、それはようございました」

「あの、」


 ゆるりと笑みを深くした彼に、つい声をあげてしまう。その先を促すように首を傾げた彼の幼く見えるような仕草に無意識に入っていた肩の力が抜けたのを自覚した。

 先程浮かんだ疑問も何もかもがどうでも良くなるような気がした。恐らくそれは気のせいで、何の解決にもなっていないし自分が抱えているものが消えた訳でもない。

 それでもまぁいいか、と思ってしまったのだ。それが正しいか間違っているかは解らなくとも。


「まだ本調子ではないでしょう。眠れる時に眠り、食べられる時に食べて、動ける時に動くようにしましょう。無理は禁物ですからね」


 諭すように優しく言われて、彼女は頷いた。








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